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巣窟の女神  作者: 氷室冬彦
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5 鬼の回想

「あたしたち以外にもここに連れてこられた人っているのかしら」


檻のある部屋を出たあと、雫希が落ち着かない様子で背後や周囲を何度も確認しながらつぶやく。新手がこないか心配しているのだ。フィストはその様子を横目に頷いた。


「なにも俺たちだけが特別というわけではないだろう。俺は……お前と合流するまでに生存者の姿は見かけなかったが、これから同じ状況に陥っている者と出会うことがあるかもしれない」


「協力できる人と会えればいいんだけど……」


「……そうだな」


なおも不安そうな雫希のために反論はしなかったが、実を言うとフィストは他の生存者と合流することにはあまり気が進まなかった。自分自身の見た目のこともあるが、第一にこの状況で見知らぬ誰かを信用するというのはお互いに難しいことであるからだ。フィストも雫希もなにがなんだか理解できないままにここで目覚め、そして手探りでの探索を強いられている。混乱しているのは皆同じだろう。雫希の手前、表には出さないもののフィストもこの状況には大いに動揺しているのだ。魔獣が徘徊する閉鎖空間、次の瞬間も自分が無事でいられる保証はない。時が経つごとに不安は募り精神は摩耗し、探索を続ければ体力も失われていく。他の誰かと合流を果たし、協力関係を築いたとしても、精神的に追い詰められた人間がどのような行動をとるか。結果として雫希に危害が及ぶ可能性もある。


第二に、先ほどは運よく水と食糧を発見できたが、この先もそう都合よく食糧を確保できるとは限らないという点だ。一般的な系統能力者は、体内のエネルギーを魔力に変換することで能力を発動させるための力を蓄える。魔力は能力を使う使わないに関わらず常に生成されるのだ。これは基礎代謝のうちに含まれる。なので能力者が生きるためには、非能力者より平均三倍ほどのカロリーが必要だと言われている。


魔力生成のエネルギーコストについては能力の種類にも左右されるし、そうでなくても個人差があるので一概にどうとは言えないが、能力者は非能力者よりも多く食べなければみるみる痩せ細ってたちまち餓死してしまう。早い話、能力者は餓死率が非常に高いのだ。


非能力者は水だけでもひと月程度は生きられるそうだが、能力者だとその半分も持たない。人によっては一週間でも怪しいところだ。たとえば南大陸随一の治安のよさを誇るロワリアでも、犯罪大国と揶揄されるセレイアでも、凍結した最果ての大地セルーシャでも、人々の死因で常に上位三つ以内にくい込んでくるほど、能力者は飢餓に弱い。


フィストは夢喰い鬼として生きるにあたり、極寒でも灼熱でも生き延びる環境適応能力に加え、若干の飢餓耐性も持ち合わせている。そのため並の能力者よりは飢えに強く、そもそも食糧が記憶ゆめと植物なので、この建物内に生き物がいる限り餓死の心配はない。だが雫希は別だ。他の能力者と同じように食わねば死ぬ。ゆえにフィストにとっては脱出法の発見と雫希の分の食糧調達がこの場における最優先事項なのだ。ともに行動する仲間が増えれば、当然、獲得した食糧を平等に分配する必要が出てくる。そうなれば雫希の取り分は少なくなるし、もしかすると誰かに横取りされるようなこともあるかもしれない。


それから第三の理由として、毒耐性のあるフィストに雫希の毒性を管理するのはむずかしいということ。雫希自身も自分の毒がどれほどのものなのかを正しく理解しているかいうと怪しいところだ。いつも一緒に暮らしている三月や善丸は、彼らのほうが細心の注意をはらって生活しているのでうまくいっているが、つまり仲間ができてもうっかり毒を盛りかねないのが危険だ。せっかく生存者を発見しても、合流したせいで死なせてしまったのでは元も子もない。


そして最後に、フィストは雫希だけを守り切れたならそれでいいのだ。しかし仲間が増えればそうもいかなくなる。知力であれ体力であれ、人は集団の中で力ある者を頼りにする。フィストの戦闘力を頼る者がいるのはかまわない。だがフィストが実際に守れる数と、守らなければならない数との帳尻が合わなくなれば防衛面は瓦解する。そもそも、この牢獄で雫希を守りながら自分の身も守れるだけの余裕を持っていられるのかどうかすらわからない。出会えた生存者が自分と同じく戦闘経験者だったとしても、それはそれで内輪揉めが起きた際に対処しづらいと考えると厄介だ。このような極限状態においては、魔獣よりも人間のほうが恐ろしい。


