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「惜しかったねぇ、ここが異世界ならさ、あんた悪役令嬢じゃん。」
古びた雑貨店の、カウンター越しに対峙した女店主は、椅子に浅く腰掛けたまま、カウンターに頬杖ついて、したり顔でそう言った。
向かい合わせに、簡易的な丸い椅子に座る弥栄は、女店主の言葉に、うつむいていた顔を少し上げる。
「…はは、」
そして弥栄は思わず笑ってしまった。
「…悪役令嬢って、」
女店主の年の頃は自分と同じ40代半ばくらいだと思う。だがそんなふうに弥栄を例えた女店主は、同年代とは思えないほど無邪気に見えた。
「…はは、」
笑ってしまったおかげで、先程まで弥栄の頬を流れていた涙は枯れつつある。
女店主の発言の真意が、涙を枯らすことにあるのなら、女店主は存外巧みな気遣いができるのかもしれない。
だが、
「まあ、あんたも悪役令嬢って年でもないかぁ」
女店主は頬杖をついたままニヤケた顔で、弥栄をまっすぐ見つめて当然のように言い放つ。
弥栄は困ったように眉毛を下げたまま、再び笑った。
「はは、そうですね。…でも、…そもそも、私なんて、所詮はモブだから、」
弥栄の言葉に、女店主は、強すぎる眼力を歪め、笑ってるような怒っているような複雑な顔をして弥栄から目を背けた。
女店主はため息混じりに背もたれに背を預ける。思いのほか古びた彼女の椅子はギシリと鳴った。
「そりゃアタシもおんなじ。所詮はモブじゃん。だいたいのやつは皆そうだし。まあ、だからさ、…あんたが特別悪かった、てことはないんじゃない?」
「………っ」
「まじめに頑張っても報われないなんて、わりとよくある話だよ。…だからさ、きっと、ただ運が悪かっただけなんだよ。悪いのは、アンタじゃない。」
店内に響くはっきりした声。だが女店主はもう弥栄を見ていない。
弥栄はまたうつむいて、シワの増えた手で口元を覆うと、声を殺して静かに泣いた。
※ ※ ※
大学を卒業して区役所に勤務し、来年で勤続20年を迎える。事務一筋で、毎日勤勉に働いていたはずの霧島弥栄は、今、目の前で繰り広げられている光景に、二の句を告げることができずに棒立ちになっていた。
「わ、私は、」
そんなつもりはなかった。
弥栄は、その言葉を吐き出しかけて飲み込んだ。
「霧島さんは、私がこんなに頑張ってるのに、それでもできないからって何度も何度も同じ注意をされて、私、わかってるのにっ、頑張ってるのにっ」
頑張ってもできないことはわりとある。もはや個人の向き不向きの問題だ。それでもそれを仕事とするなら、できるようにもっていくしかない。
それが、指導を任された弥栄の仕事だった。
新人の彼女は、窓口業務を行えば、受け渡しの書類を間違えた。パソコン業務を任せれば、数字の入力個所を間違えた。
しかしそれは新人だからこそ仕方のないこと。
割り切っていた弥栄は、彼女がミスをするたびにフォローに回った。そのため、日々業務は滞りなく遂行されていた。
それでも新人の彼女のミスは一向に無くならなかった。同じミスを繰り返すことも一度や二度ではない。改善するための努力を行っているのかさえ正直疑問だった。
だが弥栄は、根気強く何度も間違いを指摘して、正しいやり方を示してきた。
何度も、何度も。
「わざわざ見せつけるように毎回毎回これ見よがしに間違いを正すなんて、まるで私が劣ってるって言わんばかりにっ」
それがプレッシャーだったのだと、新人の彼女は一層声を荒げた。
激昂する彼女の横には、先日赴任してきたばかりの、弥栄より10以上若い課長が眼光鋭く弥栄を見おろしている。
「霧島さん、君の指導の方針について、詳しく説明してもらう必要がありそうだな。」
この職場で今、課長の言葉を高圧的に感じているのは、もはや自分だけなのかもしれない。
そう思い、弥栄はそっと唇を噛んだ。
仕切りのないフロアで、業務に追われる同僚たちの視線は、ちらりちらりと遠慮がちにこちらを伺う。
「…すみません。…私の指導が至りませんでした」
弥栄は重い空気に押しつぶされるように、深く深く頭を下げた。
腹の前で組まれた指先は冷たい。
指先が小刻みに震えるのを抑えるために、拳を強く握りしめた。