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「当時五歳だった私は心に深い傷を背負い、なかなか立ち直ることができませんでした。それを見かねた父が千葉へ私を連れて行ったのです」
「それは、私が服役していた刑務所のこと?」
そう言った途端、隣の席から軽蔑めいた声が漏れたが、かまわず賢吾は記憶を手繰った。確か入所したての頃、面会に来てくれた親子連れがいた。弁護士と連れ立ってきたので印象は薄かったが、しきりにお礼を言っていたのを覚えている。
「そうです。一回きりなのですぐには気がつきませんでしたが、あなたとの面会は、何も知らない私を変えるに十分な経験でした」
そうだったのか。店長から会いたかったと言われても、何のことかわからなかったが、そんな経緯が言葉に隠されていたのか。
話終えると店員は二人のテーブルに目を向け、空き皿を片づけはじめる。そのタイミングを見計らったように娘が言った。
「わたしにも、その特性シチューをもらえますか。身体ばかりか、心まで温まるような気がしてきました」
「喜んで。じつはこのシチュー、母の得意料理だったのです。レシピは残っていませんでしたが、フレンチのシェフだった父が何度も試行錯誤の上、ようやく完成させた自慢の一品でもあります」
「それを食べると、ほんとうに記憶が甦るんですよね」
娘が真顔で尋ねる。
「はい。願えば、幸せだった頃の懐かしい記憶が」
店員が黒い前掛けから伝票を取り出した。「一人前七百円になりますが、お二つでよろしいですか」
「いや、僕は興味がない」
婚約者がつっけんどんに言った。
「では、一人前をご用意させていただきます」
しばしの時がすぎる。娘は特性シチューを食べ終え、しきりに腕時計を見るようになっている。シチューを頼んだ辺りから、二人の会話はなくなっていた。空気もどこかよそよそしい。おそらく婚約者は、娘が前科者に同調してシチューを頼んだのが気に入らないのだろう。弁護士ならともかく、検事を志望する人間として犯罪者への同調は忌むべきことでもあるからだ。
賢吾は店を出ることに決めた。あの欲に目がくらんだ最低の行為の中に、かけがえのないものを見つけることもできたし、もう十分だと思った。何より娘に触れ、見た目や経歴に踊らされない性格のよさを確認することができたのだ。もう十分に折り合いはついた。たとえこの先二度と会えなかったとしても満足だった。ゆっくり腰を上げた。
「待って!」
湿った声がした。娘が目を潤ませている。
「よせよ。なぜ引きとめるんだ。僕らと別世界に住む人間なんだぞ」
婚約者が、にわかに下世話な顔をさせてまくしたてる。
「でも、服役して償いは済んでいる」
「そんなことは関係ない。法を守る側の人間として、君に犯罪者と関わりを持ってほしくない」
「無理よ。だって……」
「だってもくそもない。考えればわかることだ。検事という立場を理解できないようであれば、一緒にいる意味がなくなる」
「ひどい言い種だな。君に立場があるよう、私にだって私の立場があるんだ。彼女にも」
放っておくつもりだったが、傲慢な政治家のような態度に我慢ならなかった。
「失敬な男だな。了解もなく人の話に割り込んできて」
婚約者が顔を上気させた。目からありありと怒りが噴きでている。けれど失敬なのは、あからさまに人を侮蔑する彼のほうだ。
「さっきから君の態度がおかしいと思っていたんだが、もしかしてこの男は――君の知り合いなのか」
婚約者が娘の目を威嚇するように見すえた。娘は見返すことができずにうつむいた。
「そうだったのか。詐欺同然だよ。妻の知り合いに犯罪者がいるだけで失脚する世界なのに、君がこんな下賤な男と関わっているとは思いもしなかった。婚約は解消だ」
憤然と婚約者が席を立った。飲み代を半分払うとだけ言って、振り返ろうともせずに出ていった。