第1話「デブとリストラ」
田中真一、28歳。人生のピークを迎えるはずだったこの年、彼は職場での苦悩とプライベートの停滞にどっぷり浸かっていた。東京の中堅企業に勤めて6年目、周囲の友人は次々に昇進し、人生を軌道に乗せている。だが、真一は自分だけが取り残されているような感覚に悩まされていた。
近頃は結果が出ない。かつては明るく振る舞い、仕事もそこそこ楽しんでいたが、今では上司からの叱責が増え、チーム内での存在感も薄れていた。毎日のように積み重なるクレーム処理や、締め切りに追われる案件に埋もれ、仕事へのモチベーションは限界に達していた。
それは、ある日のことだった。真一が提案した新しいプロジェクト、「訪日外国人向けガイドアプリ」。これが、彼にとっての最後の賭けだった。
「これからの時代、インバウンドは増えるばかりです! 日本を訪れる外国人観光客向けに、各地の観光スポットやグルメを紹介し、予約や口コミも一括でできるアプリを開発すれば、必ず需要があります!」
自信を持ってプレゼンテーションをしたつもりだった。しかし、部長は興味なさそうに書類をめくるだけ。
「うーん、悪くないがこれを社内でやるリソースがないな。外注に頼んでやるのも費用がかかりすぎるし、ボツだな。次の提案はいつまでにできる?」
上司の声が真一の耳元で響く。返す言葉も見つからず、真一はただうつむくしかなかった。会議室の重たい空気が、彼の疲れた心をさらに押しつぶす。
「すみません、来週までには何とか……」
かろうじて絞り出した言葉は、自分でも信じられないほど弱々しかった。上司はため息をつき、他の同僚に話を振った。何度もプレゼンの準備を重ね、期待していた分、その拒絶は痛烈だった。
「まぁ、あまり期待はしていないが、もっと手堅い路線で頼むよ」
軽く流されるその言葉が、胸の奥に重く響いた。
仕事だけがつらいわけではない。プライベートも空虚そのものだった。真一はここ数年、特に目立った趣味もなく、仕事と家を往復するだけの日々を送っていた。休日は何もせずに過ぎ去り、友人とも疎遠になっていた。かつては毎週末に飲み会や旅行に出かけ、アクティブに過ごしていたのに、今では外に出るのさえ億劫だった。
家に帰れば、待っているのは乱雑に置かれたコンビニ弁当の空き箱と、部屋の隅でほこりをかぶった運動器具。健康を気にして買ったはずのランニングマシンは、結局一度も使われることなく、ただの物置と化していた。
体もその停滞した生活の影響を受けていた。かつてはスリムだった体型も、今では腹回りがたるみ、ズボンのベルトがきつくなる日々が続いていた。体重はここ数年で急激に増え、階段を上るだけで息が切れる有様だった。毎晩のように遅くまで残業し、その後はコンビニで買った揚げ物やビールを手に、ソファでゴロゴロと過ごす。そんな生活が、真一をますます追い込んでいた。
ある日、真一は上司から突然呼び出され、部屋に入ると、予想外の光景が広がっていた。人事部長と上司、そして普段は滅多に顔を見せない役員が揃って座っていたのだ。胸騒ぎを覚えながら、彼は無言で座る席を示されるままに腰を下ろした。
「田中君、率直に言うと、会社として君の今後について検討させてもらった結果、リストラの対象として考えざるを得なくなった」
その瞬間、時間が止まったかのように感じた。耳元で響く言葉が、現実感を持たずにただぼんやりと流れていく。リストラ。この言葉が自分に向けられる日が来るとは、思ってもいなかった。
「もちろん、これまでの君の貢献は評価している。ただ、経営環境が厳しくなっていてね、会社全体のリストラ計画が進行中なんだ。君の部署も例外じゃない。申し訳ないが、これが現実だ」
人事部長の声は冷静で、淡々としていた。感情のこもらない言葉が、真一の心に鋭く突き刺さった。
「リストラですか……」
ようやく口を開いた真一は、自分でも驚くほど静かだった。怒りや悔しさよりも、ただ無力感が押し寄せてきた。
「田中君には、退職金が支給されることになるし、再就職支援も提供する予定だ。これからのキャリアについて、じっくり考えてほしい」
頭の中が真っ白になったまま、真一は何も言えなかった。会話は続いているのに、すべてが遠く感じられる。目の前で話す人たちの顔がぼやけて見え、言葉の意味も次第に曖昧になっていく。
会議室を後にした真一は、オフィスの廊下を歩きながら、自分が何をすべきか分からなかった。机に戻ると、同僚たちは何事もなかったかのように仕事をしている。自分だけがこの会社から消えようとしている現実が、まるで夢の中の出来事のように感じられた。
その夜、帰宅しても何も手につかなかった。リビングのソファに倒れ込むと、天井を見つめながら、自分のこれからの人生についてぼんやりと考えた。職を失った自分、何も成し遂げられなかった28歳の自分。未来が見えない不安が、静かに胸を締め付けていた。
そして、ふと、街角の宝くじ売り場が脳裏に浮かんだ。何かにすがりたくなる気持ちで、真一は翌日、そこに足を運んだ。
「どうせ当たるわけないけど……」
そう思いながらも、彼は売り場に立ち寄り、10億円の当選を狙う宝くじを購入した。1枚だけ、財布から小銭を取り出し、店員に渡すと、薄い紙の券を手にした。ポケットにしまいながら、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
「これで人生が変わったら、笑っちゃうよな」
心の奥底では期待していないはずなのに、どこかで奇跡を望んでいる自分がいた。しかし、その瞬間はすぐに日常の疲れに押し流され、彼は再びいつもの無気力な生活に戻っていった。