第39話「小さな冒険者たち」
小鉄の部屋には、小さな本棚がある。そこに並ぶ本は、鮮やかな表紙が目を引くファンタジー小説ばかりだ。彼の生活は豪華だがどこか静かで、家の中にはいつも落ち着いた空気が流れている。渋谷区の高級住宅街に建つ一軒家の2階、小鉄の部屋には、暖かい日差しがカーテンの隙間から差し込み、本の文字を優しく照らしていた。
その日も小鉄は、愛読している冒険譚の続きを読んでいた。ページをめくる指先が止まるたび、物語の情景が頭の中に鮮やかに広がる。深い森、巨大な城、数々の秘宝……。いつか自分もこんな冒険がしてみたいと、小鉄は思わず微笑んだ。
「お兄ちゃん!」妹の夏恋が勢いよく部屋の扉を開けた。いつものことだ。小鉄は一瞬だけ顔を上げたが、すぐに本に視線を戻す。「どうしたの?」
「英会話教室で先生に褒められたよ!」夏恋はニコニコと笑顔を見せた。小鉄はそれを見て、微笑ましく思った。妹は自分の話をするのが好きで、彼女の世界は純粋そのものだ。
その夜、小鉄の携帯に勇士からメッセージが届いた。
「明日、どっか探検行こうぜ! 冒険ごっこ!」
小鉄は小さく笑った。勇士は冒険ごっこが好きで、暇さえあれば何か新しい遊びを見つけ出す。「いいよ。じゃあ10時にいつもの場所で」短い返事を打つと、翌日の計画が自然と心の中に組み上がっていく。
翌朝、勇士と合流した小鉄は、街の探索へと向かった。二人の探検ごっこは、子どもらしい空想と実際の街の景色が融合した、ちょっとした冒険だ。住宅街から商店街へと抜け、徐々に人通りの少ない道へと足を進める。
「こっちの方、まだ行ったことないよな?」勇士が指差したのは、小さな雑居ビルの裏手に広がる薄暗い路地だった。小鉄は少し眉をひそめたが、冒険の匂いを感じて頷いた。「行ってみよう。」
足元には割れたガラス片や古びた木片が散乱している。周囲の建物はどれも古びていて、壁には時折、消えかかった落書きが見える。勇士は「うわ、なんか秘密基地とかありそうじゃね?」と興奮気味だが、小鉄は警戒を緩めない。好奇心と危機感がせめぎ合う中、二人はさらに奥へと進んでいった。
そこで彼らは、不意に声をかけられた。
「坊主たち、こんなところで何してる?」
振り向くと、古びたコートを羽織った浮浪者の男が立っていた。髭面の顔に浮かぶ目は鋭く、まるで何かを見通すような力を感じさせる。その異様な雰囲気に、小鉄は一瞬だけ身を固くした。
浮浪者の言葉に驚き、逃げるように小鉄と勇士はさらに奥の路地へと進んだ。日差しは高い建物の影に遮られ、周囲の温度が少し下がったように感じる。足元には小石が転がり、遠くでは車のクラクションが響いている。人気のない路地には、古びた看板や捨てられた家具が散らばっていた。
「本当に何かあるのかな?」勇士が周囲を見回しながら言う。
「分からない。でも……何か不思議な感じがする」小鉄は浮浪者の言葉が頭の中で反響するのを感じていた。その言葉にどこか現実離れした力を感じ、好奇心が胸を刺激する。
やがて二人は路地の奥にたどり着き、目の前にぽつんと現れた門を見上げた。それは古びた鉄製の門で、蔦が絡みついている。その向こうには、黒ずんだ壁と割れた窓が特徴的な大きな屋敷が建っていた。
「これだ」勇士が興奮気味に声を上げた。
門の向こうに広がる庭は荒れ果て、草がぼうぼうと生い茂っていた。屋敷自体も年季が入り、風化した外壁が時の流れを物語っている。
「入ってみようか」小鉄が提案すると、勇士は少し躊躇したものの、結局頷いた。「うん、せっかくだからね」
門は鍵が壊れており、二人は簡単に敷地内へ入ることができた。足元の草がざわざわと音を立て、まるで屋敷が二人の存在を歓迎するように思えた。
「すごい雰囲気だな。ホラー映画みたいだ」勇士が冗談を言いながら歩く。
