第16話「梨奈の過去」
梨奈は、貧しい家庭で育った。父親はおらず、母親の手一つで育てられたが、母はいつも家にいなかった。昼間は正社員として働き、夜にはアルバイトに出る。家を支えるため、休む間もなく働く母を梨奈は誇りに思っていたが、その一方で、いつも弟の洋平と家に残され、寂しさが胸に広がっていた。
梨奈が小学生の頃、母は疲れきった顔で帰宅するのが常だった。その姿を見て、梨奈は少しでも母を助けたいと思うようになり、家事を手伝い始めた。料理、掃除、洗濯——家のことは次第に梨奈の役目となっていった。そして、いつしか料理をすることが梨奈の唯一の楽しみになっていた。
学校の昼休み、梨奈は心の中で夕飯の献立を考えていた。「今日は何を作ろう?」そんなことを考えるのが楽しかった。友達と恋バナをする時も、梨奈の夢は「素敵な旦那様に美味しいご飯を作って、毎日帰りを待つこと」だった。友人たちは「梨奈の料理は本当に美味しいから、旦那さんは幸せだね!」と笑ったり、「でも、食べ過ぎないでね」と軽くからかったりした。実際、梨奈は料理をするのも、食べるのも好きで、そのせいか少し太っていた。
やがて梨奈はカフェで働くようになった。そこでは様々な客と接することが多く、特におしゃれで健康的な女性客が目立った。その姿を見ているうちに、梨奈は自分の体型が気になり始めた。鏡の前に立つたび、少し重い体を見つめ、素敵な旦那様を見つけるためにはまず自分を変えなければならないと感じるようになった。
「このままじゃダメだ。ダイエットしなきゃ……」
梨奈はそう決意し、フィットネスクラブに通い始めた。最初は体力がなく、続けることが難しかったが、彼女は諦めずに続けた。数ヶ月、そして数年の努力の末、梨奈はついに理想のボディを手に入れた。その頃には、彼女の生活習慣もすっかり健康的なものに変わっていた。
ある日、梨奈がフィットネスクラブでトレーニングをしていると、目の前のランニングマシンで汗だくになって走る男性が目に入った。それは真一だった。彼はその時、クラブに通い始めたばかりのようで、運動にはまだ慣れていない様子だった。顔は真っ赤で、息も荒く、何度も足を止めそうになっていたが、それでも懸命に走り続けていた。
梨奈はその姿をじっと見つめた。「私も最初はあんな感じだったな……」
梨奈はかつての自分と重ね合わせながら、懸命に頑張る真一を温かく見守っていた。しかし、真一はまだまだ体力が足りず、わずか5分ほどでマシンを降りてしまう。それを見た梨奈は、心の中で「もうちょっと頑張ろ?」と心の中でそっと思いながらも、声をかけることはなかった。彼は再び走り出し、限界まで頑張ろうとする姿を見せた。梨奈はその度に彼を応援する気持ちを抱きつつ、遠くから見守ることに徹した。
フィットネスクラブでの生活は、梨奈にとって自分を変える大きなきっかけとなった。そして、真一の姿を見ているうちに、彼がただの「頑張っている人」から、特別な存在へと変わっていった。それは恋心という形ではなかったが、共感と尊敬の感情が徐々に彼女の中で育まれていた。
それでも、梨奈は真一に直接声をかけることはなく、ただその頑張る姿を見続けた。彼が走り続ける姿を眺めながら、自分自身の努力の日々を思い返すことで、自分が成長したことを実感する時間でもあった。
そして梨奈は、自分もまたこの先の人生をどう進んでいくのか考え、当初の目的を果たし、理想の身体を手にした事もあり、静かにフィットネスクラブを退会した。
その時、真一がフィットネスクラブの帰りに黄色のスポーツカーで颯爽と走る姿を、梨奈が見かけたかどうかは定かではない。