ただ人手がほしいのもまた事実。協力者が一人も必要ないのかと言われるとそうではない。仲間が増えれば雫希も安心できるだろうし、人手があるということは、単純に行動の選択肢が増えるということでもある。情報もほしい。生存者を積極的に探すべきか、それとも受け身に徹するべきか。雫希さえ無事ならそれでいいとはいえども、だからといって他の一切を見捨てるのは極端であるし、なにより人としての心が己を責めるだろう。そもそも、これはフィスト自身の心持ちの話であって、実際にどうするかということは考えたところで仕方がない。結局はなるようになるのだ。


当面においての一番の懸念は、脱出までにどれだけの時間を有するのかという一点のみ。フィストはそれこそがもっとも重要な問題であると考える。仲間が増えようが増えまいが、フィストが雫希の傍を離れることはできない。もしもこの空間で二日、三日、十日、それ以上とすごすことになってしまえば、いずれ夢喰い鬼の力が雫希の記憶を侵蝕する。そうなる前になんとしてでも脱出しなければ。


もし手遅れになれば、フィストティリアはまたしても、かけがえのない友を失うことになる。だがたとえそうなってしまったとしても、雫希だけはなんとしてでも無事に帰さなければならない。なにを失うことになっても、彼女が生きていてさえくれるのであれば。


そう。なにを失うことになったとしても。


「……フィスト? ねえ、フィストってば」


「どうした」


「どうしたはこっちのセリフよ。急に黙り込んじゃって」


「ああ……すまない、少し考えごとをしていた。気にしないでくれ」


雫希は深いため息をつく。


「遊びに行くどころじゃなくなっちゃったわね……」


「……そう、だな。すまない、今回の埋め合わせは、いずれ必ず」


「あら、言ったわね。約束よ? 忘れたら許さないんだから」


「もちろんだ」


小さく笑んでそう交わした二人だったが、雫希はまたすぐに暗い表情を浮かべる。


「……みっちゃんたち、今ごろどうしてるかしら」


「三月も善丸も水晶も、お前を心配してあちこち捜しまわっていることだろう。いつか、きっとここを見つけてくれるさ」


「お兄様……」


心細さからしおらしく眉尻を下げる雫希に、フィストはいたたまれなくなる。


「すまない、雫希。俺が列車を降りたいと言わなければこうはならなかっただろうに。こんなことになってしまったのは俺の責任だ」


「べ、別にフィストのせいじゃないわよ。もとはといえば……あたしがワガママ言ったからだし」


「……お前は優しい子だな」


フィストは雫希に目を向けると薄く微笑みながらそう言った。雫希はなんだか不服そうな顔でそっぽを向く。


「そんなこと……あんたのほうが……」


「なんだ?」


「……なんでもないわよ。それより行くあてはあるの?」


「俺がここに来るまでにもいくつか部屋があってな、張り紙や本などを見かけたんだ。俺には読めないからと素通りしてきたのだが、念のため改めて調べておいたほうがいいだろう。それにさっきみたく部屋のどこかに物資が隠れているかもしれない。……それでいいだろうか」


「ええ、任せるわ」


フィストの先導によって通路を進み、告げてあったとおりフィストが一度立ち入ったことのある部屋を片っ端から調べなおすことになった。フィストが先に部屋に入り、室内の安全を確認してからドアの外を見張りつつ二人で探索する。しかし雫希が合流したことによって識字の問題は解消されたものの、これといって役に立つ情報を得られたわけではない。調べ終えた部屋を出て新たな部屋へ。繰り返すうちにフィストはすぐに己の失態に気付いた。


フィストは前に通った際に打ち倒してきた魔獣の死骸を、すべてそのまま放置してあるのだ。死骸はフィストの殴打によって頭が潰れていたり、強力な打撃に耐えかねた頭部そのものが胴からもげて落ちていたりが基本だ。中にはひしゃげた頭蓋骨から飛び出た眼球や脳漿があたりに飛散していたり、胴体への打撃によって臓器を壊され喀血しながら倒れ伏しているものもある。ひと言に、残虐で凄惨な光景がそこにはあった。