「でも、ここに来たのには何か意味がある気がする」小鉄は静かに呟き、慎重に周囲を観察しながら歩を進めた。
屋敷の正面玄関は閉ざされており、取っ手には錆がびっしりとこびりついていた。しかし、小鉄の目はすぐにある異変に気づいた。屋敷の右手側、ひときわ大きな窓に鍵が掛かっていないのだ。
「勇士、あそこ見て。あの窓、開いてる」
勇士も気づき、興奮したように笑みを浮かべた。「行ってみようぜ!」
二人は近くに放置されていた朽ちた自転車を見つけ、それを足がかりにして物置小屋の屋根へ登った。高さに慣れない二人は慎重に動きながら、窓のすぐ下に到達する。
「よいしょっと」小鉄が窓枠に手をかけ、体を引き上げた。すぐに勇士も続く。
屋敷の中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。薄暗い廊下には、ところどころにかつての豪華さを思わせる装飾が残っている。壁紙は剥がれ、床板は所々きしむ音を立てたが、それでも小鉄はどこかワクワクした気持ちを抑えられなかった。
「ここ、本当にすごいな……」勇士が呟く。
「何かお宝とかあるかもね」小鉄も心の中で冒険心が膨らむのを感じていた。
二人は慎重に屋敷内を探索し始めた。1階の広間には古い暖炉があり、その上には埃を被った額縁が飾られている。吹き抜けの天井には大きなシャンデリアが吊り下がっていたが、電球のほとんどは割れていた。
「なんだか映画の舞台みたいだ」勇士が楽しそうに周囲を見回す。
「うん。でも注意してね。床が抜けたりしたら危ないから」小鉄は冷静に言った。
やがて小鉄の目は、暖炉の上に積まれた数冊の古い本に釘付けになった。その中の一冊、革張りの装丁が施された薄い本が特に目を引いた。
「この本……何だろう」小鉄はそれを手に取り、そっと表紙を撫でた。装丁には古い文字で何かが記されているが、埃で読み取れない。
「見せて」勇士が覗き込む。
「これは持ち帰ろう。家でちゃんと読んでみたい」小鉄は本を大切そうに服の中にしまい込んだ。その行動に勇士も頷いた。
「よし、もう少し見て回ろうか」勇士が言うと、小鉄も笑みを浮かべた。二人の小さな冒険は、さらに奥深い謎を呼び込むかのように続いていった。
一方その頃、妹の夏恋は兄たちを追って路地へと進んでいたことに、小鉄はまだ気づいていなかった……。
夏恋は町の中で迷子になっていた。知らない街並みに囲まれ、どの方向へ進めばよいのか分からず、不安な気持ちで胸がいっぱいだった。
「お兄ちゃん、どこに行っちゃったの……?」
夏恋は小さな手で涙を拭いながら、一歩一歩進んだ。自分を励ましつつも、次第に心細さが増していく。彼女は何度も通りを歩き回ったが、どこにも兄の姿は見当たらない。
「絶対に見つけなきゃ……!」
必死で探し回る夏恋の前に、一人の浮浪者が現れた。髭を蓄えた痩せた男性が、ぼんやりと壁に寄りかかりながら、夏恋を見つめていた。
「どうした、小さいの。迷子か?」
突然の声に驚き、夏恋は一瞬後ずさったが、その優しげな眼差しに少しだけ安心して口を開いた。
「……はい。お兄ちゃんたちを探してるんです。でも、どこにいるか分からなくて……」
浮浪者は少し考え込むと、穏やかな声でこう言った。
「探し物を見つけたい時は、時に来た道を戻るのが一番だ。無理に進むより、振り返ってみるんだよ」
その言葉を聞いた夏恋は、目を輝かせた。
「来た道を戻る……! ありがとうございます!」
彼女は一礼して浮浪者の言葉に従い、急いで走り出した。裏路地を抜け、いくつもの角を曲がり、最初に通った道を一つずつたどり直す。
やがて、広い歩道の向こうに二人の姿が見えた。
「お兄ちゃん!」
