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目抜き通りを越えた辺りから一段と空が重たくなった。空気もひんやりとして、冬に逆戻りしたかのように肌寒くなってきた。
それにしても成功したならまだしも、惨めなまま娘に会ってどうするのだろう。賢吾は自分で自分の気持ちがわからなかった。
妻と再会して、たがいの心が離れてしまっていることに気づかされた。娘とも同じことが予測される。これ以上生き恥を重ねても何も得るものなどない。親が立派でなければ、親子の絆なんて絵に描いた餅なのだから。
ただ、絶望でもいい。娘を間近で見て、自分のしでかした人生に何かしらの折り合いをつけなくてはと思っている。
目的の店の前に着いた。リーズナブルでありながら料理が美味く、客質がいいと評判の店らしい。まだ六時だというのに、山小屋風にインテリアされた店内はすでにかなりの賑わいを見せていた。
一組のカップルが店の中へ入ると、賢吾も間を置いて続いた。すると通路で、いきなり若い店員に呼びとめられた。
「お客さま。申しわけないのですが、当店は一応会員制になっていて、一見のお客さまはお断りすることになっているのですが」
居酒屋で会員制など聞いたことがない。
「中に連れがいるんだ。入らせてほしい」
「なるほど。ではお呼び出ししますので、お客様の名前を教えていただけないでしょうか。当店は酒場ではありますが癒しの空間とも考えております。ですのでそれを守るため、稀にですが、著しく粗暴なお客様にはお引きとりを願うこともあるのです」
やはりそこか。時代遅れの牛革ジャンパーにストレートジーンズ、さらに坊主頭に魚のような濁った目。さすがに務所帰りとは思わないものの、著しく柄が悪いのは確かだ。店の方針にもそぐわないし、異論はない。
だが本音は違うと思う。情報をくれた妻が思い直したのだ。娘につきまとうストーカーが行くからと、賢吾の人相や服装を店の者に教えたに違いない。
「見た目ほど粗暴じゃない」
「ええ、そうであることを願っています」
「静かに飲むことを約束する。頼むから、入れてもらいたい」
頭を下げ、真剣に頼み込んだ。だが店員は見透かしたように図星を突いてくる。
「連れというのも信用できませんし、言葉通り静かに飲むとは思えません」
「飲むよ。君じゃ埒があかないから、店長を呼んでくれないか」
「店長をお呼びすれば、納得していただけるでしょうか」
「店長に、人を見る目があれば――」
「ほう。では、そのままこちらでお待ちください。くれぐれも勝手に入り込まないように」
と念を押し、店員は調理場へ消えた。怪我でもしているのか、少し足を引きずっていた。
天地無沙汰になった賢吾は、硝子扉に映る自分の姿を見て、これでは警戒されるはずだと苦笑し毛髪の薄くなった頭を撫でた。
料理人にしては見るからに精悍な店長がやってきた。どこか見覚えのある男だった。店のロゴの入った黒いTシャツに黒い調理ズボン、そのズボンを黒い前かけで隠し、頭にやはり黒いバンダナを巻いている。背が高く、顔は浅黒くて全体的に彫が深い。年令は賢吾と同じで四十代後半ぐらいだろう。
一目見て、この店長が穏やかだが意志の強いことを見抜いた。なら、やんわり追い出されてしまう可能性が高い。
が、あにはからんや店長は、賢吾を見るなり「こちらへどうぞ、お客さま」と、丁重にカウンター席へ案内する。
店員が呆気にとられている。賢吾自身も考えてもいなかった対応に驚きを隠せない。
「いいんですか」
店員が、店長を呼びとめる。
「問題が起きたら、俺が責任をとる」と、きっぱり言い「会いたかった――」と、賢吾へ向かって不器用に笑んだ。
推測で知り合いなのだと理解できたが、賢吾にはまったく覚えがない。
「悪いが事情があって、すぐには時を巻きもどせず、過去の記憶が薄れている」
「残念だ。だが、思いだせないなら仕方ない」
「済まない」
と賢吾は目を伏せた後、写真を取り出し、顔を娘の隣の小じんまりとした席へ向けた。
「できたら、あの席へ座らせてほしい」
店長が考え込む。
「あの席に、その薄れた過去を思い出すヒントでも隠されているのか」
「ああ、十六年という、長いヒントがね」
「案内しよう。しかしトラブルは起こさぬことだ。若いが、連れの男は法律事務所に勤務する人間なのだから」
「私も、そうさ」
賢吾は言った。「十六年間、法に忠誠を誓っていた」
「なるほど。長そうなヒントだ」
店長は意味深に笑み、賢吾をほんのり沈丁花の香りのする娘の隣へ案内した。「お飲み物だけを、ご注文してください。できしだい、随時料理を運ばせていただきます」
「じゃ、コーラをもらいたい」
「承知しました。それは賢明な注文です。では――ごゆっくり」
店長が厨房の中に消える。その後ろ姿になぜか哀愁を感じ、荒んだ心がなごんでいくのを感じた。
「酒も飲めない男が、一人で居酒屋に来る心境がわからない」
感傷に浸っていた賢吾の耳に、聞き取れないぐらいの小さな囁きが入り込んできた。手で顔を隠して指の隙間から窺うと、隣の席の、婚約者だという男が娘に顔を近づけていた。
確かにその通りだと思う。酒を売る店で酒を注文しないのは、コーヒー専門店でビールを頼むようなものだ。ピントがずれている。
しかし、どのように思われてもかまわなかった。どうせ前科者、この先も大した人生を送れるわけではない。ただ失望してもさせてもいいから、娘の成長を胸に刻みつけておきたかった。それが罪を償った時間の証なのだ。そうじゃなければ出所しても時間はとまったままになってしまう。
「僕らは裁判の傍聴を義務づけられているんだけど、あの人、服装の感覚も時代錯誤が甚だしいし、もしかして訳ありなのかもしれないね」
「え、訳あり?」
男の放った言葉に、娘が反応して賢吾へ視線を流す。気づかれずに視線を流すと、男がぼそぼそと何やら囁いている。娘が目をまるくさせたので、たぶん刑務所帰りだと説明したのだろう。勘の鋭い男だ。
「どうしたんだい」
「何でもない、ただ……」
「心配いらないよ。僕はじき検事なるんだし、自分からトラブルを作ろうなどと思っていない」
男がハイボールに口をつけてから、言葉のトーンを優しく変えた。さらに顔を近づけ、自らの寛大さを誇示した。
娘は身体をずらすようにして、男の近づいた顔を遠ざけ、伏し目がちにサワーグラスへ手を伸ばす。
「そうじゃないの。わたしが言いたいのは、親のこと」
親のこと? まさか妻は、父親が殺人犯で刑務所に入っていることを娘に話したのか。だったら隣の賢吾が誰なのか直感で気づいたのかもしれない。
賢吾は顔を隠すのも忘れて娘を見つめてしまった。娘に流れた十六年という時間を勝手に想像し、感慨深く見入った。だが軽率すぎた。もろに目が合ってしまった。男の視線も冷たく突き刺さる。