6 その邂逅は些事でなく
ドカン、と鈍い音とともに六本足の獣が壁にめり込んでいく。雫希を背負ったままでは両手が塞がってしまうため自然とフィストの戦い方は足技のみのスタイルに移行したのだが、この分ならどうやらしばらくは問題なさそうだ。フィストの背中で雫希は気味悪そうに顔を歪める。
「なに今の? 獣っぽいけど虫みたいな感じ……あたし、虫ってほんとに無理なのよね」
「虫が苦手……そうだったのか。だが見かけによらず、調理すれば食える味のものもあるようだぞ。蛇やバッタなんかはうまいらしいな。食用に育てられた虫も存在するし、地域や部族によっては食虫の文化もあるくらいだ。今のあれだけでなく、今までに見た魔獣たちもやりようによっては食糧にできそうだ。いざとなれば腹を括ることになるだろうな」
「じ、冗談でもやめてよ……苦手だって話をしてるのに、食べるなんて信じらんない! 想像しただけで寒気がするわ。あんたってそういうの平気な人?」
「いや、俺が食えるのは夢と植物だけだから、虫を食べることはできない」
「そういうコト言ってるんじゃないんだけど……っていうか、そもそも……虫はまあともかくとして、カルセットを食べるって発想がヤバくない?」
「そうだろうか? ……いや、そうだな。俺も魔獣を食べるという文化にそれほど馴染みがあるわけではないし、初めて聞いたときは少しおどろいた。ああ……そうだ、腹は減っていないか?」
「今の流れでそれ聞く? ……まだ平気よ」
「そうか、なにか欲しくなったら言ってくれ。次はあっちのほうを調べてみよう。この廊下は先ほどから曲がり角もなく一本道だな……行き止まりだったなら、場合によっては少し厄介かもしれないな。その状況で敵生体が現れたら、壁際に追い込まれることになってしまう。どこかにつながっているといいのだが」
「どうかしらね」
ため息まじりに返す雫希にフィストは漫然と語りかける。
「いつもは日の高さでだいたいの時間がわかるから時計がなくとも問題なかったが、このような状況になってしまうと不便さが浮き彫りになってしまうな。やはり念のため持っておくべきだろうか、一考の余地がある事項だ。雫希も普段は時計を持たないのか?」
「だいたい一緒にいる男が着けてるし、町に出れば時計くらいあちこちにあるもの」
「体内時計に頼ろうにも、それもこの状況では刻一刻とずれていってしまう。俺の予想では今は夕方ごろだと思うのだが、あまり自信はないな」
「どこかに時計があればいいけどね」
「そうだな。時間の概念を目に見える形で確認できれば、外界から隔絶された得体のしれない場所での探索に対する不安を、少しばかりやわらげる手助けになるだろう。隔離されたこの場において、それが外との唯一のつながりたり得るならば、精神衛生的にも今のこの状況に時計はあったほうがいい」
「難しい話ね」
「そうでもないさ。時間は指標だ。座標も昼夜も外の様子も時間もわからない不明瞭かつ不透明な現状で、正確な時間がわかればそれだけでも幾ばくか安心できる。逆に言えば時間がわからぬ、わからぬからといって確認もできぬという状況に身を置き続けることは思いのほか精神がすり減っていくものだ。カバンと同様に探してみよう」
「ねえフィスト」
「どうした?」
「別に、無理に話し続けなくてもいいのよ」
わずかな間。その一瞬の沈黙は明らかな動揺を含んでいた。
「なにを――いや、俺は無理など……うるさかったか?」
「そうじゃないけど、あたしを背負い始めてからずっと喋り続けてるじゃない。疲れないの?」
「それは……」
「安心させようとしてくれてるの?」
背中にいる雫希の表情がフィストからは見えない。だが、それは雫希にしても同じことだ。フィストが今どんな顔をしているのか。雫希にも、他でもないフィスト自身にもわからなかった。
「……いや、もちろん、会話で気分が紛れればと。お前が少しでも安心できればという思いもある。……だが。そう、だな。安心したかったのは……むしろ俺のほうなのかもしれない」
「どういうこと?」
「少しばかり……不安で、あせっていたのはたしかだ。ただ、どうしてそう感じているのかは、俺にもよくわからない。この感情をなんと呼ぶべきなのかも……」
