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実は、貧乏人じゃありません。  作者: winten
第3章「初等部」
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第40話「めぐみの悩み」

 春の日差しが校庭を穏やかに照らし、教室の窓際にも暖かな光が降り注いでいた。新学期が始まり少し経ったころ、真奈と詩音は昼休みに廊下で立ち話をしていた。二人の笑い声が響く中、ふと詩音が真奈の肩を軽く叩いて窓際を指さした。


「あれ、めぐみちゃん、なんか元気ない気がしない?」


 真奈も視線を向けると、窓際で一人座っている増田めぐみの姿が目に入った。周りの子どもたちが笑顔で話し合う中、めぐみだけがどこか寂しげな表情を浮かべ、机の上に手を組んでじっと外を眺めている。


「本当だ……いつもならもっと明るいのに」


 めぐみは華奢な体に似合わず、明るくてはっきりした性格の女の子だった。その特徴的な茶髪のストレートヘアは、いつも清潔感を漂わせ、どこか上品な雰囲気を醸し出していた。真奈と詩音は彼女の元気な笑顔をよく知っている。それだけに、今の静かな姿は違和感があった。


「何かあったのかな。声、かけてみようよ」詩音が提案し、真奈も頷いた。


 二人が近づくと、めぐみはゆっくりと顔を上げた。二人を見て、少しだけ微笑む。


「どうしたの、めぐみちゃん?元気ないみたいだけど」詩音がそっと尋ねると、めぐみは少し目を伏せた。


「そんなことないよ。ただ、ちょっと疲れてるだけ」


「本当? 無理してない?」真奈がさらに聞くが、めぐみは笑顔を作りながら、「うん、大丈夫だよ」と答えた。


 それでもどこか落ち着かない様子のめぐみを見て、真奈と詩音は彼女の言葉をそのまま信じることができなかった。


 午後の授業が終わると、真奈は思い切ってめぐみを放課後に誘うことにした。


「ねえ、今日は塾とか習い事ないんだったら、放課後一緒に帰らない?」


 めぐみは一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐに俯いて小さな声で答えた。


「……今日は無理かな。家に戻らなきゃいけないから」


 真奈が続けて何か言おうとしたが、めぐみはそれ以上話すことを避けるように、足早に教室を出て行った。


 放課後、真奈と詩音は近くの駄菓子屋に立ち寄りながら、めぐみのことを話し合った。


「やっぱり何か悩みがあるんだと思う。あんなめぐみちゃん、初めて見たもん」真奈は小さなラムネを口にしながら心配そうに呟いた。


「そうだよね。でも、私たちに話してくれないってことは、よっぽど深刻なことなのかな……」詩音もため息をつく。


 その日の夜、真奈は自分の部屋で宿題をしながらも、どうしてもめぐみのことが頭を離れなかった。気丈に振る舞おうとする彼女の表情、普段とは違う静かな姿……何が彼女をそこまで追い詰めているのだろう。


 一方その頃、めぐみは大きな邸宅の自分の部屋で宿題を開いたまま、ペンを持つ手を止めていた。頭の中に浮かぶのは、リビングで冷たい空気を漂わせる両親の姿だった。


 父・徹は、彼女にとって穏やかで頼りになる存在だった。忙しい仕事の合間でもめぐみの話に耳を傾け、優しい言葉をかけてくれる。しかし最近、仕事が忙しいと言って帰りが遅く、顔を合わせる時間も減っている。母・恵子はそのことに不満を抱き、最近では些細なことで怒りっぽくなった。


 数日前、母と一緒に街で夕飯を外食しようと出かけたとき、偶然父が若い女性と二人で歩いている姿を目撃してしまった。驚いた母はめぐみの手を引き、その場を去るように店に向かったが、表情は怒りと疑念に満ちていた。


