第1話「異世界に丁寧な暮らしを」
澪は休日の午後、窓から差し込む柔らかな光の中で手を動かしていた。
大鍋ではドングリの実がぐつぐつと音を立てている。何度も水を替えてあくを抜き、やっと苦みが消えてきた。傍らには繕いかけのエプロン。裁縫箱から伸びた糸が光を反射し、ゆらりと揺れている。台所の棚には、庭で摘んだハーブを干した束。ほのかな香りが部屋を満たし、心を落ち着けてくれる。
「ふぅ……やっぱりこういう時間が一番好き」
澪は針を置いて、小さく息をついた。
友人からはしょっちゅう「古風すぎる」「まるでおばあちゃんみたい」と笑われる。だが、澪にとって「丁寧な暮らし」は退屈どころか、日々を豊かにしてくれる大切な習慣だった。
そのときだった。
部屋の空気が揺れ、目の前が白く弾けた。
「えっ……?」
次の瞬間、足元が消えたように感覚がなくなり、身体が宙に放り出される。眩い光に包まれ、息を呑む間もなく――。
気がつけば、澪は荒れ果てた大地に立っていた。
焼け焦げた木の骨組みが突き立ち、黒い煙がまだ空に漂っている。地面は乾ききってひび割れ、畑らしき場所には雑草しか残っていない。風が吹けば灰が舞い、どこか遠くで犬とも狼ともつかぬ遠吠えが響いた。
「……ここ、どこ?」
耳に届いたのは、人々の低いざわめきだった。
振り返ると、粗末な服を着た男や女、痩せ細った子どもたちが澪を囲むように立っている。
「旅人……?」「いや、そんな服装、見たことがない」
「魔法も武器も持たぬ娘だ」
ざわめきの中から一人の老人が進み出た。村長だという。白髪混じりの髭を撫でながら、澪をじっと観察する。
「……害意はなさそうだ。村外れの小屋に泊めてやろう」
そうして澪は、異世界の小さな村に受け入れられることになった。
◆
しかし、その夜、澪はすぐに村の実情を知ることになる。
食糧は底を尽き、竈には薪すら残っていない。破れた服を着た子どもが母親の腕にすがり、「お腹すいた……」と泣いている。老人たちは肩を落とし、「神は我らを見捨てた」とつぶやいた。
胸が痛んだ。自分には魔法も武器もない。けれど――。
ふと足元に転がったものに、澪は目をとめた。
「これ……ドングリ?」
村人に尋ねると、「あれは毒だ、食えば腹を壊す」と返ってきた。
澪は思わず口元を緩めた。
「大丈夫。ちょっと手間をかければ食べられるんだよ」
鍋に水を張り、ドングリの殻を割って実を入れる。何度も水を替え、焚き火で煮込む。村人たちは怪訝な顔をしながら見守った。
やがて、香ばしい匂いが漂い始める。澪は小さな団子にして差し出した。
「……食べてみて」
恐る恐る口にした村人は、驚いたように目を見開いた。
「苦くない……!」「食べられる!」
子どもが笑顔を見せ、母親が泣きながら礼を言った。
澪の胸がじんわりと温かくなる。
――私の知ってることが、ここでは役に立つんだ。
◆
その夜。焚き火を囲む村人たちの間に、久しぶりの笑い声が戻っていた。
「先生!」と無邪気に呼ぶ子どももいて、澪は思わず頬を赤らめた。
火の揺らめきを見つめながら、夜空に視線を向ける。星が冴え冴えと輝いていた。
「私の“丁寧な暮らし”が、異世界の人を救えるなら……ここで生きてみよう」
澪は小さく呟き、夜空にそっと誓った。
――異世界での新しい暮らしが、静かに幕を開けた。