知らない感情(ジーク視点)
ティナとクリスをルミリエ村まで送って行ったライが屋敷に戻った頃には夜の闇は深く、別荘地の周りの邸宅にもほぼ明かりはついていなかった。
しかし疲れはほとんど感じていない。竜舎にヒルデとニールを戻した後、ライは灯火の魔道具を手にジークフリートの執務室に向かう。
「ただいま戻りました」
「ライか。お帰り、遅くまでありがとう」
「いえ、大切なお客様ですから」
ライは今日あった事を思い出していた。自分の敬愛する主人の大切な妹である、パトリシア様に笑顔を取り戻していただいた事を。
もちろん自分自身もずっと心配して、しかし何も出来ずに心を痛めるだけの日々を送っていた。いくら感謝しても足りない事だと思っている。それを思えば、むしろ喜んで御者をさせてもらいたいくらいだった。
「ジーク様も、まだ起きてらっしゃったのですね」
「ああ。ティナさんが店を持つにあたって、事業計画書を作っていたんだ」
ジークフリートの向かう机の上には、何枚もの紙が積み上げられていた。見ている間にも、羽根ペンが美しい文字を紡いでいく。
ライはそのうちの一枚を取り上げると、両手で広げたそれをしげしげと眺めた。
「この国の王都のメインストリートに、二階建ての店舗を? これを、ティナ様に贈呈するおつもりで?」
「そう。シアの心の傷も癒えた事だし、この屋敷にも他に人を呼べる。そしたら贈り物を見繕るついでに王都で店を作れそうな土地を見て来ようと思って。ずっと閉じこもっていたし、シアも観光したいんじゃないかな」
ライは、不敬なのは承知の上で、「呆れています」と態度に出してジークフリートを見つめた。冷たい視線に気づかずジークフリートは話を続ける。
「その……その旅程にティナさんを誘いたいんだがおかしくないよね? 自分の店を建てる土地の下見と言う訳だし。いい物件があったらそのまま買ってもいいけど……」
一人で話し続けるジークフリートに、ライは制するように手の平を突き出して話に割って入った。
「いやいや。ありえないでしょう」
「何が? ああ、もちろん泊りになるからご両親の許しは得るし、クリス君も誘う」
「そうじゃなくて。……店を作るか、まだ向こうから受けるかどうか返事もされてないんですよ?」
「返事があってすぐ動けるようにしていた方がいいだろう」
何が悪いのか本気で分かってなさそうな様子だった。ライはまるで頭痛でも堪えるように、頭に手を添えて話し始める。
「ちょっと、多すぎるんで何から言えばいいか悩みますけど……まず、ティナさんの店を勝手に作ろうと動くのはやめてください」
「もちろん、彼女の意見は十分に聞くさ。これは叩き台だよ」
ジークフリートは書いていた途中の書類をコンコンと指先で叩く。
「それ以前の問題です」
「ふむ。確かに、店を作るにあたって……この国の法律や、商業組合の確認が不十分だったな。ああ、この国は商業ギルドと呼ぶんだったっけ?」
「だからそれがマズイって言ってるじゃないですか!」
執務室にはライの悲痛な声が響いた。さっきよりも更に頭痛が酷くなったような顔をしている。
「ティナ様は、ジーク様が渡そうとした三百万エメルの受け取りを遠慮されていたんですよ。王都の一等地と店なんて与えられたら、どれだけ恐縮されるか」
「たしかに……彼女はとても謙虚な人だからな。分かった。投資だと説明はしてあるが、もっと良い口実を考えよう」
「いや、分かりやすく言いますね。まだ会って二回目の男性にそんな提案されたら、ドン引きしますよ」
「え……!」
ショックを受けた様子で固まるジークフリートに、ライはやっと落ち着いて話せる、と一息ついてから言葉を続ける。
「ティナ様からすると負担でしかないかと。怖がられるでしょうね」
「そんな……それでは私はどうやってこの感謝を伝えれば……」
ジークフリートはうつむいた。長いまつ毛が頬に影を落とす。
「商会の登録のお金を出して、後援として名前を貸して、あの化粧品を欲しがるような方を探して仲介する、そのくらいがいいと思いますよ」
「たったそれだけか?」
「はい。ティナさんと親しくなりたいのでしたら、他の方法をご検討ください」
「なっ?!」
自覚してなかった本心を言い当てられたように、ジークフリートは胸を抑えて目を見開く。一瞬のうちに顔が赤くなった。
「……親しくはなりたいとは思ってる、けど……」
「それでしたら、気味悪がられるような事は止めましょう」
ライのその言い草に、ジークフリートは若干傷付いたような表情を浮かべた。
ティナのあずかり知らぬところで大金が動く事を阻止したライは一仕事終えて息をつく。勝手に作られていた事業計画書を回収するべく机の上を片付けていると、悩まし気に頬杖をついたジークフリートがぽつりと呟いた。
「やはりこれは、恋なのだろうか」
「え、それだけ暴走しておいて、まだ自覚されてないんですか?」
ライは目を見開いて驚いた。思わず手に持っていた紙を取り落としそうになる。
「逆に聞きますけど、他の何だと思ってらっしゃるんですか?」
「分からないよ。だって、こんな気持ち初めてだから」
「初めて」
「ティナさんは……他の女達とは違うんだ」
「たしかに、ジーク様の容姿にのぼせない方は珍しいですよね」
ライはティナを思い出していた。今まで見てきた令嬢達のようにジークフリートに熱のこもった視線を向けたりしない。なんというか、興味深そうに目を向ける頻度は高いけど、あれは純粋に美術品でも眺めているような目なんだよな。