 その日から、母はますます父に冷たくなり、家庭の空気は重苦しいものになっていった。


「どうしてこんなことに……」


 めぐみは独り言のように呟きながら、涙を堪えた。彼女の胸には、「両親が離婚するかもしれない」という不安が大きな影を落としていたのだ。


 その翌日、学校ではいつも通りの授業が行われたが、めぐみの様子は相変わらずだった。真奈と詩音はそんな彼女のことが気になり、昼休みに再び声をかけた。


「めぐみちゃん、本当に大丈夫? 何かあったなら、私たちに話してほしいな」真奈の優しい言葉に、めぐみは少しだけ顔を上げた。


「でも……」


 彼女は言葉を詰まらせ、何かを迷っているようだった。詩音もそっとめぐみの肩に手を置き、「無理に話さなくてもいいけど、私たちはめぐみちゃんの味方だからね」と励ました。


 その瞬間、めぐみの目には少しだけ涙が滲んでいた。しかし、彼女はすぐにそれを拭い、微笑みながら「ありがとう」とだけ答えた。


 めぐみが本当の悩みを打ち明けるには、まだ少し時間がかかりそうだった。それでも、真奈と詩音は彼女の心に寄り添う決意を新たにするのだった。




 夕暮れ時、めぐみは薄暗くなり始めたリビングでピアノの前に座っていた。手元には真っ白な楽譜が広がっているが、鍵盤に触れる気力は湧いてこない。彼女は小さな手で膝を握りしめながら、微かに溜息をついた。


「めぐみ、練習しているの?」

 背後から聞こえた母・恵子の声に、めぐみの肩がビクリと震えた。


「うん、してるよ」


 めぐみは慌てて鍵盤に手を置き、適当に音を鳴らした。けれど、そのぎこちない演奏を聞いた恵子は、眉をひそめる。


「ちゃんとした練習になってないわね。コンクールが近いのにそんなことで大丈夫?」


「……ごめんなさい」


 めぐみは俯いて謝ったが、心の中では「どうしてこんな時にピアノのことばかりなの」と呟いていた。


 恵子はため息をつくと、冷蔵庫から水を取り出して一口飲んだ。そして、視線をめぐみに向ける。


「あなた、最近様子が変よね。何かあったの?」


 その問いに、めぐみはギクリとした。そして一言、思いを母に伝えた。


「お母さん……お父さんと仲良くして?」


 恵子は娘の言葉に納得できない表情を浮かべたが、それ以上追及しなかった。




 翌日の放課後。めぐみは真奈と詩音を誘い、学校近くの公園へ向かった。木々の緑が鮮やかで、風が吹くたびに葉の間から陽光がこぼれ落ちる。ベンチに腰掛けためぐみは、二人をじっと見つめると、ぽつりと呟いた。


「……私ね、家で色々あって、最近ちょっと元気が出ないの」


 その声は小さく、真奈と詩音も耳を澄まさなければ聞き取れないほどだった。


「どうしたの? 私たちに話してみて」真奈が優しく促す。


 めぐみは一度俯き、深呼吸をすると、意を決して話し始めた。


「お父さんとお母さんが……最近ずっと喧嘩してるの。たぶん、離婚するかもしれない」


 その言葉に、真奈と詩音は驚きと悲しみが入り混じった表情を浮かべた。


「理由は?」詩音がそっと尋ねる。


「お母さんが、お父さんが浮気してるんじゃないかって疑ってるの。だけど、お父さんはそんなことしてないって言い張ってて……それでずっと喧嘩ばかり」


 話しながら、めぐみの目には涙が浮かんでいた。


「私、本当はお父さんとお母さんのどっちも大好きなのに……どうしてこうなっちゃったんだろうって思う」


 真奈と詩音はそっとめぐみの手を握った。


「めぐみちゃん、私たちがついてるよ。一人で抱え込まなくていいんだから」


「そうだよ。めぐみが何か辛いことがあったら、いつでも言ってね」


 二人の優しさに触れためぐみは、ようやく小さな笑顔を見せた。「ありがとう」と呟くその表情は、どこか弱々しく、それでも支えられている温かさを感じていた。




 その頃、恵子はリビングで一人考え込んでいた。いつもはきちんと片付いたテーブルの上には、読みかけの雑誌や未開封の郵便物が無造作に置かれている。普段ならこんな状態を放置することはない恵子だったが、今はとてもそんな気分になれなかった。


