2
2
誰の出迎えもなく塀の外へ出ると、心を映したのか空は重たい灰色に塗り込められていた。
十六年振りの外の世界、その郷愁がかすんでしまうのは大ていこんな曇天のときだ。気だるく空を見上げていた賢吾は、頭の中に刻み込んだ住所を頼りに駅へ向かった。
車中、何度もポケットに手を入れた。そのたびに取りだすのは一枚の薄っぺらいメモ紙。文庫本ていどの大きさで、目的地ともいうべき妻の住所が記されていた。
その場所は、転勤族だった父の仕事で三年ほど住んだ街だった。だが三十五年も前のことで見紛うほどにさま変わりしていた。
建物に目を向ければ、かつて何度も腹を満たした老夫婦の経営する食堂がなくなり、お洒落な外資系の珈琲ショップになっていた。母が好きで、通るたびに立ち寄ってい老舗の和菓子店も仰々しい看板の目立つ居酒屋に変わっていた。古い平屋の店舗は軒並みビルとなり、再開発の名の元すべて一新されていた。
メモを取りだし、歩きながら無造作に二つ折りにした。それがこのすっかり様変わりした街並みと、いったいどんな関わりを持つのか賢吾自身もわからないまま、すれ違う歩行者に気をつけながら丁寧に端を揃え、また真ん中から二つに折りたたんだ。
その工程を二度くりかえして十六等分にし、今度は両端をつまんで一気に広げた。ひだの間で山折りになった妻の住所がいびつに波うっている。あきれるほど文字が歪んで、ある部分は読む気も起きないほどによじれていた。
賢吾は立ちどまり、そのぎざぎざに織り込まれたひだを、塀の中で過ごした長い年月に置き換えしみじみ考えた。谷底の一つを一年として、十六年という空白が妻と娘の心にどのくらい影響を及ぼしたのかと。
わかるはずもなかった。ただ折り目の入った文字の線が消えないよう、一度埋没した絆が元に戻らないのはあきらかだった。なら、冷やかな現実を見せつけられるだけかもしれない。
賢吾はもどかしい息を吐きながらふたたび歩きだした。
商店街を抜けた所で、草地の記憶しか思いだせない近代的な住宅群を見渡し、ここでも市街地と同様、施設の中とは違う急すぎる時の流れに戸惑った。けれど目的地間近まできたとき、辺り一面に時間が巻きもどされるような甘い香りが漂っているのに気づかされた。
賢吾と同じで、時代から取り残された感のある古い公園からだった。遊具もなく、ベンチがあるだけのひっそりとした空間。中央に樹齢三百年はあろう桜の老木が一本、節くれだった枝を広げていた。その傍らに沈丁花が群生していた。
すぐに懐かしむよう匂いを嗅いだ。
そういえば妻が、この花をベランダで鉢植え栽培していた。水やりのたびに、娘が花の前にしゃがみ込み「何だか、この匂いを嗅ぐとセクシーになった気がする」と、三歳にしては大人びた笑顔を弾けさせていたのを思いだす。
笑い返すことしかできなかった――あのたわいのない光景は、ただ単に過ぎ去ってしまったできごとでしかないのだろうか。
賢吾は唇を噛む。花に背を向ける。隣接する家の表札を何度も確かめインターフォンを押した。カメラが気になり横を向いて何気に敷地を覗いた。広い庭一面に瑞々しい芝が敷きつめられていた。通路には石畳が埋め込まれ、その両脇には葉をまるく刈り込んだツツジが玄関先まで植えられていた。
どうにも敷居の高い邸宅だと、今さらながら賢吾はインターフォンを押したことを後悔した。
しばらくして、インターフォンから「どちら様ですか」と、よそよそしい女性の声が漏れてきた。賢吾は慌てて門へ戻る。
「久しぶり」と、気後れした口調で言葉を返した。
「えっ……」
と、女性が小さな声を漏らし「何の用なの」と、声をワンオクターブ低くさせる。
一瞬で、誰なのかカメラで確認できたのだと思う。素っ気なさだけが伝わってきた。
「大した用じゃない」
賢吾は苛立ち、声を押し殺す。
「……よく、ここがわかったのね」
「そのぐらいの情報網は持っている」
「そう。それで、どうしたいの」
「顔を見にきた」
「わたしは別に見なくても平気」
想定していたが、一度愛想をつかすと二度と媚びない性分は変わっていなかった。
「心配しなくていい。見たいのは、君ではなく娘だから」
インターフォン越しに、ごくりと唾を飲み込む音がした。
「警察、呼んでもいいのよ」
「かまわない」
広い庭、洒落た門構え、閑静な住宅街に一際映える白亜の屋敷。パトカーがくれば近所の噂になる。尾ひれがついて、築いてきた幸せが崩壊する可能性だってなくはない。
数秒がすぎた。舗道を足の長い洋犬を連れた主婦が、胡散臭げに見て通りすぎた。家路に向かう学童が、賢吾を目にして足早に駆け去った。日は西へ大きく傾きはじめていた。
と、かちっとロックが解除される音がした。
「解錠したから中へ入って」