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辞めた理由など、いくらでも思いついた。
それでも、ここには「一身上の都合」としか書けない。
薄暗いリビングで真っ白の履歴書を前に、弥栄は握ったペンを走らせることができないでいる。
半年前、大勢の職員の前で公開処刑のように糾弾された弥栄だったが、それでも長年培ってきた職を辞することなく、通常通り出勤し続けた。
しかし、半年前のあの日から、弥栄に対して課長からの明確な指示はなくなり、窓口業務から外され、簡単な雑務のみを任された。
閑職に追いやられた弥栄を、課長に近い若い職員たちが、疎ましく思っていることも知っていた。
それでも辞める覚悟はつかず、頑張れば再び報われると信じて雑務をこなしていく中で、ある時、弥栄は初歩的なミスを犯した。
「…どうして、」
それは、事前に確認をしていたならば防げた単純なミスだった。
「霧島さん、私にいつも言ってましたよね、必ず事前に確認してくださいって。霧島さんもできてないじゃないですか。そんな人が私のことを注意できるんですか?」
ミスに気が付き、焦りながらもパソコンに向かう弥栄の背中に浴びせられた、新人だった彼女の、笑みを含んだ言葉。
「そう、…ね、ほんとに…」
消え入るような声で弥栄は頭を下げた。
キーボードの上の手が固まったように動かない。
一気に血の気が引いていく。
「…ほんとに、…あなたの言う通りだわ。」
もう、気持ちを立て直すことができなかった。
弥栄はその数日後、課長に辞意を伝えた。
※ ※ ※
相変わらず白紙の履歴書を放り出して、弥栄は夕飯の準備を始めるべく、キッチンに向かった。
しかし、まな板を前にしても、包丁を握る気持ちにはなれなかった。
ただぼんやりと立ち尽くす。
「母さん、」
ふと、背後から高校3年生の息子の声がした。
弥栄は驚いたように振り返った。
「え、おかえり、…もうそんな時間?」
少し見上げる位置にあった息子の顔は、薄暗い部屋ではどんな表情をしているのかハッキリ見えない。
陽の光はもうずいぶんと前に西へと落ちた。
「ごめんごめん、すぐに夕飯用意するね」
弥栄は慌てて息子の横を通りすぎて冷蔵庫を開けた。
「母さん、」
「なに?ちょっと待ってね、」
「母さん、俺、卒業したら働くから」
「…え?」
冷蔵庫を開けていた手が止まる。
「もともと大学行く気はなかったけど、母さんが勧めるから進学する予定にしてただけだし、働くわ」
「…何、…何言ってんの、」
「だから、母さんはしばらくゆっくりしなよ」
冷蔵庫の冷気が弥栄の顔を、身体を、どんどんと冷やす。
凍りついたように身体が動かなかった。
弥栄の背後から伸びた息子の大きな手が、冷蔵庫の扉をそっと閉める。
「俺が働くから」
「………っ」
息子が3歳の時に離婚して、女手一つで育ててきた。がむしゃらになっていたつもりもないし、自分には職があったからこそ頑張れた。
弥栄は勢いよく振り返り、笑うつもりで笑顔を作ってみせた。
「何言ってんの! 母さんすぐ就職先見つけられるわよ、だからあんたは大学行って、それで、」
「俺は働くよ。働きたいから」
「そんなのだめ、…そんなの、…母さんが働いてないからって気を使わないでいいのよ、あんたは、子どもなんだから」
「もう18だよ。」
弥栄が作り笑いで見上げた先にいた息子は、薄暗い中で穏やかに笑っていた。
弥栄の顔から表情が消える。
弥栄は慌てて息子から顔を背けた。
「俺もう18なんだよ、母さん」
母一人子一人の生活だった。
息子は、ずっと、弥栄にとってはまだ小さく幼い子どもだった。
だが、数年前から息子にはすでに背丈は抜かれていた。声もずいぶんと前から低くなり、別れた旦那の声に似てきている。
そんな息子が、母親である弥栄を気遣って、進学を諦めると言う。
「………」
大学が全てだと思っているわけではない。
それでも、息子の将来の選択肢を増やすために大学を勧めた。
…息子の本心を、本当の希望を聞きもしないで。
「……っ」
そもそも弥栄に、母子家庭だからという負い目があったのかもしれない。
居た堪れなかった。
鼻の奥がツンと痛い。
弥栄は逃げるように駆け出して、暗いだけのトイレへと逃げ込んだ。