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沈丁花  作者: 鮎川りょう
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 失踪者は七年で存在を失い、死亡者とみなされる。また二十代で懲役二十年以上を言い渡された犯罪者の妻は、子どもがいようといまいとその帰りを待つことがほとんどないという。

  

 千葉県千葉刑務所、別名、重犯罪専用刑務所。総収容者八百名のうち四割以上が無期懲役者で占められている。そのような社会と隔絶された閉鎖空間では、どれだけの年月がすぎようとも収容者の意識は入所した時点でとまり、すべて昔のままなのだった。

   

「出所前日だと、やはり眠れないようだな」

 十六畳ほどの雑居房、板敷の通路を挟んだ畳の上に布団が六組敷かれている。寝たとばかり思っていた同期の安さんが、衝立ついたて越しに小声で話しかけてきた。すでに消灯から一時間以上たっていた。看守に見つかれば、即、懲罰房行き行為だ。

「ああ、妙に興奮している」

 吉田賢吾は躊躇わずに胸の内を言った。

 この閉鎖された社会において懲罰房というのはかなりの致命傷になる。仮に懲役二十年だとして受刑者は持ち点を二百からスタートさせられるので、無事故で過ごせば毎月七点、年間で八十四点が減る仕組みになっている。

 それを三年間守り通して、ようやく次の三級に昇格できる。

 でも三級になればなったで、さらに倍の持ち点四百を課せられるのだ。次へ昇格するには、ひたすら自分を殺して六年の歳月が必要となる。

 けれど、何も面倒を起こさないで月七点を減らすのは至難でしかない。意地汚い看守の策略に乗せられて、大体が些細なことで刑期を加算されてしまうのが実状だ。

 だからここの四割以上を占める無期懲役者たちは、若者であろうと老人であろうと例外なく希望を持たない。希望を持たなければ、等しく絶望を感じないということにつながるからだ。

 よって懲役二十年を言い渡された、当時二十九歳の賢吾は、入所と同時に希望と時間を窓の外へ置いてきた。

  

「安さん、短気を起こさなければ、じきにあんたも仮釈をもらえる」

「仮釈なんて、ほとんど絶望さ。小便しながら窓の外を見ただけで減点、点呼の時に咳き込んだときだってそうだ。看守の野郎、抗弁だと抜かしやがって皮手錠だ。もう気長に満期を待つしかないさ」

 元暴力団の安さんは、四十六歳。賢吾より一歳上だが、同じように十六年以上ここで過ごしている。罪名は殺人、対立する組織の幹部を拳銃で射殺したらしい。その際、民間人も誤って殺してしまったという。

 いわゆる流れ弾なのだが、相手は巻き添えを喰らった通行人の女性。しかも、お腹の中には新しい生命が宿っていたらしいのだ。

 結局、有期としては最大に五年足りないだけの懲役二十五年。出所しても組員はもちろん誰も安さんを覚えていないだろう。唯一、鉄砲玉として使った兄貴分だってもう存在自体を忘れているはずだ。

 彼も時間によって、存在を失ったうちの一人といえる。

  

「あの……」

 不意に足元の方から若い男の声がした。「ところで吉田さんは、何をやらかしたんですか」

 便所の横で眠る新入りが、布団からほんの少し顔を覗かせている。

「すっ込んでやがれ、新入りのてめえにゃ十年早い」

 安さんが頭を半分起こして新入りに毒づいた。

「聞きたいか」

 反して賢吾は言った。どうせ眠れないところだったし、入所の際に置き忘れた希望を思いださなければ社会に復帰する意味もなくなる。

「ええ、ぜひ聞かせてください」

 新入りが、ごろんと身体の向きを変えた。あごの上に両掌りょうてのひらを乗せて見つめてきた。

 明日になれば否が応でも時間が動きだす。その速い流れに戸惑わないためにも、賢吾は大切な娘との絆を思い浮かべながら事件の詳細を話した。

  

 F銀行に就職して三年目、賢吾は大恋愛の末に高根の花だった妻を射とめ結婚した。若かったせいもあり何事にも情熱的だったからだ。

 てきぱきと仕事をこなす仕事ぶりも同僚からは一目置かれ、上司からは評価された。末は頭取かと将来を嘱望されていたのだ。

 だが情熱的というのは言い方を変えれば勝ち気にも変化する。さらに中途半端に持ち備えていた正義感も災いしたのだろう、上司と衝突して辞職を余儀なくされた。

 その後も、有能であっても勝ち気な性分は直らず職を転々とした。銀行員からはじまり、不動産業に変わってタクシーの運転手になった。最終的には社会保障のない日雇いに転落した。その凋落ぶりに妻が愛想をつきはじめたとき、事件が起きた。

  

 三歳の娘の誕生日を祝うため、仕事帰りにケーキを買って足早に家へ向かっているときだった。どんという鈍い衝突音とともに、前方から激しく蛇行する車が迫ってきたのだ。

 咄嗟に後ずさりすると、運転席のドアにしがみついている男の姿が確認できた。後方には女性と幼児が路上に倒れている。事情はよくわからないが、しがみつく男は、必死に車をとめようとしているらしかった。たぶん倒れているのは男の家族で、しがみつく車に轢かれてしまったのだろう。

 蛇行して、男を振り落とそうと躍起になっていた車は、そのうち勢いよく電柱に激突した。しがみついていた男は道路に投げとばされた。

 賢吾が駆けよろうとすると、大破した車の中から二人の男が出てきた。フロントガラスに頭をぶつけたらしく、ふらふらだった。それでもバッグを持って千鳥足で逃げようとしている。

 急ぎ賢吾は救急車の要請をした。そして倒れ込み、ぴくりとも動けずにいる男と妻子へ「心配するな、救急車を呼んだから」と伝え、二人を追った。

 三百メートルほどで追いついた。

  

「見逃してくれ、金をやるから」

 二人が荒い吐息で懇願してきた。

 賢吾は「轢き逃げだぞ、ふざけるな」と、一喝した。

 すると自棄になった一人が、いきなりナイフを振り回してきた。身をよじって避けたが、肩から背中にかけて斬りつけられた。鮮血が飛び、熱い痺れが走る。

 逆上した。勝ち気な性分が頭をもたげた。気づくとナイフを奪い取って衝動的に二人を刺していた。喉を一突きにしたので二人とも虫の息だった。

 事の重大さに憔悴していると、こぼれおちたバッグの中に札束が押し込まれているのが見えた。

 瞬間、意識は飛び、離れてしまった妻の心を取りもどせると錯覚した。

 バッグを掴んで夢中で逃げた。しかし何も取り戻せない。結局、金を強奪した上に二人を殺して懲役二十年。罪名は強盗殺人。収容先は重犯罪専用刑務所。

 ひたすら自分を殺して十六年、明日ようやく釈放される。今考えれば、欲に目がくらむと大切なものを失うという典型でしかなかった。


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