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沈丁花  作者: 鮎川りょう
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「済まない」

 賢吾は謝ることしかできなかった。

「いいんです。おかげで、あの人の本心がわかりましたから」

「でも結婚を考えていたんじゃないのかい」

「ええ。母が彼を気に入ったみたいで、とんとん拍子に話が進んでいきました」

「母親が?」

 そうだとしたら、婚約者という人間ではなく肩書きにだろう。妻は婚約者と同じくらいエリート志向であるし、賢吾のせいで婚約者以上に犯罪者を憎んでいる。

「破局したことは、しばらく母親に話さないほうがいいかもしれない。説明するのは難しいし、承諾させるのはもっと難しいと思うから」

 賢吾はそう言って「じゃ、私もこれで失礼する。酒も飲めない人間が長居する場所じゃなかった」と、頭を掻いて告げた。

「あの……」

 娘が喉を鳴らした。何か重大なことを言おうとしている。これまで笑顔しか思いだしたことのない目に、溢れんばかりの涙を溜めている。

「聞きたくない。あなたの憶測を否定するわけではないが、たぶんその結論は的外れだ。根拠のない妄想にしかすぎない」

「そんなんじゃない。シチューを食べたら思いだしたの。かけがえのない温もりを」

 温もり。そう言われても何もしてあげた記憶がない。ただ娘は、どんなに貧しくとも愚痴一つこぼさない子だった。また笑顔を絶やさない子でもあった。それは賢吾にとって殊さら心強く、頑張れる原動力になった。底辺に堕ちて愚かなことをしてしまったが、賢吾は心から家族を愛していた。

「ありがとう。だけど過去のことだ。忘れたほうがいい」

「それは、わたしの頭の中から父を消し去れと言っているの」

 娘がテーブルに突っ伏した。

「その通りだ」

 冷淡に終止符を打った。それしか最善の方法がないと知っていたからだ。娘には娘の道があり、賢吾の進むべき道とは異なるのだ。顔を背けると真っすぐレジへ向かった。涙は出なかった。

  

「お帰りですか。では、父を呼んできますのでお待ちください」

 レジの前に立っていた店員が、賢吾を見て言った。

「黙って帰りたい。それよりも伝票がなかったけど、いくらだろうか」

「恩人から、お金を頂戴するわけにはいきません」

「困る。君が見抜いたように、静かに飲めなかったのだから」

「いいんです。それはそうと薄まった記憶はどうなりました」

「ああ、シチューを食べたら懐かしい記憶が甦った。見たくなかった現実も、付録にね」

 賢吾は無雑作に一万円札を置いて外へ出た。重たい雲がわずかに薄くなっている。

「待ってください。こんなに貰えません」

 店員が追ってきた。

「だったら預かってといてくれるか。今度来たときに、それで、また堪能したい」

「それは、また来てくれるということですね。なら、次に来るときまでに新メニュー、未来を変えるシチューを開発させておきます」

 店員が白い歯を見せる。

「ありがたい、ぜひ頼む。ちょうど変えたいと思っていた」

 握手を求めたら、店員が抱きついてきた。

「ありがとう。あなたは私を変えてくれた」

 空気は冷たいが、やけに目頭が熱い。賢吾はゆっくり抱擁をとき、別れを惜しむ店員にやりきれない思いで背を向けた。

  

 ロータリーへ着いた。これでもう娘とは会えないのだと痛惜し、足をとめて頭上を見上げた。一角をのぞいて相変わらず重たい雲が覆っている。

 その重く暗い空、それはたぶん愚かな事件と塀の中の闇だろう。反して煌々と明かりの灯るロータリーは、唯一、拠り所にしていた娘との温もりだ。なのに、どうして冷たく突き放してしまったのか。

 でも、それでいいのかもしれない。

 やがて本格的な春になる。夏がきて、秋、冬と、季節はめぐる。それらは今夜と、あの幸せだった頃とともに過ぎ去り、同一の色へ淡く染められていく。けれど、永遠に消えない温もりでもあるのだ。

 賢吾は歩きだす。

 どこからともなく沈丁花の香りがした。

 

 

          了


拙い作品を読んで頂き心から感謝します。

ありがとうございました。

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