ベッドの下にあったもの
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
慎ましやかな自室の慎ましやかなベッドに腰掛けながら、私、ヒルダことヒルデガルトはもう何度も繰り返してきた深いため息を漏らす。
どうしてと問うても理由はわかっている。二年前のあの出来事。
悲しいことに母がお産で亡くなってしまったのだ。お腹の中の男の子と共に。
愛する妻と待望の長男を一気に失った父は、それはそれは意気消沈して、本来するべき執務が全く手につかなくなってしまった。
娘である私がどんなに慰めようと、あるいは鼓舞しようとも、父は自室に籠ってばかり。
結果、領地は荒れ放題、領民からの不満も爆発寸前。
そんな父を見かねた、賢くあらせられる国王陛下が、執務を一時的に父の弟である叔父一家に任せ、しばらく王都で休んではどうかと提案してくださったのだ。
つまりは左遷という休暇を。まったく余計な事を……あら失礼。まったく賢王のなさる事は素晴らしいですわね。
幸いにも伯爵という爵位には変更はなかったが、今まで領地経営で得ていた金銭が絶たれてしまった。何とかしようにも、父は相変わらず抜け殻状態。それどころか最近は寝室に一日中こもりっぱなし、食事の時ですら、食堂に姿も見せなくなってしまった。
領地経営なんて教育を受けているはずもなかった私が何かできるわけもなく。そういう事に詳しい使用人に頼ろうとした時には既に遅し。ほぼ全員が叔父一家に引き抜かれてしまったのだ。
それだけじゃない。収入が絶たれるという事は、家を維持する資金も無いということ。おかげで家は荒れ放題。庭の自慢の噴水も、雑草の中に埋もれてしまった。
結果、今まで住んでいた家を手放して、残っていたわずかな使用人にも暇を出し、売れるものは全部売り払って、王都にあるこのボロ屋……おっと失礼。慎ましやかな家具付きのこのお屋敷に今月引っ越してきたのだ。
そこまで我が家の経済状況は切迫しているといえよう。
叔父はこの状況の父の事を気にかけていないんだろうか? 血を分けた実の兄弟だというのに薄情な。これでは我が家の領地を乗っ取られたも同然ではないか。
おまけにあそこの次男が事あるごとに「結婚してくれ」とか迫ってきて鬱陶しい。自分がスペアで将来行き先が無いからって、我が家を完全に乗っ取ろうとしてるのがバレバレだ。はあ、なんだか腹が立ってきた。
「このっ!」
私は慎ましやかに立ち上がり、慎ましやかなベッドに慎ましやかな蹴りを一撃くれてやる。
と、慎ましやかなベッドが、慎ましやかすぎるゆえか、それとも私の蹴りが慎ましやかの範疇を超えたのか、いとも簡単にずりずりと斜めにずれてしまった。か弱い17歳の乙女の蹴りを受け止められないとは、いくらなんでも慎ましやかすぎるだろう。
直してもらおうと使用人を呼ぼうとしたが、その唯一の使用人が外出中である事を思い出した。
つまり、今この家にいるのは私と父の二人だけ。以前は大勢の使用人に囲まれて過ごしていたというのに、落ちぶれたものだ。
ああ、2年前までの生活がなつかしい。あの頃はお母様も元気で、これから生まれてくるであろう子どもにどんな名前をつけようか、だなんてみんなで話もしていたのに。
それに華やかなパーティーや、きらびやかな空間で美味しいものをたくさん食べた記憶。仮面舞踏会でお互い素性を隠したまま男性とダンスをしたこともあったっけ。楽しかったなあ。ああ、お肉が食べたい。
なんて、感傷に浸っていても仕方がない。とりあえずベッドの位置を直そうとしたその時、ベッドの下に何かがちらりと見えた。
なんだろう?
かがみ込んで手に取ると、それは一冊のノートだった。
なにこれ。こんなところに隠すように置かれてるなんて……まさかいかがわしい本じゃないよね?
ぺらりとページを捲ると、日付と共に文章が綴られている。
誰かの日記帳かな? 前の住人とかの。
どうしよう。
他人の秘密に触れるようで気が引けるが、読んでみたいという好奇心が抑えられないのも事実。
それに、今ここは私の部屋なのだ。つまりこの部屋のものは私のもの。日記帳なんてプライベート満載であろうものをこんなところに忘れて行った前の住人が悪い。
持ち主に返すにも名前がわからないとどうしようもないしね。
というわけで実に合法的な理由でノートの中身を読むことにした。
沈んだ気持ちを紛らわすためにも。
【『赤の月 12日』
今日はなんと幸運な日なのだろう。偶然にも修練場でドラゴンを見かけたのだ。
あの陽光に輝く美しい鱗、首からボディにかけての優美な曲線。翼を広げた時の壮大さ。
この世にこんな素晴らしい生き物が存在するという事が信じられない。まさに神の生み出した至宝と言えよう。ドラゴン様尊い。
それなのに同期の奴らときたらドラゴンの素晴らしさを一向に理解しようとしない。ただ『竜騎士』という地位に就くために鍛錬しているだけだという。なんと浅はかなのだろう。ドラゴンを理解しないものが竜騎士という崇高な存在になれるはずがなかろう。
この俺こそが竜騎士には相応しい。
はっ! なんと大それた事を書いてしまったんだ俺は……! 偉大なドラゴン様を操る地位に相応しいだなんて、そんな逆鱗に触れそうな事を……! これ以上余計な事を書く前に、今日の日記はここまでとしよう】
ここ王都ではドラゴンが飼育されていて、そのドラゴンを操る竜騎士が存在するというのは有名な話だ。私も引っ越してきてから一度だけ空高く舞うドラゴンを見たことがある。
なんでも、選ばれし優秀な者だけが騎士の最高位である竜騎士になれるとか。この日記を書いた人物はよほど竜騎士に憧れていたと見える。その願いは叶ったんだろうか?