たぶん、率直に、怖かった。
なにが、と問われると答えられない。なにかが、だ。得体の知れぬ既視感に不安を煽られ、なにかを恐れる焦燥をごまかすために会話を続けたがった。雫希を安心させたいというのは、その気持ちも嘘ではないのだが結局は建前でしかない。
「……なんなんだろうな、こんな気持ちになったのは初めてだ。……俺の話をきちんと聞いていなくてもいいんだ。ひとつだけ、どれだけ単調になってもいいから、できれば相槌を打ってほしい。理屈はわからないが、俺の今の欲求を素直に言葉にすると、そういうことになる……のだと思う」
「ふうん……」
それから先もフィストの口から言の葉が途切れることはなく、彼はその長い廊下を通り抜けるまでの間、延々と取り留めのない話を語り続けた。それに対して雫希は、うん、だの、へえ、だのといった簡単な相槌を打ち続けた。彼女はフィストが話している内容の半分も聞いていないだろう。やがて最初からしおらしくなっていた雫希から、さらに元気がなくなっていくのを耳で感じ取ったフィストは、半分だけうしろを向いて声量を少し控えた。彼女はなんだかぽやぽやした目を指先でこすっている。
「雫希、疲れたのか?」
「うん……? ん……ちょっと、眠くなってきた、かも」
「そうか、昨夜は満足に休めていなかったからな。あれは質のいい睡眠ではなかった」
「んー……そうかも。それになんか、フィストの声って、聞いてると眠くなってくるのよ」
「俺の声が?」
「わかんない……話し方かしら。つまんないって意味じゃないけど……、ふあ……」
小さくあくびをする雫希にフィストは静かにささやく。
「少し眠るといい。なにかあったら起こす」
「うん……」
頷き、フィストの背中に頭を預ける雫希。体を揺らさないように歩き方を変え、口を閉ざして静かに歩いているうちに、かすかな寝息が耳元で聞こえた。やがて廊下はときどきこれまでどおり曲がり角や分かれ道を見せるようになったが、そこはほとんど一本道のように感じられた。扉はなく、光の強い照明に照らされた白い通路が延々と続くのをただ黙々と進み続け、そうして辿り着いた先にあったのはひとつの大きな空間だった。
その広い真っ白なフロアに敵影はなく、また、なにかが暴れたような痕跡もない。天井も高く、水無月邸の玄関ホールよりも、いや、ギルドの別棟――ロア・ヴェスヘリーの住居スペースにあたる棟――にある模擬戦用のトレーニングルームと同じくらいの広さだろうか。これまでの探索のうちにも同じように広いフロアを見かけたが、大抵の場合は乾いた血を拭き取ったような痕跡だったり、なにか鋭い爪で壁や床を抉ったような破壊の痕跡が見て取れたのだが、ここはどうもそれらより安全だったと見ていいらしい。
奇妙な魔獣の跋扈するこの施設内での広い空間というだけで、加えて荒れた部分が一切ない空間となると、なぜだかあまり平和な予感がせず身構えてしまう。不用心にずかずかと進んだら急になにかが襲ってきたり、なにか罠が仕掛けられていたりはしないだろうか。そんなふうな考えがよぎり警戒心が高まるも、周囲から怪しげな物音などはせず、生き物の気配も感じられず、フロア内に足を踏み入れてみても罠の類はないようだった。
その後もあらゆる可能性を考えて安全確保に努めたが、天井が落ちてくるような仕掛けもなければ、なにかが床や天井や壁を突き破って襲撃してくるような様子もない。正真正銘、今この瞬間においてこの場は安全のようだ。なぜここだけがこうまで静寂を保っていられたのかはわからないが、まずはフィストの警戒が杞憂に終わったことをよろこぶべきだろう。
通路から少し離れたところでなら座り込んだまま休んでも問題ないだろう。この部屋は広さがあるので、魔獣がやってきたとしても急には近付けない。物理的な距離によって奇襲を未然に防ぐことができる。この広い空間にはなにも置かれていなかったが、本当になにもないのかと言われるとそれは間違いだ。というのも、実は奥にひとつだけどこかに繋がっているらしい扉があるのだ。重そうな鉄の扉で、フィストはそれに見覚えがあった。雫希が起きていたなら同じことを思ったはずだ。
