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純喫茶Tomと

作者: PinkBird

その喫茶店は、仕事の合間のお昼休みによく訪れていた店だった。

年配のマスターと奥さんの二人で切り盛りしている小さな店である。

その日も、僕は昼休みのチャイムが鳴るといつものように喫茶店に向かった。



僕が初めてその喫茶店を訪れたのは、現在勤務している会社に新入社員として入社して2か月が経った頃だ。

新入社員研修が終了して実務をやりはじめたばかりで、覚えなければならないことも沢山あり、慣れない仕事をこなすのに精一杯だった。

あの引合の見積を作らなくては。注文書の作成は誰に依頼すればいいんだっけ。ああそうだ、社宅で独り暮らしを始めるための手続きもしなくてはならないんだった。

昼休みを告げるチャイムが鳴っても、山積する課題に縛られ、鬱屈とした気分から解放されないままだった。

疲れていて何も食べたい気分にならなかった。

だが、一先ず何か口に入れないといけないと午後の仕事が辛くなるだろう。

そういえば「ちゃんと食べなさい」と母も口癖のように言っていた。

身体を壊してしまっては母が悲しむだろう。

ーよし、忙しくても食事だけは欠かさないようにしよう。

僕はエレベーターで1階に降りて外へ出た。


会社はオフィス街の一角にあり、近くには喫茶店やラーメン屋が沢山あったため、昼食も摂りやすかった。


一軒の喫茶店が目に入った。

屋根の看板には「喫茶店Tom」と店名が書かれている。

暫くの間、僕は店の外に出された膝丈くらいのボードに書かれたメニューを見ていたのだが、蒸し暑さでじわじわと額が汗ばんできた。

「暑いな」と呟きながら手で顔を仰ぐ。

涼しい店内で珈琲が飲みたい、そう思った。

僕はTomに入店することに決めた。

その日からだ。僕がこの店の常連客になったのは。


早く駅に着いた日には、出勤前にこの喫茶店で時間を潰すこともあった。

(もしかすると、深層心理ではこの喫茶店に立ち寄りたい気持ちが働いて早くに出掛けていた部分もあったかもしれない)

店のメニューは、ナポリタンスパゲッティ、ミートソーススパゲッティ、トーストにホットケーキと、大抵のものは何処の喫茶店にも置いてあるものばかりだった。

だが、自分にとっては特別な味だった。

ナポリタンスパゲッティは、ケチャップの味がしっかりと染みていて、何処か懐かしい味だった。

パンケーキは、生地がふわふわで、外側の焼き目はかりっとしていた。

若者が食べに行くような店のシフォンパンケーキなんて食べたことのない僕が言うのもなんだが、僕はこの店のパンケーキがこの町で一番美味しいのではないかと思う。

味だけでなく、店内の雰囲気も好きだった。

窓際の席が特に僕のお気に入りだった。

窓の外に植えてあるカリンの木から零れるように差す木漏れ日が、会議で熱くなりささくれ立った僕の心を宥めた。

赤いふかふかのソファは座り心地がよく、年季の入ったシュガーケースも、この店がこの町の人たちに長きに渡り愛されてきたことを思わせた。

この店の、すべてが好きだった。



その喫茶店の入口に、今日「閉店のお知らせ」が掲示されていた。


古い木の扉を開き店内に入る。

木製のショーケースには、いつも通りショートケーキやモンブランが並べられていた。

窓際の席には先客が居たので、僕は二番目にお気に入りである入口のショーケース前の座席に座った。


「閉店…してしまうんですね。残念です」

僕はお冷やを置きにきたマスターに話し掛けた。

聞けば、マスターと奥さんはひと駅先の自宅に住んでいるそうで、この土地は競売に掛けられてコンビニエンスストアと駐車場の経営会社の両者でどちらが買い取るか話し合いをしているとのことだった。

コンビニエンスストアという単語を聞いて、ふと僕が勤める会社の経営コンサルタントが話していたことを思い出した。

「コンビニエンスストアやチェーン店ばかりが立ち並ぶ町ってあるでしょ。

 あれ、経営者の間じゃ"死んだ町"って言うんだよ。

 自分の生まれ育った町にはそうなってほしくないねえ。

 まあ、しょうがないんだろうけどさ」

現代に生きる人々の中では、(と言っても僕は生まれも育ちも東京だから東京都民しか知らないが)地元愛といったものを持っている人は少ない。

忙しなく生きる中で、そして同じく忙しなく生きる人々に囲まれて過ごす中で、人々は自然と地元愛よりも利便性を追い求めるようになったのだろう。

その反動で、コンビニエンスストアは次々と増え続け、個人が経営する店は潰れていく。

僕は、やるせない気持ちと寂寥の念でいっぱいになった。


店を出て、もう一度貼り紙をじっくりと読んでみた。

閉店の日付とともに、「54年間ありがとうございました」という文言が添えられていた。

この喫茶店はそんなに長い間営業していたのか。思えば新入社員だった頃からよく通っていたもんな、と思った。


まだ独身だった頃。喫茶店に食べに行くと、隣に老夫婦がやってきて、ジャンボトーストを注文した。

朝からジャンボトーストか、と思っていたら、老夫婦はふた切れのトーストを一枚ずつ分け合って食べはじめた。

まったく、僕はひとりで珈琲を飲んでいるのに、と羨ましくなった。

その日は、珈琲を勢いよく飲み干していつもより10分早く店を出たのを覚えている。


そんな僕も、今では妻子に恵まれ三人家族になった。


残業して遅くなった日に訪れたとき、マスターは「お疲れ様」と言ってから珈琲を置いてくれた。

期末だったこともあり、仕事に忙殺され、身も心も擦り減っていた僕には、マスターのさり気ない一言がじんと染みた。


思えば、今もこうしてこの会社で働けているのは、この喫茶店の存在が僕の励みになってくれていたからかもしれない。


マスターが経営を続けてきた54年もの間、この喫茶店は、会社員として働く僕の心の励みとなり、仲睦まじい老夫婦の思い出の一頁となった。

きっと他にも僕の知らないところで数え切れないほどたくさんの人々の人生に関わってきただろう。

擦れて色褪せたポスターや古傷のついた外壁が、54年の長い歳月を物語っている。

僕は喫茶店の外壁をそっと撫でながら、この喫茶店で起きた僕の物語と、ここを訪れた様々なお客さんの物語を思った。


この喫茶店は来月末にはなくなる。

そして、町の景色はこれからも変わっていくのだろう。

けれど、きっとそこで過ごした日々の記憶や貰ったものは決して消え失せることはない。


店内でサイフォンの前に立つマスターと目が合った。

僕は「お疲れ様でした」と口パクで伝えて深く一礼した。

珈琲の味も、マスターのお疲れ様も、僕を成長させたこの喫茶店での出来事すべてを胸に大事にしまいながら、

今日も僕は会社へと向かう。 


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