第20話「梨奈の秘密」
結婚生活は表面的には何の問題もなく、順調に続いていた。毎朝、真一と梨奈は一緒に朝食を取り、夕方には笑顔でお互いの帰りを待つ生活。梨奈は相変わらずカフェで働き、真一は自分の事業をさらに大きく成長させようと努力していた。二人の時間はとても大切で、特に週末にはデートや旅行を楽しむことが習慣となっていた。
休日には、二人だけの穏やかな時間が家で過ぎていくことが多かった。リビングでゆったりと映画を観たり、真一が得意な料理を一緒に作ったりして過ごす。時にはマンションのベランダでワインを飲みながら、未来について語り合うこともあった。海外旅行も楽しんでおり、特にイタリア旅行では、真一と梨奈は手をつないでフィレンツェの美しい街並みを歩きながら、永遠に続く幸せを感じていた。
真一は、そんな日々に満ち足りていた。「この幸せがずっと続けばいいな……」と心の中で何度も思っていた。梨奈と過ごす穏やかな日常は、彼にとって何物にも代えがたい宝物のような時間だった。
ある日のデート中、真一と梨奈はショッピングモールの近くを歩いていた。その途中、信号の前で足元が危なっかしいお婆ちゃんが立ちすくんでいるのを見かけた。真一はすぐに駆け寄り、優しく声をかけ、「一緒に渡りましょう」とお婆ちゃんの手を引いて、ゆっくりと信号を渡った。梨奈はその様子を微笑みながら見ていた。
「またそうやって手を引いてあげるんですね」と梨奈が穏やかに言った。
真一は驚いたように振り返り、「え? 前に同じことをしてたの、見てたの?」と尋ねた。
「見てましたよ。ずっと」と梨奈は静かに答えた。
その言葉に真一は少し恥ずかしそうに微笑んだが、心のどこかで違和感を覚えた。梨奈が彼を「ずっと」見ていたというその言葉が、彼の胸に小さな疑念の種を残した。しかし、その場では深く考えることなく、そのまま二人でデートを続けた。
それから数日後、真一はある日、カフェでの出来事を思い出した。自分がまだ体を鍛え始めたばかりの頃、なぜかあの時から、彼女が自分を見つめていたような気がしていた。今になって振り返ると、梨奈はその時すでに自分に関心を持っていたのではないかという思いが強くなった。
それは愛情の目だったのか、それとも別の何かだったのか――。真一の胸に不安が広がり始めたが、梨奈の笑顔を見るたびにその不安はすぐに薄れていった。
結婚してしばらく経ったある日、真一は仕事のために家を出たが、大事な資料をマンションに忘れたことに気がついた。慌ててマンションに戻った真一は、玄関に差し掛かったところで、梨奈とジュンが立って話しているのを目にした。ジュンはカフェで見かけたことがあるが、真一にとってはよく知らない男だった。二人は親しげに話している様子ではなく、むしろ梨奈は困ったような表情でジュンと対峙していた。
「金を返せよ」とジュンが詰め寄り、声を強める。梨奈は困惑した様子で、「毎月ちゃんと返してるじゃない! そんなに急に全部なんて無理よ」と震える声で反論していた。ジュンは冷たい視線で彼女を睨みつけ、「バイト代じゃ足りないんだよ。金持ちの旦那に頼めばいいだろ」と、さらに圧力をかけるように言い放った。
真一はその言葉に衝撃を受けた。梨奈に借金があるとは思いもよらなかったし、その上、ジュンが金をせびっているのを目の当たりにして、体が固まった。
「真一さんにはそんなこと頼めない! 私がちゃんと返すから、もう帰って!」梨奈がそう叫んだその瞬間、ジュンが強引に彼女の腕を掴み、梨奈は苦しそうに体をよじらせた。真一はもう我慢できず、その場に飛び出した。
「俺の妻に何をしている!」と怒鳴りながらジュンに向かって駆け寄った。ジュンは真一の怒りに驚きながらも、「あんたか、じゃあ、こいつの借金1000万円を肩代わりしてもらおうか」と不敵に笑った。
