第二話
天変地異が始まって5分ほど経過した頃。
周辺一帯どころか世界各地を荒らし回っていたであろう巨大ハリケーンは、いつの間にか土煙すら上げられないペットサイズにまで縮小して。最後には用は済んだと言わんばかりにそよ風になって視認できなくなった。次いで、展開されていたバリヤーも数回の点滅の後に光を発しなくなった。どうやら解除されたらしい。
「終わったみたいだ。どれどれ」
玄関のドアを開けると眼前には。
——なにもなかった。文字通り、なんにも。
いや、あるにはある。広大で、まっさらな荒野という名の何もない世界がポンと現れたように存在している。草木一本すら生えていない。土は乾燥しているのか、ヒビ割れて使い物にならないことが素人目にもわかる。
もう一度、言おう。なにも、ない。
家と荒野を、先ほどまでの自然の怒りが嘘だったように、無限の青空が包み込んでいる。
深呼吸してみる。すーはーすーはー。穢れた世界が消滅したおかげで、空気が澄んでいて美味しい。
これだよ、これ。こういう癒しを求めていたんだよ。今の俺は。
「な……な、ななっ、なんて、こと……」
振り返る。やっとこわごわと玄関のドアから首だけ出して辺りの様子を伺う妹、沙織。手にはまだおたまが握られている。
「どうだ? 清々したろ? これぞ新世界よ」
瞬間、ハッと何かに気づいたように恐怖から一転。おたまを放り投げて襟首を締め上げてきた。
「お兄ちゃんなの?! お兄ちゃんだよねぇッ?! こんな馬鹿げたことしでかしたのッッ?!!」
「ちょっ、くるし! んなワケあるか! 凡人道を極めんとするこの俺に超自然現象なんて起こせるか! 神か何かかよ?!」
「神ッ!!」
言ってから気づいた。失言だったと。
プルプルと小刻みに震え始める妹の細腕。大変ご立腹であらせられるようだ。兄を射貫くような視線が、マジで怖い。
「例のノートだよね?! また使ったんだよね?! どうして?! ねぇ、どうして使っちゃったのッ?!! ねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇッッ?!!!」
沙織の腕にさらに力が入る。万力で締め上げられる首が圧迫され、加えて揺さぶられるから呼吸するのがちと難しくなる。おかしいな。運動部に所属したことなんてないはずの、しかも非力な年下の女の子の一体どこからこんな力が……。でも、そんな成長も兄貴は嬉しいよ。
「あっ、ごめんなさい」
急に冷静さを取り戻した妹がようやく身体を解放してくれたけど、ゴホゲホとむせる羽目に。とりあえず生き延びることに成功した模様。感謝感謝っと。
「おまっ、激怒すると、ホント我を忘れるよな……」
兄以外にこれほど怒りをぶつけている様を見たことはない。
雑な扱われ方をしているだけ? 言動に狂気が宿ってたぞ。
「そ・れ・よ・り! 答えてよ!」
「使ったか使ってないかと言えば……使った」
労うように首筋をさする。アザとか出来てないよね?
イケメンボディに傷痕とか……。いや、よくよく考えれば益々カッコ良くなるかも、などと話題と関係ない方向に思考が向く。
「ど、どうしてっ!? もう二度と使わない、封印するって約束したじゃないッ!!?」
「人はそれを建前と言う」
バチンッッ!!
小気味のいい音。高校二年生女子の平手打ちが飛んだ。
驚きに続き、頬を焼くような痛みに場にうずくまるカッコ悪い俺。
「バッカじゃないの?」
憤慨と軽蔑がないまぜのオーラを全身から放ち、見下ろして来る妹。同年代の男子であれば、再起不能レベルまで心がポッキリ折れるであろう低い低い声音に乗せた、短い一言。
効いた、以外の感想が思い浮かばない。
だが、妹よ。ひとつ失念しているぞ。俺は既に成人した立派な大人の一員。もう心弱き時代はとうの昔に乗り越えたんだ。たとえ最愛の妹に嫌われようとも決して心は簡単に無理ですイヤですよりによって沙織に嫌われるとか無理無理死んじゃう心死んじゃう魂死んじゃうイヤイヤ許してくださいホントお願いしますううぅ!!
観念と同時に額を地面に擦りつけるどころかゴシゴシしながら平謝りすること数分。
終始無言だった沙織から深い、ふかぁーい溜息が零れる。生唾を飲み込み、恐る恐る見上げると。妹様は心底呆れたように腕を組んで、ただじっとこちらに視線を向けてきていた。
しかし幸いなことに、先の負の感情がだいぶ薄れた気配を場の空気から読み取れるのだが、実際のところは果たして?
「……お兄ちゃんがやったことは最低最悪、人間の風上にもおけない下劣極まりない所業。その事実は変わらない。ただ——」
一旦言葉を区切り、空を見上げる。皺を寄せていた眉間を少しだけ緩ませて、悲しそうな声音を絞り出した。
「ただ……さっきみたいな行き過ぎたやり方でストレスを発散させたのにはお兄ちゃんなりの理由がある、ってことは察しがつくよ。伊達に十何年も妹やってないもん。相当精神的に……追い詰められて、苦しかったんでしょう? 辛かったら辛かったでもっとアタシを頼って欲しかったな」
「沙織……」
最愛の妹がゆっくりと両手を広げる。俺は恥も外聞もなく、歓迎された懐に飛び込んで膝をついた。沙織の柔らかな腕に頭部を抱擁され、時折撫でられる時間がしばしの間流れる。
互いに一言も発さない静寂のひとときは、形容し難い極上の心地よさ。家族の温もりが、荒んでいた心を優しく包み込んで癒されていく気がした。