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沈丁花  作者: 鮎川りょう
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 門を抜けると玄関の前に妻が立っていた。長身で均整のとれた容姿。さすがに目もとは多少衰えを見せているが、どきっとするほど若かった。

 純金のネックレスが眩しい黒いハイネックの上に、ウール地のカーディガンを羽織い、その下は花柄のスカート。髪は以前のように染めていなかった。そのぶん光沢のある黒髪が、曇り空に負けずほんのり亜麻色にきらめいている。

 だが笑顔も、再会を懐かしむ涙もない。妻にとって、この瞬間にいちばん相応しいと思われる無表情を繕っていた。

 耐えきれず賢吾は庭先に咲いていた細い梅の枝を折った。再会のたしなみだといって、嫌味っぽく渡した。

 妻は肩をすくめ「何の真似かしら。もしかして、これも塀の中で身に着けた処世術なの」と、怪訝な顔をさせる。

「ああ、力のある奴には石鹸を渡していた」

「身体も、でしょ」

「それは映画の話でしかない。実際にそんなことをしたら懲罰房行きだ。自慰行為も見つかれば減点。品行方正じゃないと務まらない世界なんだよ、塀の中は――」

「善人を演じるわけね」

「そうだな」

 賢吾は小さく息を吐いた。「よそう。湿っぽくなる」

  

 室内へ入った。吹き抜けのエントランスが広がっていた。ポイントごとに置かれる重厚感のある家具、調度品。どれもが艶のある年代もので、歴史を感じさせる高級な品ばかりだった。

「ご高齢の弁護士さんは、家具も人間も、すべてアンティークが好みのようだ」

 妬みから遠回しに再婚を皮肉った。

 妻がきいっと睨み返してきた。しかしその嫌味には触れず「珈琲でもいれようか」と、矛先を変える。

「遠慮しとく」

「あら、そうなの」

 と素っ気なく言って、梅の枝をコップに挿した。サイフォンから抽出された珈琲をカップに注ぎ、ソファーに座ってわざとらしく足を組んだ。賢吾も向き合う形で腰かける。

 妻とは服役中に離婚が成立した。当然といえば当然だったのかもしれないが、後に再婚したという情報を、前職がホストだという同郷の新入りから得た。何でも新入りの内縁の妻が、賢吾の妻と親交があったらしいのだ。

「奥さん、離婚調停をしていた弁護士と所帯を持ったようですよ」

 さらに新入りは、あからさまに小指を立て「その弁護士さん、達者なのか律儀なのか、とうに還暦を過ぎてるんですが、どうしてかずっと独り身だったらしいんですよ。変な話、極端なマゾとも噂されていましたし、奥さんとは、よっぽどあっちの相性が合ったんでしょうね」と、あらぬ推測を交えて付け足した。

 賢吾の頭の中であれこれ卑猥な映像が入り混じったが、それもこれもすべて、懲役二十年では仕方のないことだと受け入れたのを覚えている。

  

 テレビの大型画面に開幕したばかりの女子ゴルフ中継が映しだされていた。注目のマスターズを一ヶ月後に控え、パワフルな外国人招待選手と一見控えめな日本の美人ゴルファーによるプレーオフの模様が流れていた。

「それで、娘に会ってどうしたいのかしら」

 妻が、ちらっとテレビに目を向けながら言った。

「別に、顔を見るだけ。私から話しかけもしないし、何も望まない」

「だったら写真でもいいんじゃない。一枚ぐらいならあげてもいいけど」

 珈琲を飲み干した妻が、隣室から写真を持ってくる。賢吾は食い入るように見た。

 リクルートスーツを着た娘が、満開の桜の下で、目に当時の面影を残しながら面映ゆそうに取り澄ましていた。

「もう、二十二歳よ」

 つくづく塀の中とのギャップを考えさせられる。服役囚には、老いていく者がいても成長する者など皆無なのだ。だから皆、年を忘れる。そうすることで老いても絶望を感じないということにつながるからだ。重犯罪専用刑務所というのはそれほど刑期が長い。

「それにしても君の若い頃に似ている。これなら一目見ただけですぐわかる」

「そうね、わかるかもしれない。だけど娘は、あなたを見てもたぶん気づかないと思う」

 坊主頭に希望の喪失した目。まさにその通りだと、賢吾は革ジャンパーの胸ポケットから苦々しく煙草を取り出した。

「灰皿をもらいたい」

「十六年も禁煙していたのに」

 妻が口をへの字にして、灰皿と卓上ライターをテーブルへ置いた。女子ゴルフのプレーオフは、結局大方の予想通り、接戦の末、外国人選手が日本選手を負かすという定番の結果で幕を閉じた。

  

「で亭主は、娘の父親がどんな人間なのか、どこまで知ってるんだ」

 知らないふりをしてカマをかけた。

「隠す必要があると思う? 娘は、わたしと違って変な虫がついていないのよ。恋人、未来の検事候補なの」

「つまり、揃って虫退治のエキスパートということになる」

「どうかしら。娘の彼はそうだけど、うちは弁護士だから虫退治はしない。むしろ擁護しているんじゃないのかしら。でもゴキブリは願い下げね」

 相手にするのはコガネムシで、賢吾はゴキブリと言いたいようだ。もう少し人情味のある言葉が聞きたいと思っていたが、妻の本性が覗けてきた。げんなりする。

 同房に元弁護士もいたが、最初はおどおどしていたのに、慣れたらゲジゲジのような看守に取り入り、ゴキブリと見分けがつかないほど下卑た人間になった。いくら偉そうにしていても一皮むけば人間みな同じ穴の狢という証明だ。

 賢吾は憮然と煙草をもみ消した。

「邪魔した。写真はもらっておく」

「あら、もう帰るの。会っても無駄だと、理解してくれたのかしら」

「逆だ。どこへ行けば会えるのか、嘘をつかずに教えてもらおうか」

 賢吾は目に力を込め、凄んだ。時間は人の心も変える。いや、最初から妻は変わっていなかったのかもしれない。賢吾だって始まりはエリートだったのだ。だから夫婦の終焉は事件ではなく、銀行員をやめたときから模索していたに違いない。

 そして妻に関していうなら、時間が人の心を変えるのではなく、肩書きが心を変えるのだ。


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