梨奈は困惑しながら「違うでしょ! 借金は200万円だけよ!」と叫んだが、ジュンはそのまま強引に話を続けた。真一は一瞬躊躇しながらも、「1000万円だな。すぐに振り込んでやる。俺の妻から手を離せ」と冷たく言い放った。
ジュンは笑みを浮かべながら「へへ、頼むぜ」と言い残し、その場を去った。
梨奈はその場に崩れ落ち、真一は彼女の肩をそっと抱き寄せた。「大丈夫かい?」と真一が優しく声をかけると、梨奈は泣きながら「ごめんなさい、真一さん……本当に、ごめんなさい」と謝った。真一が落ち着いた声で理由を尋ねると、梨奈は昔、友人に誘われてホストクラブに行き、その時に大きなツケを作ってしまったことを告白した。「その時はただの遊びだと思っていたのに、気がついたら借金が膨れ上がっていたの……。でも、あなたのお金には一切手をつけず、カフェのバイトで返済していたの」と涙を浮かべて説明する梨奈に、真一は静かに寄り添った。
「大丈夫だよ。俺が何とかする」と真一は優しく声をかけ、翌日、梨奈から教えられた口座に1000万円を振り込んだ。
その夜、真一はリビングのソファに座り、少し疲れた表情を見せながらも、梨奈に向かって優しい声で尋ねた。
「もう、隠し事はないよね?」
彼は梨奈の瞳を見つめながら、真剣に言葉を発した。彼にとって、先ほどのジュンとの一件が心に引っかかっていた。二人の間には深い信頼があると思っていたが、突然の借金の話に動揺を隠せなかったのだ。
梨奈は一瞬だけ驚いたように目を見開き、次に視線を落とした。
「実は……」
その瞬間、真一は彼女の顔にほんの一瞬の緊張を感じ取った。梨奈の表情は、一度曇り、何かを言おうとしたが言葉が詰まったようだった。しかし、すぐに彼女は穏やかな笑顔を取り戻し、優しく微笑んだ。
「実は……アレが来ないの……」
梨奈は少し恥ずかしそうに口元を手で隠し、真一に向かって静かに打ち明けた。
「アレ?」真一は最初、その意味が分からず、首を傾げた。何か大事なものを忘れたのかと、少し戸惑ったように彼女に尋ね返した。だが、数秒後、その言葉の意味が脳裏に響き、はっとした。梨奈が伝えようとしていることが、頭の中で一気に繋がった。
「えっ……本当に!?」
真一は驚きと喜びが混じり合った表情で、梨奈を見つめた。彼の心臓は早鐘のように打ち始め、胸の奥から溢れる感情が抑えられなかった。梨奈は優しく頷きながら温かい声で答えた。
「うん、どうやら……できたみたい」
その瞬間、真一の目には涙が浮かんだ。彼は言葉に詰まり、ただ梨奈の手を握りしめた。どんなに辛いことがあっても、二人で乗り越えてきたこと、そして今、二人の間に新しい命が芽生えたことへの感謝と幸福感が、胸に込み上げてきた。
「本当に……ありがとう、梨奈……」
真一は声を震わせながら梨奈を強く抱きしめた。彼女の温かさが心に染み渡り、彼は涙を流しながら彼女の髪に顔を埋めた。これまでの困難や葛藤、借金問題さえも、すべてが遠い過去のものに思えた。新しい命が二人の未来に光を灯し、これからの人生がさらに輝かしいものになるという確信が、彼を包み込んだ。
梨奈もまた、真一の胸に顔を埋め、彼の温もりを感じながら静かに涙を流していた。「私も……ありがとう、真一さん」と小さく呟き、彼の背中に腕を回した。これまで隠し通してきた借金の悩みも、彼への負担を減らしたいという思いからだった。だが今、この瞬間に、彼女はすべてをさらけ出し、二人の絆はさらに深まった。
やがて二人はソファに並んで座り、互いの手をしっかりと握りしめたまま、静かに未来のことを話し始めた。新しい命を迎える準備、これからの生活、そしてさらに大きくなる幸せな家族の夢。それらが二人の中に、希望のように広がっていった。
すべての試練を乗り越え、二人は新しい命とともに、さらに強く、そして幸せな未来へと進んでいく。これまで以上に深く結ばれた絆を胸に、真一と梨奈は永遠の愛を誓い合ったのだった。
第2章は、2024年11月1日 1:00からSTARTします。