探索に支障はなく通行の邪魔になるわけでもなし、ましてそれが原因でこちらの命が危ぶまれるわけでもない。なにが問題なのかというと、ただの気持ちの問題にすぎないのだが、これまで雫希に血を見せまいと気を遣っていたフィストにとっては一大事だ。合流時に雫希を襲った爬虫類の獣も、血が出ないように片付けたというのに。合流前は当然一人であったのだから誰に気兼ねすることなく戦っていた。あとで引き返してくるという可能性をまるで考えていなかった結果が、この惨状なのである。浅慮だったと言わざるを得ない。


おそるおそる、背後を歩く雫希の顔色をうかがってみる。彼女は怯えたように震えているが、それは合流したときから――あるいはその前から――ずっとその調子だ。フィストが雑に蹴散らした敵生体の亡骸に対してなにか思うところがある様子はない。人知れず安堵しながらひとつの扉の前を通り過ぎようとすると、雫希が引き止める。


「フィスト、さっきからときどき素通りしてる扉があるけど、そこは調べなくていいの?」


「ん、ああ。その部屋にはなにもなかったからな。気にしなくていい。次はあっちだ」


「そうなの? ならいいけど……」


彼女が気付いたとおり、フィストはいくつかの扉を開けもせずに進むことがあった。意図的に無視してきた部屋たちは鍵がかかっているわけでもなければ、フィスト一人で調べられる程度の部屋だったわけでもない。たしかに書物の類は見当たらない場合が多く情報量は少なかった。改めて見たところで得られるものはないだろう。だが、なにもなかったという言葉の半分は嘘だ。どうあれ、雫希にその部屋を見せるわけにはいかない理由がある。


フィストは雫希と合流するまで、一度も()()()()()出会わなかったのだ。


行動開始から何時間が経っただろうか。いまいち成果の出ない探索を続けてしばらく、フィストが通った道をあらかた調べなおしたころに辿り着いた部屋で、雫希はため息をついた。探索中にも食事や休憩などを何度か挟んだが、精神的にも肉体的にも疲労が溜まり始めたのだろう。


「歩きっぱなしでいい加減に疲れてきちゃった……足も痛いし」


「そうだな……幸い、この部屋にはなにも隠れていないようだ。今日のところはここで休むとしよう。水や食糧も新たに見つかったことだし、荷物の整理も必要だろう。俺が見張っておくから雫希は眠るといい」


「でも」


「大丈夫だ、俺はどこにもいかない。ずっと傍にいるとも。……そうだ、これを下に敷くといい。なにもないよりはマシだ」


言いながらフィストは自分が着ていた装束を脱いで床に敷いた。雫希はハイヒールを脱いでフィストの上着に乗り、借りていたローブに包まって横になる。


「……ありがとう。フィストは寒くないの?」


「ああ。仮にここがセルーシャの永久凍土の地であったとしても、俺が寒さに凍えることはないさ。気にしなくていい。眠くなるまでなにか話でもしよう」


「あたし、もう子どもじゃないんだけど」


「だが大人でもないだろう。なにかリクエストはあるか?」


「……そうね、じゃあ、あたしが行ったことのない場所の話をして」


「では、北大陸のロラアンで出会った親子の話はどうだろう。あの国は吸血鬼や獣人族などの人間ひとならざる者たちに寛容でな。俺以外の夢喰い鬼が立ち寄ってはいないかと定期的に足を運ぶようにしているんだ。俺が出会った吸血鬼は、物語で見るような恐ろしい存在ではなく、とても紳士的な男だった。彼は人狼の子どもと暮らしていて、二人に血のつながりはなかったのだが――」


黙ってフィストの旅の話を聞いていた雫希だったが、二つ目の話を終えたところで目をこすりながら小さなあくびをした。フィストは話を止めて彼女の様子を見る。


「眠くなってきたか?」


「ちょっとだけ……」


「休めるうちに休んでおきなさい。……おやすみ、いい夢を」



雫希が寝入ってから夜が明けるまでの七時間。フィストは一人で見張りを続けて夜を明かした。現在時刻がわからないので厳密に今が朝なのか夜なのかを正しく認識することはできないが、フィスト自身の体内時計を基準として二度目の朝を迎えた二人は、昨日と同様に施設内の探索を始めることとなる。


雫希は眠っている間に何度も寝返りを打っては目を覚ましていたようだ。休息に割いた七時間という数字だけを見れば健全でも実際の睡眠時間はそれより短く、眠りの質も決していいものではない。他人の夢に触れることのできるフィストが直に確認したのだから確実だ。これではろくに疲労も癒せない。状況が好転しない限り心労は溜まる一方であるし、硬く冷たい床の上ではこの先も満足に休むことなどできない。事態がこれ以上悪化する前に、なんとか現状を打破する必要がある。