それはフィストや雫希がこの隔離空間で最初に目覚めた場所、牢屋の部屋の扉と同じもののようだった。牢部屋はこの施設内にたくさんある。すべて同じデザインと材質の扉の向こうに、同じような物の配置で、同じような牢屋をいくつも見かけてきた。そこで生存者に出会えたためしはない。誰もいないか、雫希に見せられない状況かのどちらかだ。原因は飢えだろう。中には白骨化しているものもあった。
雫希は非常に安らかな様子で寝入っている。そっと探りを入れてみたところ、横になっての睡眠ではないが昨夜より質のいい眠りを得ているようだ。まだ起こすべきではない。自然に目を覚ますまで待つか、睡眠の質が変化した頃合いに起こすのがいいだろう。夢喰いの延長で吉凶を占ったり、眠りの中で同じ夢を共有したりするならともかく、その睡眠の質を知るくらいは夢喰いの応用で簡単にできる。フィストは牢を調べるつもりだが、そのために彼女を起こすつもりはなかった。
扉の正面ではなく横に立ち、片手でそっと開ける。重く軋む鉄の向こうから獣が飛び出してくるのを警戒したが、しばし待っても襲撃者は現れなかった。なおも警戒しながら中を覗く。牢の中もそうだが、もっとも気を付けるべきは頭上と足元だろう。今まで見た部屋と同様に、扉からまっすぐ部屋の突き当りまで伸びた通路を挟んで両側に牢屋がある。警戒を解かずに中に入ると、薄暗い牢の奥から布のこすれる音がした。右だ。左の牢になにもいないことと、右の牢の格子戸がぴったり閉じていることを確認してから、通路の奥まで歩みを進めた。牢の奥で音を立てた正体をしっかり視認できる距離になると一度だけ足を止める。
白い布がまず目に入った。次に痩せ細った傷だらけの手足。伸び放題の長い髪。牢の薄汚れた床に尻をつけ、膝を立てて丸くなるように座り込んでいる。白い布は身にまとった衣服だったが、ボロ布を適当に切って繋いだようなみすぼらしい格好で、とても文化的な生活を送っていた様子は見受けられない。無論、ここに来てからの話ではなく、ここに連れてこられるより前についてのことだ。現代を生きる文明人というよりも俗世からやや離れた位置にいるような、こう言っては悪いがおそらく放浪者寄りの人種だろう。
しかし、なんだろうか。せっかく出会えた初めての生存者なのだが、たしかに生存者と合流するために牢を調べていたのだが、その人に声をかけるのがややためらわれた。彼の格好がみすぼらしいからではない。その点に関して言えばフィストも同じなので、そこはまるで気にならない。生きようとする気力をまるで感じられないからだろうか。それもなんだか違うような気がする。そもそもフィストがこの状況下での他人との合流に気乗りしない考えであったから? 違う。気乗りしなかったのは事実だが、やっとの思いで見つけた生存者を放っておくつもりなどはなかった。
フィストティリアという鬼と見分けがつかない外見の、向こうにしてみればまったくの未知であろう存在がここまで近付いているというのに、まるで警戒しないどころか顔すら上げない態度を奇妙に思うのか? もしもこの者がこの閉鎖空間に心が折れ、既になにもかもをあきらめて死を待っているのだとしたら、その態度も不思議ではないのだろう。
不可解な気の進まなさを感じながら、フィストは鉄格子を隔てた奥にいる彼――手足の骨格を見るにおそらく男――に、ようやく牢の外から声をかけることにした。
「なあ」
声に反応し、伸び放題の前髪の隙間からフィストに目線が向いたのを感じた。牢の中の空間でもいっそう暗い奥の壁際にいることと長い髪のせいで顔は見えないが、向こうにしてみても同じだろう。いや、それでも裸電球の弱々しい明かりが、そこにいるのが鬼であることを彼に教えているはずだ。
「お前はどれくらいここにいるんだ?」
刺激しないように、声をひそめ、間違っても威圧的に聞こえないよう注意して問いかける。実際、彼の声色はいつも穏やかなものだが、その声はいつもに増して優しい声だった。牢の奥の暗がりからかすれた細い声が響く。
「どれ、くらい……?」
