先生と私
先生は寡黙な人である。
その集中力はすさまじく、ひとたび自分の世界に入ってしまえば誰が話しかけようとも気が付かず、苦手な羽虫がそばを掠めても眉一つひそめない。
先生の書はとても美しい。
曰く、5歳の頃から筆を持ち始め今に至るそうだ。そしてその字体もさることながら、一連の所作が非常に美しい。流れる水のごとき書、とは先生のためにあるような言葉だと強く思う。
先生は栗羊羹が大の好物である。
特に駅前にある老舗店のものがお気に入りであり、これととびっきり苦く淹れた緑茶さえあれば、どれほど激昂しておられようとも、たちどころに機嫌がよくなる事は書道部では周知の事実だ。
そんな先生を、僕は心の底から尊敬していた。
部室の扉を開けるとき、僕はいつも緊張する。今一度、身だしなみを念入りに確認した。先生の前で無様な格好を晒したくはなかった。一通り確認して問題ない事を確かめると、息を吸って扉を二回、軽くノックする。扉の先ではかすかに物音がしている。きっと先生が墨を磨っているのだろう。一呼吸おいて中から返事があり、僕は扉に手をかけた。
「失礼します」
室内に入ると予想した通り、先生は硯で墨を磨っていた。どうやら僕が二番手らしく、他にはまだ誰も来ていない。先生は一番前の机に座り、人差し指と中指を綺麗に揃えて固形墨を磨っていた。その姿がなんとも堂に入っており、僕は思わず見とれてしまう。しばらくしてから当初の用事を思い出し、その美しい所作を遮ることを申し訳なく思いながらも、僕は先生に話しかけた。
「あの、先生」
「……なんでしょう?」
先生は手を止めてこちらを向くと、いつものようにちょっとムッとした表情で返事をする。
僕は気にせず話を続けた。
「再来月のコンクール課題についてなのですが」
「ああ、その件でしたら……」
僕と先生はいくつもの事項を擦り合わせる。
他の生徒たちの課題やコンクールに提出する書の内容などを、僕と先生はいつもこうして決めている。
先生が主となり部の物事を取り決め、僕がみんなに伝達する。これが先生がきてからの書道部では定形となっていた。やがて一人、また一人と生徒たちが部室にやってくる。ある程度人がそろうと僕が皆に連絡事項を伝え、そこからはそれぞれが書に向き合う時間だ。僕も自分の書道具を取り出し、机に座ることにした。
夕刻になり、生徒たちがぽつぽつと帰宅し始める。
僕と先生が明日の部活動について相談していると、一人の女生徒が話しかけてきた。
「先生」
そう呼ばれ、先生と僕は同時に振り返る。女生徒は一瞬ぽかんと口を開けると、照れたように「あの、学校の方の先生です……」と言い直す。それを聞いた先生は顔を真っ赤にしてこちらを向き、僕を両手で女生徒の方に押しやりながら大きく叫んだ。
「だから私は嫌なんですよ、先生って呼ばれるの!」
頬を膨らましながら怒る先生を見て、今日は駅前に寄り道をせねばなるまいと僕は心の中で思うのだった。