怪我をしてルミリエ村で体を休めている時も、必要な時以外は話しかけてこない彼女を最初警戒してしまって申し訳なかったとも聞いている。
むしろ、今日、パトリシアと会話するティナの様子がずっと気になっていた。クリスも確かに強かったが、ジークフリートが戦盤で負けたのはそのせいだろう。
「それだけじゃない、シアのためにあんなに心を尽くして、笑顔を取り戻せた事に泣いて喜んでくれた。優しくて、素敵な人だ。もっと彼女の事が知りたい。……部屋から出て来たあの時の笑顔がとても輝いて見えて……思い出す度に胸が締め付けられるんだ。これが恋なのか?」
「それは……恋でしょうねぇ……」
ライは神妙な顔で答えを口にした。それに対して黙ったままの主人を見て、まだ認めないのかと少し思案したライは言葉を続ける。
「じゃあ例えば、ティナさんに婚約者がいたとしましょう」
今まで頬を赤く染めてティナの話をしていたジークフリートの眉間に一瞬で皺が寄った。
「いきなり不機嫌になってるじゃないですか……」
ライは呆れながらそう言った。恋を自覚させるために口にした例え話だったが、効果が覿面すぎて笑ってしまいそうになる。
「考えたら胸が苦しくなっただけだ」
「かなり重症ですね」
「そうか……これが……恋、なのか」
恋、とひとくくりにするにはちょっとじっとりしたものを感じた気がしたが、ライはひとまず肯定しておいた。
「自覚したら、胸の締め付けが強くなった気がする。なぁライ、どうしたら彼女ともっと親しくなれるかな」
「まだ次でお会いするの三回目ですしねぇ……まずは友人として仲良くなるしかないかと思いますが」
あれだけ数多くの令嬢達から恋慕を向けられていた時は迷惑そうな顔をして、「恋愛感情とは厄介なものだ」なんて言ってたのだが……恋をするとここまで人は変わるのか。
ライは一種の衝撃すら感じていた。レナともこの話は共有しなければ。
「幸いな事にルミリエ村とは近いですし、半月に一度は交流を持てるんじゃないでしょうか」
「半月に一度? ……少なすぎる」
「こちらが行くにしても、ティナ様側の日常もあるんですから」
ショックを受けたように俯いていたジークフリートは、名案を思い付いた、とばかりに自分の手のひらを打った。
「そうだ。ルミリエ村に屋敷を建ててそちらに住もう。メイソン領で過ごさなければならない理由はないし」
「正気ですか?」
真面目にそう尋ねてくる自分の従者に、ジークフリートは流石に立ち止まって自分の発言がマズかったのかと思い返した。
「ダメかな」
「絶対ダメですよ。そんなに急に距離を詰めたら、ティナ様が困りますよ」
「……僕はただ、近くに住んだら毎日ティナさんと会えると思って」
初めての感情に、「親しくなりたい」という欲求が暴走しているジークフリート。喜ばしい事だとは思いつつ、流石に好きにさせる事はできない。
これでよく「恋か分からない」などと言えたものだ、とライは天を仰ぎたくなった。
「お気持ちは分かりますよ、パトリシア様にあれほどに心を砕いてくれて。とても素敵な方だと思いますが」
「まさかライ、お前も……」
「違います! 一般論ですって!」
ジークフリートの赤い瞳がギュウと細くなる。ざわり、と体中から汗が噴き出るような「竜の威嚇」を浴びて、ライは慌てて否定した。
その言葉ですぐに収まったものの、心臓が縮こまるような恐怖はなかった事にはならない。早鐘のように鳴る心臓を抑えながらライは呻いた。
「竜の愛情は強いと言いますけど、これほどまでとは」
「……ティナさんへのこの感情は、竜の血のせいじゃない」
ジークフリートは苦し気にそう言いながら、人の姿になっても消えない、喉の付け根にある鱗に触れた。
ナルガリヴィアの王族である、竜人の証に。
互いに無言になって重い空気が流れた室内に、焦ったような足音が響く。
「何事ですか?!」
執務室に現れたのはレナだった。頭の上の獣耳は警戒するように伏せて、尻尾の毛も膨らんでいる。
「さっきジーク様が威嚇を飛ばしたせいですよ」
「……問題ない。少し、驚く事があっただけだ」
ジト目で主人を見るライの視線から逃れるように、ジークフリートは目を逸らしながらそう誤魔化した。
「威嚇? 兄さんにですか?」
「何でもないんだ、ちょっと行き違いがあっただけで」
「はぁ……」
そうは言われても、とレナは納得いかなそうな顔をしている。
「そうだ、女性の意見を聞いてみたらどうですか」
「! ライ! やめてくれ!」
「何言ってるんですか。レナだってとっくに気付いてますよ。なぁ、ティナ様の事」
「ティナ様の……ジークフリート様が恋に落ちた件ですか?」
「な……!」
指摘されて真っ赤になったジークフリートが、口を押さえて机の上に崩れ落ちた。
「という事は、さっきの威嚇はティナ様の事で?」
「ああ。恋敵と勘違いされて威嚇を飛ばされたんだ」
「うう……」
全部バラされて力なく呻くジークフリートを見て、二人共微笑ましそうに笑顔を浮かべた。
「オレ、良かったと思いますよ。この国に来て、パトリシア様に笑顔が戻ったし、ジーク様はティナ様と出会えた」
「そうですね、ナルガリヴィアにいた頃はずっと……苦しそうなお顔をされてましたから」
「たしかに……この国に来て、私が森で怪我をしたのも、ティナさんに会うために必要だったのだろうな」
しんみりとした口調でジークフリートが呟く。
「いえ、そこは良い話にしないでいただきたいですね」
「ほんとに、心配したんですから。二度とお一人で森に入らないでくださいよ」
「……すまない」
二人の言葉にジークフリートはしょぼんと小さくなった。




