第4話「病を遠ざける知恵」
澪が村に来て四日目。
子どもたちの笑顔は少しずつ増えていたが、まだ不安は尽きなかった。
その日、村の広場に足を運んだ澪は、胸を痛める光景を目にした。
焚き火のそばで数人の子どもが咳き込み、母親たちが背をさすっている。
「昨日からずっとなのよ。薬もなくて……」
母親の声は掠れて震えていた。
――これはただの食糧不足だけじゃない。
澪はすぐに気づいた。
家々の中は湿気と土埃にまみれ、食器は水桶でざっと濯ぐだけ。
井戸の水も冷たく澄んでいるように見えるが、口をつけるたびに不安が胸をよぎる。
「……衛生状態が悪いのかもしれない」
澪は村人たちを呼び集めた。
「まずは、手を洗いましょう。外から帰ったとき、ご飯を食べる前に」
「水だけで?」
「水だけじゃ足りない。灰や砂でこすってもいいし、できれば石鹸みたいなものを……」
村人たちは首をかしげた。石鹸など知る由もない。
澪は焚き火の灰を掬い、桶の水で溶いて見せた。
ざらりとした灰水で手を擦ると、油っぽさが取れるのを示す。
「灰も立派な洗剤になるんです。これならどの家でもできます」
さらに、食器や器具は湯を沸かして浸けるよう勧めた。
「熱湯をかければ、目に見えない悪いものも減るんです」
村人たちは「なるほど」と感心していたが、すぐに不安そうに顔を見合わせた。
「でも、そんな面倒なことをしても……本当に病が減るのか?」
その時、咳をしていた子どもが澪の裾を掴んだ。
「……苦しいの、なおる?」
澪は膝をつき、子どもの目をまっすぐ見つめて頷いた。
「すぐに全部治るわけじゃない。でも、これを続ければ元気でいられるようになるよ」
◆
衛生の工夫と並行して、澪は薬草の利用も教えた。
村の外れに群生していたタイムに似た草を摘み、乾かして煎じる。
香り立つ湯気を吸わせ、少しずつ子どもたちに飲ませた。
最初は苦そうに顔をしかめた子もいたが、次第に咳の音が和らぎ、呼吸が楽になっていく。
母親たちは目に涙を浮かべて口々に言った。
「……ありがたい……」
「まるで神様の知恵だ」
澪は首を横に振り、微笑んだ。
「神様じゃありません。ただ、人がずっと昔から守ってきた知恵なんです」
◆
数日後。
村の広場で遊ぶ子どもたちの声は、以前よりもはつらつとしていた。
母親たちは食器を煮沸し、干した薬草を家に常備するようになった。
井戸の周りは以前よりも清潔に保たれ、使い終えた水はきちんと溝に流されている。
「澪さんが来てから、この村は少しずつ変わってきたな」
壮年の男がそう言うと、他の村人たちも頷いた。
「病で泣いてばかりいた子が、今は走り回ってる」
「本当に先生みたいだ」
「せんせい!」
子どもたちが澪に駆け寄ってきて、裾を引っ張る。
「ねえ、次は何を教えてくれるの?」
――先生、か。
澪の胸に熱いものがこみあげた。
◆
その夜。焚き火の前で一人、澪は思案していた。
子どもたちの笑顔。母親たちの安堵の涙。
それは確かに力になっていた。だが、同時に不安も募っていく。
「口で伝えるだけじゃ、いずれ忘れてしまうかもしれない」
澪は呟いた。
――記録しなければ。言葉や絵にして残せば、この知恵はもっと広がるはずだ。
火の粉が夜空に舞い上がり、星々へと溶けていく。
澪の瞳はその光を映し、ひとつの決意を固めていた。
「……ノートを作ろう。必ず」