「お前も外からここに連れてこられたのだろう。俺たちもなんだ。何日くらいここにいたのか、わかるか?」
「わ……わかりませ、ん……」
青年は自分の膝に視線を移し、両足の指先をこすり合わせた。うつむいた状態を見て想定していたより年若い声だ。丸くなって座っているためわかりづらいが、おそらく体つきは小柄なほうだろう。無気力そうな声で張りはないがフィストよりも年下だと推測できる。青年というよりは少年と呼ぶほうが正しいのかもしれない。
「た、ぶん……そんなに、長くないと……思います」
「この部屋の外には出たか?」
「……いえ」
「牢に鍵はかかっていないようだから、外に出ようと思えばいつでも出られるぞ。正真正銘、本当の外に出るには……まだ道は遠そうだが」
「そう、ですか……」
「お前さえよければ、俺たちと一緒にこないか?」
「え……?」
少年が再び顔を上げてフィストのほうを向く。下を向いて、またフィストを見て、落ち着きなくそわそわと目線や手が動いた。返事をためらっている彼の動揺をフィストは手で制する。
「ここで隠れているならそれでもいい。この建物の中には魔獣がいて危険だから、むしろ牢の中にいるようが安全かもしれないからな。なにか手がかりを見つけたときや、出口に辿り着くための糸口をつかんだらまた会いに来る。脱出できるようになったら一緒にここを出よう」
「あ……はい」
「俺はフィストティリアだ。呼ぶときはフィストとでも呼んでくれ。今は眠っているが、この子は雫希だ。よければ、お前の名前も教えてくれ」
「……朱雀、です」
朱雀はまだ牢から出る決心はつかないようで座り込んだままだ。フィストは朱雀と話しながら彼のいる牢の様子を確認した。彼の足もとには毛布と呼ぶにはあまりに粗末な薄い布が一枚、乱れた形で放置されている。眠る際はそれを使っているのだろう。左の無人の牢にも同じものがある。たしかフィストが目覚めた牢にもあったはずだ。朱雀から少し離れた位置には手つかずの水のボトルが二本、缶詰めもいくつか積まれた状態で置いてある。それも最初からあったのだろうか。フィストがいた牢には水も食糧もなかったはずだが、今まで調べてきた牢の中にはここと同じように水や食糧が置いてあるところもあった。単純に、物資があるかないかは確率の問題だろう。彼は運がよかったということか。いや、真に運がよかったなら最初からこんなところに閉じ込められたりはしないのだが。不幸中の幸いと言うべきなのだろう。ともあれ、しばらくは飢えの心配もなさそうだ。フィストが再び戻ってきたころには餓死していた、というようなことにはならないだろう。
「朱雀、俺は探索を続ける。また様子を見に来るが、もし考えが変わってこの牢から出たくなったら言ってくれ。そのときは一緒に出口を探そう」
「えっと……はい……」
ためらいがちな朱雀の返事をしかと聞き取ってから、フィストは先ほどの広いフロアに戻った。相変わらず魔獣がやってくるような気配はなく、あたりは静かだ。暗い牢の部屋から急に明るい場所に出たからか、雫希が小さくうめいてもぞもぞと動いた。立ち止まって様子をうかがうと、目を覚ましてしまったらしい。
「雫希、すまない。起こしてしまったか」
「ん……ここは……?」
「先ほど歩いていた廊下の先にあたる場所だ。これだけ広ければ急に襲われる心配もないから、少しここで休んでいこうと思っていたところなんだ。座って楽にするといい」
雫希を壁際の床に下ろし、フィスト自身も隣に腰を下ろした。そのまま黙って様子を見ていると、彼女はヒールを脱いでまず右足を手で揉みほぐすようにマッサージを始めた。フィストは普段から履き物を必要としないので、足になにかを履くことで生じる利点や不利点についてを想像する力が欠けているのだが、それでも雫希や水晶がいつも履いているこのハイヒールという履き物は、立ったり歩いたりしなくても履いているだけで足に負担がかかりそうだと思う。いっそフィストが背負っている間も裸足のままでいさせたほうがいいのかもしれない。
雫希を見てそう考えるフィストだが、疲弊した様子の彼女に対して、なんとなく声をかけられずに黙り込んでしまうのだった。
次回は明日、十三時に投稿します。