とはいえ実際にはなかなかうまくいかなかった。目を覚ました雫希が食事を終えるのを待ち、まだ調べていないエリアをめぐっていく。フィストが一度通ったルートは調べ尽くしたため、ここから先はまだフィストも雫希も把握できていない領域だ。今まで以上に気を引き締めて探索に臨む。


ひと部屋、ふた部屋、相変わらず成果のない探索を続ける。牢屋の部屋は至るところに見られたがどこも無人だ。今まで調べてきた中で気付けたことはひとつ、牢屋以外の部屋の内装にはどこか規則性があるように見受けられ、書斎やリビング、談話室や更衣室など、見た目の印象から用途と名前がつけられそうな部屋がほとんどなのだ。そこから人の気配や生活感などはまるで感じられないし、魔獣が暴れたあとの部屋は棚や椅子などの備品が無残に破壊されて散らかっていたり、荒れ放題な部屋もたくさんある。それでも、基本的には一般的な人間の生活圏内にある設備を模してるような気がした。


人が生活できる場所ではないが、人が生活する際に使うような家具がそろっている。それがかえって不気味だった。玩具の家に玩具の家具を配置して、そこに人形をあてがって遊んでいるかのような空虚さ。それから、これに気付いたのはついさっきのことだが、監視カメラを思しき機材があらゆる場所に設置されている。内装やカメラもそうだが、あえて水や食糧が用意されていることについても目的がまるで見えてこない。魔獣だらけの巣窟に人を放ち、逃げ惑いながら死んでいくさまを見て楽しんでいるのか。だがそれでは食糧を用意する意味はないはずだ。


考えをめぐらせながら、ひとつの部屋に辿り着いた。図書室のようなつくりになっていて、あまり広さはないが本棚がたくさん並んでおり、奥のほうには大きな机と椅子がある。本棚のいくつかが壊れていたり倒れたままになっていることからも、なにかが暴れたあとらしい。扉を開けた瞬間に血のにおいが鼻をついた。フィストは常人より少々五感が鋭いためにそれを知覚したが、雫希はまだ気付いていない。


「雫希、俺の傍を離れないでくれ。まだ敵が隠れているかもしれない」


警告を促してから慎重に部屋に踏み込む。頭上や背後にも気を配りながら隅々まで見てまわった。本棚の陰や机の下。倒れた本棚の狭い隙間。最後に、部屋の一番奥にある本棚のうしろを、小さく息をついてから確認した。フィストの肩越しに覗き込もうとする雫希を手で制してさがらせる。雫希が心配そうにフィストを見上げてささやいた。


「な、なにかいるの?」


「……いや。ここを散らかした犯人は出て行ったあとのようだな。なにもいない。ひとまずこの部屋は安全とみていいだろう。だが、決してこっちを見るな」


本棚と壁の間の狭い通路。その突き当りの壁は不自然に砕かれ、破壊の痕には派手な血痕。その真下には頭部をつぶされた女性がぐったりと息絶えていた。なにかに襲われ、咄嗟に逃げ込んでどこかに隠れようとしたものの、強力な殴打を受けた末に後頭部から壁に激突。そのまま壁を伝ってずるりと座り込むような体勢で崩れ落ち息絶えた――というところまで想像がつく。割れた頭から血と脳があたりに飛び散り、眼球は頭蓋からこぼれ落ち、長い髪が血で壁に張り付いている。血液はまだ完全には乾ききっておらず、たった今の出来事ではないものの、事が起こってからそう時間は経っていない。


「ねえ、なんなの? どうしたのよ、いったい――」


「見るなッ!」


状況の説明を求めて再び覗き込もうと身を乗り出す雫希に、フィストは鋭い声で牽制した。今までなにがあっても穏やかな態度を崩さなかったフィストの初めて聞く険しい声に、おどろいた雫希が肩をびくりと跳ねさせる。しかしフィストはすぐにはっとして、いつもの声色で彼女に向き直った。


「……おどろかせてしまったな。急に大きな声を出してすまない。だが、お前には見てほしくないんだ。わかってくれ」


「わ、わかったわよ……」


彼のただならぬ様子からその先にあるものを察したのか、あるいは動揺していて思わず頷いたのか、雫希は素直に従って一歩うしろにさがった。フィストは死体を調べるために奥へ進む。


