姉貴のコーヒーブレイク
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、つぶらやじゃん。隣いいか、隣?
いや〜、ここの席は外が見られるからいいよな。どうも店の中で奥まった席って、安心できなくって。
――なんでなのか?
そうだな、何かあったときに逃げ遅れかねないから、かねえ?
席を立って駆けだしたら、もう出口はごった返し。ひょっとしたら、こういう窓壊して外へ逃げてる人もいるかもしれん。いずれにせよ、後れをとっていることに違いはない。
そうしたわずかな違いで、命取りになるっていうのが嫌でな。外が見えれば、逃げる以外にも、迫ってくる何かを事前に察知できるし、たとえそれが逃げられない手合いでも、覚悟くらいは決められるもんよ。
でもさ、そういう決まったポジションに導かれるって、何かしらの理由があるんじゃなかろうか? 自分の意志でもそうでなくても、この場所、この物、この相手じゃないといけない。そうさせてしまう、何かがさ。
俺の姉貴も、ちょっと変わり種な体験をしたらしくってな。そのときの話、聞いてみないか?
俺が中学校にあがったばかりのころ。ひとつ上の姉貴が突然、自分用のコーヒーカップを買ってきて、コーヒーを飲むようになった。カップに乗せてお湯を注ぐだけで、本格コーヒーの気分を味わえる、ドリップバッグも買ってきてな。
とはいえ、当初のクールな雰囲気は、秒でぶち壊しだ。
姉貴はバッグを切ったかと思うと、粉末ココアを飲むみたいに、中身をカップにぶちまけて、お湯を注ぎ出しちまったんだからな。これが笑わずにいられるか。
「ぶはは! ドリップって、『したたる』って意味だろ? 誰が混ぜ混ぜしろっていってたんだ。『ミックスコーヒー』なのか? ボーケ」
まあ、すぐ顔真っ赤にした姉貴に、ぶん殴られたんだがな。
正しく、中二病のはしりだったんだろうな。あの背伸びして、自分を少しでも大人っぽく見せたくなる気持ちだ。
こてこての甘党のくせに、妙にコーヒーはブラックにこだわっていた姉貴。
それをごまかすために、ケーキとかをすぐ横に置いて、食べている姉貴。
コーヒー飲むときはしぶい表情のくせに、フォークにケーキのクリームが乗っかるや、「うはは」と声が出てきそうなくらい、頬が緩んでいる姉貴。
――なに? お前、姉貴のこと好きすぎだろ?
ああ、煽るネタ探すのに退屈しなかったからな、あの人は。
とはいえ、いまや姉貴も人妻。もっぱらからかう役目は、一緒に暮らす義兄さんにお譲りしているところだ。
で、その姉貴がひとりでコーヒーを飲んでいたときのこと。
そろそろブラックに慣れてきたか、文庫本を読みながらすする格好がいたについてきた。パラパラとページをめくり、キリのいいところで、コーヒーをひとくち。例のカップは、相変わらず姉貴の寵愛を受けていた。
そのソーサーから持ち上げたカップの影に、じっとたたずむハエが一匹。
地面にとどまっているのもさることながら、まともに動きを見せないその姿は珍しい。普通ならせわしなくうろついて、その不潔の気配を机の上へばらまいていくはず。そして始末しようとする手を、すんでのところでかわし、いずこかへと飛んでいくんだ。
姉貴はそこまで虫が苦手じゃない。もちろん自分やカップ、ソーサーや文庫本にひっつこうものなら、その命をいただくまで執拗に追いかける腹積もりだった。でも、自分の気を害しないのであれば、隅っこに住まわせてやってもいいかって、心境だったらしい。
実際、このハエは姉貴がコーヒーを飲み終える数十分あまりの間、微動だにしなかったんだ。顔を姉貴の方に向け、カップがソーサーに置かれてもお構いなし。
しかも熱なり匂いなりで判断しているのか、わずかでもコーヒーが残っている限りは、自分から立ち去る気配を見せなかったとか。さすがに、姉貴が殺意を見せた時には、敏感に退散していったが、落ち着いたとたんに、コーヒーさえあれば戻ってくるという徹底さ。
――もしかしてコーヒーに恋でもしてるのかしら? 香りだけ味わえれば満足、みたいな?
液体そのもに飛び込んでくる様子がない辺り、つまりはそういうとこだろう。
姉貴はそんな妄想を広げる。まあ、実際にやってこようものなら、即処刑を敢行していただろうことを考えれば、いい判断ともいえるか。
姉貴とコーヒーに、ハエが控えるブレイクタイムは、実にふた月近く続いたとか。
でも、その時間もまた、唐突にブレイクされる。
その日は本も読まず、純粋にコーヒーを楽しもうと思っていたらしい。ようやく、ブラックの美味さというものが、舌になじみ始めたらしかった。
すでにドリップの最中から、例のハエがどこからか現れて、カップの影に控えている。姉貴がコーヒーと一緒に場所を移れば、それにも律義についてきた。
ソーサーも棚から出して来て、ひとしきり香りを味わう姉貴。その真ん前には、いつものようにハエが身体を起こしつつ、姉貴の持つカップを見つめ続けていた。
姉貴はひとくちひとくち、ゆっくり中身を飲んでいくも、今日はいつにも増して、カップが温まっているように感じたそうだ。飲み残している部分はおろか、飲み終わっている部分にも熱がとどまり、そのうえ、時間と共に強まっている気さえしたんだ。
なにかがおかしい。
そう察した姉貴は、残り3分の1のコーヒーをぐいっと飲み干し、ソーサーへ戻したんだ。
ところが、たいして力を入れていないのに、カップがいきなり割れた。砕けたというより、見えないギロチンの刃が真上から降ってきて、両断されたかのようだったらしい。
そしてカップの割れた端から、新たに響く「ブーン」という音。それはカップのすぐそばから発せられたものだった。
二匹目のハエ。先ほどまでいなかったそれが、羽音をたぎらせながら、テーブルの上を飛んでいく。
それに、先ほどまでじっとしていた、例のハエも続いた。二匹は飛びながら、何度も互いの身体をこすりつけていく。まるで再会を喜ぶかのように。
あのハエがどこから現れたのか。いや、その答えは察している。
姉貴が割れたカップに目を落とすと、割れ目の真ん中あたりに、不自然なくぼみができていたんだ。ちょうどいま、飛んでいる小バエ一匹が、すっぽり入るくらいのすき間がさ。
後になって、姉貴はこう語っていたよ。
「あいつはきっと待っていたんだね。カップの中から、仲間が解き放たれるのを。それがようやくかなったんだ。
コーヒーの熱がカップを弱らせたか。それともあいつの願いが天に届いたのか。それは分からないけどね」