私は次のページをめくる。
【『青の月 6日』
やった! やったぞ!
年に一度のローズ杯で、ドラゴンを間近に見られる素晴らしいポジション取りに成功した!
休暇を申請して、一週間前から競技場へ並んだ甲斐があったというものだ】
ちなみに王都の競技場では、鍛錬を兼ねた竜騎士達による公営のレースが開催されており、どのドラゴンが1着になるかなどという賭け事まで行われているそうな。そこで国が得た収益は、王都の政治資金として運用するとか。「ローズ杯」とは、この国で一番盛り上がる竜騎士レースの名称であるらしい。
しかし、この日記の元持ち主は一週間前から競技場に並ぶとか、はっきり言って常軌を逸している。熱狂的なドラゴンファンなのだろうか……それともギャンブル狂?
私は続きを読む。
【賭け事? そんな低俗なものには興味はない。俺はドラゴンが好きなのだ。何頭ものドラゴンが一斉に走り、飛ぶ姿は圧巻だった。いつか俺も竜騎士になった暁にはローズ杯に出場してみたいものだ】
熱狂的ドラゴンファンだった。
【『黄の月 3日』
やっと念願の竜騎士になれた!】
時間飛びすぎ!
筆不精なのかな。この人は。
【なんと素晴らしい乗り心地。鱗は滑らかで煌びやか。首を撫でると喉を鳴らすのが愛らしい。なんというか控えめに言っても最高……うん、もう最高だな!
さて、賜ったドラゴンの正式名称は何にしようか。非常に悩ましい。とりあえず候補を書き出してみよう。
・サンダーボルト
・フルタイムキラー
・ベルベットレイン
・ルナティックアイズ】
……これはまた酷……いや、個性溢れるネーミングセンスだ。特に最後。
【うむ。いいじゃないか。ルナティックアイズ。早速明日その名前で申請しよう。】
よりによってそれを選ぶか。
竜騎士という地位にまで上り詰めたのは凄いけど……なんというかどこか残念な人だな。
【『黄の月 4日』
ルナティックアイズが却下されてしまった。なぜだ。こんなにかっこいい名前は他にないというのに……! おまけに第二志望のサンダーボルトまで……】
それは私が上司でもさすがに却下するかなあ……。だってルナティックアイズだよ。ルナティックアイズ。
【結局尊敬する先輩が『クーウェル』という名をつけてくれた。クーウェル……クーウェル……クーウェル。まあ悪くないか。そのうち慣れるだろう……。
はっ! 俺としたことが、先輩がせっかくつけてくださったありがたい名前なのだ。何と恩知らずな事を書いてしまったのか! これでは先輩にもドラゴンにも失礼ではないか! このページだけ破り捨てたい。いや、しかし記念すべきドラゴンの名前が決まった日。そんなめでたい日のページを破り捨てるだなんてとてもできない……】
これを見る限り、ページを破り捨てるのは断念したようだ。
ちなみにそのページの最後にはごく小さい文字で「ルナティックアイズ」と記されていた。未練たらたらである。
【『黄の月 20日』
明日のレースに初出場させてもらえることになった。ルナティックアイ……じゃない、クーウェルと共に優勝を目指すぞ】
やる気満々だけど、初出場でそんなに簡単に優勝できるものなのかなあ。
しかしどれだけルナティックアイズが好きなんだ。
【『黄の月 21日』
なんと初レースで優勝してしまった。これはビギナーズラックというものなのか。それとも先輩方が華を持たせれくれたのか? クーウェルも喜んでいるようだ。明日は彼の好きな羊肉を与えよう】
え、すごい。この人才能あるんじゃないの?
そういえば私は王都の競技場に行ったことがない。だからどんな竜騎士がいるのかも知らない。何しろそこそこの田舎から今月引っ越してきたばかりなのだから。この日記の持ち主は一体どんな人なんだろう?
【『紫の月 12日』
なんて事だ。クーウェルが見合いをすることになった。
なんでも、レースで勝ち続けていたせいか、優秀な血統ではないかと判断された結果だとか。これまた優秀なメスドラゴンと交配させるらしい。
俺だけのクーウェルが他の女のものになるなんて……そんなの耐えられない……!
ああ、どうして俺は人間に生まれてしまったのだろう。もしもメスドラゴンとしてこの世に生を受けていたら、俺が真っ先にクーウェルと番になってみせるというのに。
はっ、俺はなんて事を! クーウェルの優秀さが世間に周知され、その結果彼が幸せになるのならば、それに越したことはないではないか。それなのに俺はくだらない嫉妬心に駆られて妙な考えを起こしてしまった。ああ、このページを破り捨てたい】
やはり破り捨てられなかったようだ。
私だったら日記ごと焼き捨てレベルだ。
けれど、そんなにレースに勝ち続けられるのって、この日記の人も優秀だからじゃないのかなあ?
ここまで読んだ限り、この日記の持ち主は若い男性。経験は浅いが、レースで何度も優勝できるほどの実力の持ち主。おまけに「世の少年が就きたい職業ランキング」があれば第一位確実であろう竜騎士様なのだ。
私は日記帳を閉じると表紙をじっと見つめる。
これは、もしや使えるのでは?
そんな事を考えていると、自室のドアがノックされた。