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バーボンのボトルを空にしたファドは、やがてゴリラのような鼾をかき始めた。
今だっ!
心の中でスタートの合図があった。エマは、ベッドのタオルケットの中に用意していたボストンバッグを掴むと、同時にTシャツとGパン、スニーカーを履いた体を起こした。
抜き足差し足でファドのベッドを横切ろうとした瞬間、鼾が止まった。ギクッとして、咄嗟にファドを見ると、カーテンから漏れる街灯の中に、寝返りを打ったファドの目を閉じた顔があった。
ホッと胸を撫で下ろすと、そのままじっとして、次の鼾を待った。だが、横を向いたせいか、寝息を立てるだけで、なかなか鼾はやって来なかった。
……でも、熟睡しているはずだ。
エマは再びスニーカーの爪先を立てると、ドアを目指した。そしてノブを握るとゆっくり回し、引いた。
ギィッ!
甲高い軋み音がした。途端、
「うっう~」
ファドが痰が絡んだような声を発した。咄嗟に振り向くと、ファドはまた寝返りを打って仰向けになった。間もなくして、再びゴリラのような鼾が始まった。
鼾をかくタイミングに合わせて、再びノブを引いた。鼾は止まなかった。安心すると、急いでアパートを出た。ファドの呪縛から逃れるために、脱獄囚のように疾走した。
ーー丁度、発車寸前のバスがあった。エマは行き先も見ないで飛び乗った。
……どこへ行こうか?
当てなどなかった。車窓に映る疎らな乗客たちは旅慣れているのか、周りのことには無関心で眠りに就いていた。エマは、窓に映る悲しい目をした自分の顔を見つめると、やがて、目を閉じた。
安堵の眠りから目覚めると、外は白々としていた。見たこともない町並みが車窓を流れていた。エマが飛び乗ったのは、フロリダ行きの長距離高速バスだった。
着いたのは、〈Shine Town〉という人通りの多い賑やかな町だった。腹が空いていたエマは、停留所の前にある〈Cafe&Bar Nice〉に入った。しゃれたエプロンをつけたウエイトレスが、窓際に座ったエマにメニューを手渡して、笑顔を向けた。
「ハーイ、ご注文は?」
少し年上だろうか、愛嬌があった。
「パンケーキとコーヒーのセットを」
メニューも見ないで即答した。
「ベーコンとハムがあるけど、どっちがいい?」
友だちにでも話すような物の言い方だった。
「じゃ、ベーコンで」
「オッケー。すぐ持ってくるわね」
愛嬌を残して背を向けた。時間が早いせいか、客は疎らで、浮浪者風の中年男や早起きの近所の老爺だった。
「お待たせ」
窓を向いていたエマの前にトレイを置くと、
「旅行?」
と、椅子に置いたボストンバッグを見た。
「え?えぇ、まあ」
「ステキな町よ。私が休みなら案内してあげたいくらい」
黒いカチューシャがブロンドの髪にマッチしていた。
「私、スージー。よろしく」
握手を求めてきた。
「私はエマ」
スージーの手を握ると、笑顔を向けた。
「ね、もし時間があったらテルちょうだい。友だち募集中なの。今、番号書いてくるから」
「えぇ」
腹が鳴っていたエマは、スージーが背を向けた途端、パンケーキにかぶりついた。ーー
〈Nice〉を出ると、散策に出掛けた。駅周辺は賑やかだが、郊外に行くと閑静な住宅地が広がっていた。川のほとりには草花が咲き乱れ、一日中眺めていても飽きないほどだった。
……こんな美しい地で暮らせたらどんなに幸せだろう。小汚ないブロンクスとは雲泥の差だ。
スージーから退店時間を聞いていたエマは、時間を見計らって電話をしてみた。
「よかったら、私の部屋に来ない?」
スージーが気安く招いた。ーースージーから聞いた道順を行くと、比較的新しいこぢんまりとしたアパートに着いた。ノックすると、例の愛嬌で迎えた。
studioの部屋は、花柄のカーテンやクッション、ベッドカバーで統一され、小綺麗に片付いていた。
「夕食を一緒にしない?何か作るわ。それとも、外で食べる?」
「どっちでも。スージーに任せるわ」
「オッケー。さて、何を作ろうかしら」
スージーは真新しい冷蔵庫を開けると、独り言のように呟いた。キャスター付きのワゴンに載った小型テレビからはジョン・レノ○の『イマジ○』が流れていた。
「ーー私もまだ半年ぐらいよ、ここにやって来て。町が気に入って、いつの間にか居着いちゃったって感じ」
フォークでサラダを突っつきながらエマを一瞥した。
「確かに、いいところ」
ビーフステーキをナイフで切りながら、エマが微笑んだ。
「でしょ?エマもこの町に住めばいいのに」
「でも、家賃とか高いでしょ?」
不安げに訊いた。
「ね?この部屋に住めば?」
閃いた目を向けた。
「えっ?」
「ベッドを買うだけだし、家賃も半分で済むじゃない」
積極的だった。
「……けど」
エマは躊躇した。
「もちろん、プライバシーは侵さないわ。ね、そうしましょうよ。エマとなら気が合いそうだし」
結局、エマはスージーと同居することにした。