夏恋は声を張り上げ、全速力で駆け寄った。小鉄と勇士は突然の声に驚き、振り向くとそこには夏恋の姿があった。
「夏恋! なんでこんなところに……?」小鉄が困惑した声を上げる間もなく、夏恋は勢いよく兄に抱きついた。
「怖かったよ……ずっと探してたの……!」
ぎゅっと抱きつく妹の震える肩に、小鉄は気づいた。勇士も「夏恋、無事でよかったよ」と優しく声をかける。
しばらく抱きついた後、夏恋は思い出したように顔を赤くした。
「えっと……その、内緒でついてきたこと、ごめんなさい……!」
アワアワしながら必死に謝る夏恋に、小鉄は小さくため息をついた。そして、何も言わず彼女の手を握りしめた。
「もう一人でこんなところに来ちゃダメだよ。でも、迷子にならなくてよかった」
勇士も「さ、帰ろうか」とにっこり笑った。
こうして三人は、夕暮れの街を一緒に歩いて帰路についた。帰り道、夏恋は小鉄と勇士の間で笑顔を取り戻し、楽しげに兄に今日の冒険の話を聞き出そうとしていた。小鉄もそんな妹の姿にほっとしながら、自分たちの小さな冒険が無事に終わったことを心の中で感謝していた。
夕暮れが街を包み、赤紫色の空が静かに広がる中、小鉄と夏恋、勇士の三人は家路についていた。夏恋は小鉄の手をしっかりと握りしめていたが、その手の温かさに、今日の出来事が夢ではないことを確信していた。
「夏恋、本当にビックリしたよ。無事でよかった」
小鉄は妹の手を見下ろしながら静かに言った。その声は穏やかだったが、微かに震えていた。
「……ごめんなさい。内緒でついてきて。でも、どうしてもお兄ちゃんたちと一緒に冒険したくて」
夏恋は涙を滲ませながらも、真っ直ぐに兄を見上げた。
小鉄は一瞬言葉を失い、妹の顔をじっと見つめた。彼女がどれだけ自分のことを思っているのか、その気持ちが痛いほど伝わってきたのだ。
「……冒険は楽しいけど、危険なこともあるんだよ。僕がいるとき以外は無理をしないで」
そう言うと、小鉄はそっと夏恋の頭を撫でた。その手の温かさに、夏恋はまた涙をこぼした。
「わかった……。ありがとう、お兄ちゃん」
勇士はそのやりとりを静かに見守りながら、小鉄に微笑みかけた。
「小鉄、いい兄ちゃんだな。夏恋ちゃん、きっとお兄ちゃんが大好きなんだね」
「当たり前だよ!」
夏恋は涙を拭いながら胸を張った。
「だって、お兄ちゃんはすごいんだから! 本もたくさん読んでるし、冒険も一緒にしてくれるし、私のこといつも守ってくれるの!」
その言葉を聞いて、小鉄は照れくさそうに目を逸らしたが、どこか嬉しそうだった。
三人が家に着く頃には、街に夜の静けさが降りていた。家の玄関の前で、夏恋は小鉄の手を離し、深く一礼した。
「今日はありがとう、お兄ちゃん。それから、ごめんね」
小鉄は何も言わずに頷き、妹の肩に軽く手を置いた。
「夏恋、これからも僕に頼っていいよ。でも、困ったらちゃんと言うんだ。約束だよ」
その言葉に夏恋は満面の笑みで頷いた。その笑顔は、今日の迷子の恐怖や不安を忘れさせるほど輝いていた。
一方で、小鉄の胸には、一冊の本がしまわれていた。屋敷から持ち帰ったその本は、古びた表紙と重厚な背表紙を持つ不思議な本だった。
「夏恋、次は一緒にこの本の続きを読もう。きっと気に入るはずだよ」
「本当!? うん、楽しみにしてる!」
妹の嬉しそうな声を聞きながら、小鉄は小さく微笑んだ。その笑顔は、大切なものを守り抜いた兄としての誇りに満ちていた。
こうして、小さな冒険は終わった。しかし、その日得た絆の強さは、何にも代えがたいものだった。
夜空に星が瞬く中、小鉄は心の中で誓った。
「夏恋のためなら、僕はどんな冒険でも乗り越えてみせる」
それは兄としての、そしていつか大冒険を夢見る一人の少年としての、新たな決意だった。