第21話「新しい生活の幕開け」
春の暖かい風が吹き抜ける朝、梨奈は娘の真奈の手をしっかりと握りしめ、幼稚園の門をくぐった。
梨奈の横で、小さな手を握り返す真奈は、真一と梨奈の二人から一文字ずつとって名付けられた宝物だった。夫婦にとって待ち望んだ初めての子どもであり、その名には深い愛情が込められている。真奈が生まれた瞬間、夫婦の生活は一変し、彼女の成長が二人にとって何よりの喜びとなっていた。
その真奈が幼稚園に入園する日がついに来たのだ。梨奈にとって、この瞬間は喜びと不安が交錯する特別な日だった。真奈の小さな手の温もりを感じながら、彼女は深呼吸をして心を落ち着けようとした。
「ママ、大丈夫だよね?」と、真奈が不安そうに尋ねる。
梨奈は微笑んで答えた。「もちろんよ。今日は真奈の大事な一日だから、楽しんでね」
真奈は少し安心したように笑い、ピカピカの制服を誇らしげに見せびらかした。それを見て梨奈は、これから始まる新しい生活への期待と共に、一抹の寂しさを感じた。娘が一歩ずつ自立していくその姿が、嬉しくもあり、母親としては少し心細くもあった。
入園式は幼稚園の広いホールで行われた。新入生の子供たちは、緊張しながらも好奇心に満ちた顔で、両親に連れられて集まっている。園長先生の挨拶や、先生たちの自己紹介が行われ、和やかな雰囲気の中で式は進んでいく。真奈も、他の子供たちと一緒に笑ったり、手を叩いたりして楽しそうだ。梨奈はそんな真奈の姿を見て、少しだけ安心した。
しかし、心の中では不安が消えることはなかった。これまで一緒に過ごしてきた日々が少しずつ遠ざかる感覚と、新しい環境で真奈がちゃんと適応できるのか、友達ができるのかという心配が混ざり合っていた。
式が終わり、真奈が教室に向かう姿を見送りながら、梨奈はふと自分が家に一人残されることを思い出した。今までの日常が、真奈と一緒に過ごす時間が、急に空白に変わるような感覚が押し寄せた。静かになった家で一人きりになるということに、彼女は少しずつ寂しさを感じるようになっていた。
梨奈は自分自身を支えるため、カフェ・リベラでパートを始めることを決めた。以前働いていたことがあるこのカフェは、梨奈にとって落ち着く場所だった。常連客との軽い会話や、コーヒーを淹れる作業が彼女の心を癒してくれる。新しい生活の中で、幼稚園に通う真奈と、自分の時間を過ごす梨奈。それぞれの生活が少しずつ形を成し始めた。
しかし、そんな穏やかな日常が続く中、幼稚園で思わぬ事件が起こった。
その日、幼稚園は普段と変わらず賑やかだった。子供たちの笑い声が響き、先生たちも忙しそうに動き回っていた。ところが、突然、園内に緊迫感が走る。男の怒鳴り声が響き渡り、園内が一時騒然となった。何者かが幼稚園に侵入し、子供たちに危害を加えようとしたのだ。
幸いにも、すぐに警察が駆けつけ、犯人は逮捕された。子供たちや職員には怪我はなかったが、この事件は幼稚園に通う親たちに大きな衝撃を与えた。梨奈と真一も例外ではなかった。事件の後、二人は真奈の安全について真剣に考えるようになった。
「真奈が無事で本当に良かったけど、今後もこういうことが起きないとは限らない。何か対策を考えないといけないね」と、真一が慎重に言った。
梨奈も同じ考えだった。「私たちが思っている以上に、この町も安全とは限らないのかもしれないですね」
二人は、幼稚園への寄付を通じて防犯対策を強化することを決意した。しかし、自分たちの富が他の保護者に知られることは避けたいと考えていたため、その寄付は園長と理事長だけが知る形で行われた。真奈が通う幼稚園は大切な場所であり、彼女のためにできる限りのことをしたいという思いからだった。
また、この事件をきっかけに、真奈の送迎にも慎重になるようになった。真一が持っている高級車で送迎するのは目立ちすぎるし、何よりも安全性を考えると、もっと控えめな車の方が良いという結論に至った。そこで、軽自動車を新たに購入し、真奈の送迎はすべてこの車で行うことにした。
梨奈は、この軽自動車に少し満足感を感じていた。大きなファミリーカーに比べて運転しやすく、狭い幼稚園の駐車場でもスムーズに動ける。何よりも、目立たず慎ましく生活するという二人の決断が、真奈の安全に繋がっているという思いが梨奈の心を支えていた。
そうして日常が再び穏やかに戻ったかのように見えた頃、新たな風が幼稚園に吹き込んだ。それは増田めぐみちゃんと、その母親である恵子の登場だった。
増田恵子は、一目で「違う」と感じさせる存在感を持っていた。幼稚園の駐車場に滑り込んだ彼女のメルセデス・ベンツは、他の保護者たちの注目を集める。恵子は常に上品な装いをしており、彼女の一挙一動は周囲の母親たちに対して明らかに優越感を漂わせていた。
初対面の時、恵子は梨奈ににっこりと笑いかけたが、その笑顔の奥には冷たい視線が潜んでいるようだった。
「真奈ちゃんのお母さんね。軽自動車で送り迎えしてるの見かけたわ。便利そうね。私も時々ああいうのが欲しいと思うんだけど、どうも家の車が大きくてね」と、何気ない会話のように見せかけて、軽く梨奈に嫌味を放った。
梨奈は表面上笑顔を保ちながらも、心の中でぐっと息を飲んだ。恵子の言葉は何気ないフリをして、しっかりと他人を見下すように計算されていると感じた。それでも、真奈のために、梨奈は波風を立てたくないという思いでその場をやり過ごすことにした。




