第16話「領主の耳」
夜学は村を越え、じわじわと広がり始めていた。
澪が書いた誌面は、サミュエルの行商袋に紛れて近隣の村へ運ばれる。魚や木材の代金と一緒に折り畳まれた紙を渡すのだ。村の娘が紙を広げ、見よう見まねで護身術を試し、別の村の男が冷却箱の図を写し取り――そうして噂は道を越え、川を渡り、町にまで届きつつあった。
「武術を学ぶ村人がいる」
「魔法を庶民に教える者がいる」
「雑誌というものが夜ごと出ているらしい」
その噂は、やがて領主館にも届く。
「くだらん……」
豪奢な椅子に腰掛けた領主は、鼻で笑った。
「一度忠告してやったはずだ。だが奴らはまだ続けているというのか」
側近が控えめに言う。
「領主様、噂では村々の者が団結し始めているとか……」
「馬鹿者。農民が寄り集まったところで何ができる。だが――念のため、目を光らせておく必要はある」
領主は指を鳴らした。闇の中から黒衣の密偵が姿を現す。
「夜学とやらを探れ。誰が頭か、何を広めているのか……つぶすのはそれからだ」
◇
その夜。
焚き火の明かりに照らされる広場は、いつものように熱気に包まれていた。
子どもたちは互いに手首を取り合い、カインの教えた護身術を繰り返している。
「掴まれたら、肘をひねって力の流れをずらせ!」
カインが声を張ると、少年が少女の手を軽く捻り、ぱっと抜け出した。
「できた!」
歓声があがり、周囲の子どもたちも真似をする。
女たちも列に加わり、カインが次の技を示す。
「相手がのしかかってきたら、足を踏み出し、腰をひねって体をずらす。力をまともに受けるな。逃げ道を作れ」
農婦たちはぎこちなく動くが、互いに助言をし合い、少しずつ形になっていく。
澪は膝に広げた下書きに、その様子をせっせと書き込んだ。
「“外しの型”“体捌きの型”……名前をつけたら、もっと覚えやすいよね」
隣で作業していた男が頷く。
「紙に残せば、村の外の連中にも伝わるな」
笑い声と紙の擦れる音。だが、その背後でただ一人、アルトだけが火を見つめていた。
気配がある。焚き火の外、木立の影。獣ではない。息を殺した人間の影だ。
アルトはそっと立ち上がり、焚き火に薪をくべた。火が高くなり、辺りを照らす。
影はさっと引き、森の奥へ消えた。
「アルト?」
澪が首を傾げる。
「いや……少し風を見ていただけだ」
それ以上は言わなかったが、胸の奥に冷たいものが広がる。領主の目がここに向いている――その確信だけはあった。
◇
翌日。
サミュエルは荷車に紙束を積み込み、村を出ていった。
「なあ、領主に売り渡す気じゃないだろうな」
カインが疑わしげに目を細めると、サミュエルは大げさに肩をすくめた。
「俺がそんな馬鹿に見えるか? 領主に渡したところで一文にもならん。だが町に流せばどうだ? 学びたい連中は山ほどいる。情報は金になるんだよ」
「金か……」
「まあ心配するな。俺は俺で動くさ。だが、あんたらは身を守る準備をしとけ。領主ってのは、意外と耳が早いもんだからな」
サミュエルの言葉に、アルトは黙って頷いた。やはり気配は間違いではなかったのだ。
◇
その晩。
夜学の灯火がともる中、澪は筆を止め、アルトに小声で尋ねた。
「アルト……最近、どこか落ち着かないみたい。何か感じてるの?」
しばしの沈黙の後、アルトは低く答えた。
「領主の目が、ここに向き始めている。遠からず、動きがある」
澪の手が震えた。だが、すぐに筆を握り直す。
「……だったら、余計に書かなきゃ。だって、知識は消せない。燃やされても、人の心に残る」
アルトは火を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「そうだな。だがそのためにも――村を護る力が必要だ」
焚き火の向こう、子どもたちが手首を掴み合い、外しの型を繰り返す。女たちは芯を編み、男たちは木箱を運んでいる。
その営み一つひとつが、確かに領主を脅かす力へと変わり始めていた。
――雑誌の灯は、もう村だけのものではない。
その灯を消すか、燃え広がらせるか。次に動くのは領主の番だった。