「本当に、あの人は……」


 ふと浮かんだのは、あの日街で見かけた夫・徹の姿だった。スーツ姿で若い女性と親しげに話しながら歩く彼の様子が、何度も頭の中で再生される。


「ありえない……でも、もし本当に……」


 自分の疑念に飲み込まれそうになりながら、恵子はカップに残った冷えた紅茶を手に取った。唇に触れた冷たさが、胸の中に広がる焦燥感をさらに際立たせる。


 興信所に依頼してから数日が経った。結果が出るまでに時間がかかるとは聞いていたが、それを待つ間の不安は思った以上に堪えるものだった。


「はっきりするまでは何もわからないのに」


 そう自分に言い聞かせようとするが、心は穏やかにならない。もし、興信所の報告が「黒」だったらどうするのか。いや、「白」だったとしても、目の前で見たあの光景をどう説明すればいいのか。


「最近、めぐみの様子も変だし……」


 娘のことを思い出すと、胸がさらに締め付けられるようだった。家ではいつも元気だっためぐみが、最近はどこか塞ぎ込んでいるように見える。ピアノの練習も身が入っていないし、学校から帰ってくるとすぐに自分の部屋に閉じこもることが多くなった。


 恵子はカップを置き、ソファに深く腰を沈めた。


「どうして私ばかり、こんなに苦しまなきゃいけないの?」


 ふと、自分の独り言に気づいて苦笑いを浮かべる。負けず嫌いで完璧主義な自分が、こんなに不安定になっているなんて、誰にも見られたくなかった。


 それでも、不安が消えるわけではない。頭の中で、徹の姿が何度もよみがえり、疑念が膨らんでいく。


「早く結果を……知りたい」


 時計の針がカチカチと音を立てて進む中、恵子はリビングのソファで一人、膝を抱えるようにして身を縮めていた。心の中の重たい霧は晴れず、ただ結果が届くのを待つしかないのだった。




 興信所からの結果を受け取る日は、朝から冷たい雨が降っていた。恵子は玄関先で郵便受けを開ける手を少しだけためらわせた。いつもなら乱雑に積まれている手紙やチラシの束の中に、見覚えのある封筒が混じっている。小ぶりでシンプルな白い封筒に、興信所の名前が黒字で印刷されていた。


 手のひらが少し汗ばんでいる。封筒を持つ指先に力が入り、思わず手紙を握りしめてしまう。「これを開けたら、もう後戻りはできない……」そんな思いが胸をよぎった。


「開けるのが怖いなんて……私らしくない」


 自分を奮い立たせるように玄関を閉め、そのままキッチンへと足を運んだ。机の上で封を切る。中には数枚の写真と、報告書が収められていた。


 写真を一枚一枚手に取るたび、恵子の心臓は大きく跳ねた。そこに写っていたのは、徹が会社の部下らしき若い女性と共にビジネスホテルに出入りする姿……ではなく、明らかに仕事の一環と思われるスーツ姿の徹が、社員と打ち合わせをしている写真ばかりだった。


 報告書には、「調査の結果、対象者に不貞行為の事実は確認されませんでした」と端的に記されている。恵子はしばらくの間、報告書を見つめたまま動けなかった。


「……ただの早とちりだったの?」


 安堵よりも、自分の行動の軽率さに対する後悔が真っ先に押し寄せてきた。もしこれが徹に知れたら、彼はどう思うだろうか――。


 その夜、恵子はリビングで夕食の準備をしながら、徹が帰宅するのを待った。しかし、彼がリビングに現れた瞬間、言葉が喉に詰まり、謝罪の一言がどうしても出てこない。徹の「ただいま」といういつもと変わらない声が、余計に恵子の罪悪感を煽る。


 夕食を囲む食卓も、どこかぎこちない空気に包まれていた。めぐみは両親の様子を察したのか、終始無言のままだった。徹は普段通りに振る舞おうと努めていたが、恵子が話しかけてこないことにもどかしさを感じていた。


