口づけの理由
「おかえりなさいませ。お嬢様」
家に駆け込んだ私をグレイが迎えてくれたが、私がぼうっとしている事に気づいたらしい。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「……ルーウェン様に頬にキスされたの」
「な! なんと破廉恥な! 早く痕跡を消さなければ!」
グレイが濡れた布で私の頬をごしごしと擦っている時、微かな違和感を覚えた。
『キスしたわね!? お父様にもされた事ないのに!』
咄嗟に出たあの言葉。
『お父様にもされた事ないのに』
自分の言葉で思い出してしまったのだ。お父様にキスされたことが無いことに。
もちろん父と母がお互いの頬にキスしているのは何度も見たことがある。
街に出れば、幼い子供が、父親らしき男性と、頬にキスし合う光景はよく見ることだ。
だけど私は違った。おやすみのキスも、おはようのキスも、お帰りなさいのキスもなにもなかった。
どうして? どうしてお父様は私に1度もキスしてくれなかったの?
ほんの些細な違和感が胸に残った。
それから数日後。
「ルーウェン様、本日はお呼び立てして申し訳ありません。先日の無礼を謝りたいと思いまして……本当に申し訳ありませんでした!」
今度は私が土下座する番だった。床に頭を擦り付けていると、頭上から慌てたような声がする。
「そんな、頭を上げてください。私が不躾な真似をしたのは事実なのですから」
肩に手を回すと、もう片方の手で私の手を取り身体を起こさせる。
「いえ、違うんです。あの時混乱してあんな事をしてしまったのは――」
今まで父から一度もキスされたことが無いこと。そのせいで男性からキスされて、思わずあんな行動に出てしまったことを話した。
「ふむ。それは確かに不思議な話ですね。一度も無いとなると、何か事情があったんでしょうか?」
「私、父に嫌われているんでしょうか……」
父に会ったこともないルーウェン様にそんな事を言っても仕方がない。
でも、それでも、誰かに吐き出したかったのだ。
「ヒルダ様、今からドラゴンを見に行きませんか?」
「え?」
唐突な誘いに声が裏返る。
「国民にもっとドラゴンを理解してもらうためにと、月に何度か厩舎を公開しているのです。ちょうど今日がその日なのですよ。気が紛れるかもしれませんし、よろしければご一緒にいかがですか?」
ああ、この人なりに私を慰めて気分転換させてくれるつもりなんだなあ……
そういえばお父様と二人でどこかに出かけたこともない……あ、まずい。また心が沈みそうだ。
私は口角を持ち上げると
「楽しそうな催し物ですね。ぜひご一緒させてください」
街中で馬車を拾うと、ドラゴンの厩舎へ向かう。
王城の塀のすぐ隣。そこに竜騎士の本部、およびドラゴンの厩舎がある。
「私のクーウェルを是非ともあなたにお見せしたい。なにしろとても美しいドラゴンなのですから」
馬車を降りて厩舎に向かう途中、ルーウェン様がうっとりした顔で語り出す。
そういえばこの間のキス事件で忘れかけてたけど、この人無類のドラゴン狂だったっけ。
「そ、それはたのしみです」
無難に相槌を打ちながら歩みを進める。
厩舎には他にも一般人らしき人が何名も、ドラゴンを見学していた。
「こちらです」
奥に案内されると、そこにはひときわ白く輝くドラゴンが。
「きれい……」
思わずため息が漏れるほど美しいドラゴン。そういえば竜騎士レースでもキラキラしてたっけ。
「ほら、クーウェル。ヒルダ様にご挨拶を」
ルーウェン様が促すと、クーウェルは私にむかってお辞儀をしてきた。
「まあ、賢いんですね」
「触れても大丈夫ですよ」
ルーウェン様が首のあたりを撫でると「きゅー」と喉を鳴らす。
「どうぞ」
促されるまま恐る恐る首のあたりを撫でると、クーウェルは同じように喉を鳴らしてくれた。
か、かわいい……! 喉のあたりだけ少しふわふわしているのもたまらない……!
もう少しこの幸せを……! と思ったところでクーウェルは奥に引っ込んでしまった。
よく見れば、奥にもう一体白いドラゴンがいた。といってもクーウェルよりは少し小さい。
「ルーウェン様、あれは?」
「ああ、クーウェルの番ですよ。もうすぐ卵が孵るんです。だからクーウェルも気になるのでしょう」
ああ、あの日記の中でルーウェン様が嫉妬していたという……今も嫉妬してるのかな……?
ちらりと横顔を盗み見ると、そこには嫉妬の色は無く、メスドラゴンに寄り添うクーウェルを優しい目で見つめている。
「あの二体の子供です。きっと両親の資質を引き継いだ優秀で美しいドラゴンが産まれてくるに違いありません。ああ、楽しみです!」
嫉妬からそっちに移ったか。
その時、背後からきゃあきゃあと言う女性達の声が聞こえてきた。と、同時に
「ははは、よさないか。順番だ、順番」
という男性の声。
思わず振り返ると、大勢の女性に囲まれた黒い物体。いや、黒い男性。
つややかな長い黒髪をポニーテールにしていて、黒いコートを纏ったその顔は、黒に囲まれているせいかやけに白く見える。整っていながらも瞳だけは、女性に囲まれながらも鋭く冷たい。
ルーウェン様が天の使いなら、こちらは魔王の使いみたいだ。
その集団はこちらに近づいてくると、急に歩みを止めた。
女性たちの中心にいる男性が口を開く。
「おう、ルーウェン。こいつらがみんな俺のブリリアントブラックを見たいって言うからさあ。大人数になっちまって参ったぜ。……ところでお前の連れは?」
男性はわざとらしく辺りを見回すと、私に目を留める。
「なんだ一人か。そういやお前、婚約したって言ってたっけ? その地味な女が相手なのか?」
むかっ。よりによって地味とは。失礼な事を平気で言う人だな。
隣にいたルーウェン様が口を開く。
「そうか、ダグラス。お前にはまだ紹介していなかったな。俺の婚約者のヒルデガルド・ペンドラゴン嬢だ」
「ペン……ドラゴン……?」
黒い男性はその言葉を聞いた瞬間、まるで雷に打たれたように直立し、目を見開いたまましばらく動かなかった。
「ねえ、どうなさったの? ダグラス様」
周囲の女性たちが声を掛けるも反応が無い。
やがてはっと瞬きすると、ずざざざざーっと私の前に勢いよく土下座してきた。
「ペンドラゴン様! どうかルーウェンとの婚約を解消して俺と結婚してください!」
「はい?」