第12話「就職」
「就職か……」
真一は高級マンションの広いリビングで一人ごちた。大きな窓からは都会の夜景が広がり、静寂な部屋に自分の声が反響する。今、彼の手元には膨大な資産がある。宝くじで手にした莫大な額、さらにそれを元手に投資で増やした配当金。しかし、梨奈にはそのことを隠し、貧乏なフリーターとして生活しているという設定で付き合いを続けていた。
「もう1年か……」
前職を辞めてから、いや、リストラされてから1年以上が経っていた。真一はカレンダーを見ながら、月日があっという間に過ぎ去ってしまったことを感じた。最初はフィットネスクラブやカフェでの日々に満足していたが、今ではその生活に物足りなさを感じるようになっていた。特に梨奈との将来を考えると、このままではまずいと思わざるを得ない。
最近、梨奈が「結婚相手には経済力が必要」と言っていたことが頭から離れない。お金ならあるが、それを梨奈に知られてしまえば、また前の女性のように金目当てだと思われるのではないかという恐れがあった。だが、就職をしなければ彼女との関係も深まらないだろう。
「でも今更、就職なんてできるか?」
真一はソファに深く座り込み、手を頭に回した。アルバイトしていました、なんて言っても、空白期間が長すぎて面接官に怪しまれるに違いない。何より、自分が働く必要なんてあるのか?と思う。お金が唸るほどあるのだから、わざわざ汗水垂らして働く意味が見いだせなかった。
「……いや、ダメだ」
真一は自分に言い聞かせた。もし梨奈に自分が実は大富豪だとばれたら、今まで築き上げてきた信頼関係が崩れてしまうかもしれない。彼女が「経済力がある人」を求めているとしても、自分の本当の資産を知られないようにしなければならない。だからこそ、適当な仕事を見つけて、見かけ上は普通のサラリーマンのように見せる必要があった。
「はぁ……どうするか」
真一は頭を抱えた。こんなに悩むのは久しぶりだ。前職を辞めてからというもの、ほとんど考えることなく過ごしてきたから、頭を使うこと自体が億劫に感じていた。しかし、この問題だけは無視できない。自分の未来、梨奈との未来がかかっているのだから。
「就活なんて大学の時以来だよな……やり方なんてもう忘れたよ」
真一は苦笑しながらぼそりと呟いた。履歴書や面接、企業研究、そんなものは今の自分には遠い昔の話だった。適当な仕事に応募してみても、経験の空白期間をどう説明するかが一番の問題だ。そもそも、前の職場で雇ってくれるならそれが一番楽なのだが……いや、無理だ。あの会社には戻りたくない。
真一はかつての職場でのことを思い返していた。彼が最後に提出したプレゼン――外国人観光客向けのガイドアプリの提案。自信満々で提出したのに、あの部長に一蹴された。費用がかかりすぎるとか、利益が見えにくいとか、いろいろ言われたが、結局のところ、部長が自分をリストラ候補と見ていたからではないかと思っていた。
「そういえば、あのプレゼン資料……どこにやったっけ?」
真一はふと思い立ち、ストレージルームの奥にあるカバンを引っ張り出した。懐かしい感覚とともに、彼はそのカバンを開け、中からUSBメモリを取り出した。
「これだ……」
彼はパソコンを起動し、USBメモリを挿した。画面に表示されたのは、あの時ボツにされたプレゼン資料だった。真一はしばらくそれを眺め、無駄になったはずの提案に対して再び熱がこみ上げてくるのを感じた。
「今なら、これを実現できるかもしれない」
自分には9億円の資産がある。費用が問題でボツになったなら、今の自分がその費用を出せばいい。そう考えた真一は、早速パソコンで起業の仕方を調べ始めた。
数週間後、真一は株式会社「Japan Adventures」を立ち上げた。主に外国人観光客向けのガイドアプリの開発とサービス提供を目的とした会社だ。全てはかつてのプレゼンを元にしたものだが、今度は自分が資本を出し、事業をコントロールする立場に立った。
「え!? 真一さん、就職したんですか?」
梨奈は驚きと嬉しさが入り混じった表情で真一を見つめていた。コンビニのアルバイトを辞めて、新しい仕事に就いたという真一の言葉に、彼女は心から喜んでいる様子だった。
「そうなんだ、だからアルバイトはもう辞めたよ」
真一はさらりと言ったが、内心ではかなり緊張していた。自分が実は会社の社長であり、大金持ちだということをいつかばれてしまうのではないかという不安があったからだ。
梨奈は彼に満面の笑みを向けて、「すごい、これからも頑張ってくださいね!」と応援してくれた。真一はその笑顔に、再び心の葛藤を感じたが、彼女の期待に応えるためにも、この嘘を貫き通す決意を固めた。
「ありがとう、梨奈。俺、頑張るよ」
こうして、真一は新たなステージに足を踏み入れた。嘘と秘密を抱えたまま、愛する梨奈との未来を目指して。