 食事を終えると、徹は自室へ向かい、恵子はキッチンで食器を洗いながら、ようやく溜息をついた。「謝りたい。でも、どうやって……」彼女の負けず嫌いな性格が邪魔をして、一歩を踏み出せないのだ。


 翌日、ピアノの練習を終えためぐみが真奈たちと遊んでいる間、恵子はリビングで一人、報告書を手に取った。徹が何も悪くないのに、自分が一方的に疑ったことをどう伝えればいいのか。その時、めぐみの「お父さんと仲良くしてほしい」という涙ながらのお願いが頭をよぎる。


 彼女は静かに報告書を封筒に戻し、便箋を取り出してペンを走らせた。「ごめんなさい」の一言だけが書かれた簡素なメモだったが、これが恵子にとって、精一杯の謝意だった。


 その夜、夕食を出す際にその便箋を添えた皿を徹の前にそっと置いた。徹はそれを一瞥すると、何も言わずに食事を始めた。めぐみがリビングでその様子を見ていたが、何か言いたそうに唇を噛みしめている。


 夕食が終わった後、徹は食器を下げながら「ごちそうさま。美味しかったよ」とだけ言い残し、リビングを後にした。恵子はその言葉に、少しだけ肩の力が抜けたような気がした。


 彼の背中を見送りながら、恵子は初めて自分の非を少しだけ認める気持ちになっていた。




 翌朝、めぐみが目を覚ますと、階下から聞こえる声に耳を澄ませた。普段は静まり返っている朝のリビングが、今日はどこか賑やかだ。


「おはよう、めぐみ。朝ごはん、何にする?」


 徹の声だ。めぐみが階段を降りると、キッチンでエプロンを着けた父がトーストを焼いていた。母もその隣でコーヒーを淹れている。いつもは互いに無言で朝の支度をしている両親が、笑顔で言葉を交わしている光景に、めぐみは驚き、立ち尽くした。


「どうしたの?早く座りなさい。トーストが冷めちゃうわよ」


 恵子の言葉に促され、めぐみはテーブルに着いた。朝食が並ぶ中、どこか心地よい温かさが漂っている。父と母がこうして普通に会話をしている姿を見るのは、何ヶ月ぶりだろう。


「お父さん、お母さん、仲直りしたの?」


 めぐみが恐る恐る尋ねると、徹と恵子は一瞬目を合わせ、微笑んだ。


「そうね。ちょっとした行き違いがあっただけ。もう心配しなくていいわ」


 恵子が優しく答えると、めぐみの目には涙が浮かんだ。彼女は思わず立ち上がり、両親に抱きついた。


「よかった……本当に……よかった!」


 その日の学校では、めぐみの表情が晴れやかだった。真奈と詩音は、いつものように彼女の明るい笑顔が戻ったことに安心する。


 放課後、三人で公園のベンチに座りながら、めぐみが話し始めた。


「実はね、お父さんとお母さん、ケンカしてたんだけどね、仲直りしたみたい。」


 真奈と詩音は顔を見合わせ、驚きの表情を浮かべた。


「本当によかったね、めぐみちゃん!」


 真奈が心からの声でそう言うと、詩音も深く頷いた。


 めぐみは感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。彼女は心の中で、両親がもう一度手を取り合う決意をしてくれたことに感謝し、真奈と詩音という素晴らしい友達がそばにいる幸せをかみしめた。




 その夜、めぐみの家では久しぶりに家族三人で夕食を囲んだ。食卓には、恵子が徹の好物のハンバーグを作っていた。徹は箸を進めながら「美味しいよ」と恥ずかしそうに言い、恵子も「ありがとう」と小さく笑った。


 めぐみはその様子をじっと見つめながら、ようやく安心した。両親の間には、まだ完全に解けていないぎこちなさが残っているかもしれない。でも、それでもいい。この家族はきっと、また新しい形で絆を深めていける。


 めぐみは微笑みながら、心の中でそっと呟いた。


「お父さん、お母さん、ありがとう。これからも、ずっと一緒にいてね」


 その夜、めぐみの寝顔は、月明かりに照らされて穏やかに輝いていた。

第41話は2025年1月1日1:00からstartします。

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