「じゃあ……あたしは他の本棚見てるからね。なにかあったら呼ぶわ」


「ああ、そっちは頼んだ」


女性の死体は壁に激突した際に全身を負傷したらしく、腕や脚が人間の可動域を越えた角度で曲がっている。白いシャツに淡い色のスカート。どこかに遊びに行く途中でさらわれたのだろうか。足元には小さなショルダーバッグが転がっていて、おそらく肩にかけていたのが衝撃で吹き飛んだものだ。中身はわずかに水の残ったボトルと食糧の缶詰めがひとつに、財布と小さな化粧ポーチだけが入っている。死体は足まで血にまみれているが、バッグに目立った汚れはない。


ここでフィストに与えられた選択肢は二つ。バッグを元通りに置いていくか、このバッグを持ち去るか。小さいバッグだが、手元にある物資は問題なく入る大きさだ。この先の探索で荷物が増えていく可能性を考えると、ここでこれを持っていったところで、もっと大きなカバンがほしいというところは変わらないだろう。だが最初の物資を入手したときから、フィストたちは水のボトルをすぐに取り出せる利便性を求めていた。これとは別に大きなカバンは必要だが、それはそれとしてこの小さなバッグもあったほうが便利だ。もしこの場にいるのがフィスト一人であったなら、必要な物は迷わず持ち去っていたはず。だが今は雫希という同行者がいる。


フィストは葛藤した。風呂敷一枚しかない現在のように、喉がかわくたびフィストに声をかけるのは雫希にとって手間だ。ならば最初から彼女の水を渡しておくべきで、そのために小さなバッグは必要不可欠。合理的に考えて、持っていくべきだ。だが、それはつまりこれを使うのは雫希だということ。そこにあった死体から――しかも自分と同じ女性の死体から――拝借したバッグを使うなど、はたして雫希はどう思うだろう。今これを彼女に見せれば、ここにあるのが女性の死体であることを暗に示す結果となってしまうが、フィストは彼女に無残な死体を見せたくなかっただけであって、死体があったという事実自体を無理に隠し通すつもりはなかったのでそこは構わない。


彼女がこのことをどう思うかで持ち出すか否かを判断するよりないだろう。ひとまず雫希のもとへ戻った。出入口付近の本棚から順番に調べているところで、彼女はフィストが近付くと探索を中断してこちらを見る。


「雫希、奥でこれを見つけたのだが、どうだろう」


「バッグ? うーん……ちょっと地味ね」


「いや、見た目のことではなく……今はもう持ち主がいないものだ。お前が気にならないのであれば、だが」


「……ふーん」


「気が進まなければもとの場所に置いてくる」


フィストの言葉でおおまかな事情を察した……のかどうかはわからないが、雫希はしばらくバッグを見つめた。そして、とくにためらうことなく受け取って中を見る。


「中身は最初からこの缶詰めだけ?」


「いや、財布と小物入れが入っていた」


「そうなの。まあ、こういうのがあったほうが便利だって話はしてたものね。大きいカバンはなかったの?」


「それはまだだ」


「んー……これならお水二本くらいは入りそうだわ」


「これがあれば俺に言わなくても、自分の好きなときに飲み物を出せるようになるが……使えそうか?」


「ええ。これくらいの大きさなら動いても邪魔にならないし、角のところがちょっと擦れてるくらいで、壊れてる部分もないみたいだし……ま、デザインはちょっとイマイチだけど」


「……そうか。そっちはなにか気になるものはあったか?」


雫希は本棚に並ぶ背表紙を視線でなぞる。


「うーん……もっとなんかわかりやすく、こう、誰かが残したメモとか、ヒントが書いてあるノートとかがあればよかったんだけど……善ちゃんたちが持ってるゲームや漫画みたいに、そううまくはいかないわよね」


「これらの本は?」


「なんていうか、ただ本棚に並んでるってだけで、整理整頓されてる感じじゃないわ。あたしでもわかるくらい並びがめちゃくちゃよ。作者の名前とかタイトルとかもそうだけど、童話とか民謡とかの本もあるし、普通の小説も学術書もまざってて、みっちゃんが見たら卒倒しそう。……でも」


「どうした」


「気のせいかしら……生物学の本だけがやたらと多くて……あ、ううん、それは今までもずっとそうだったし、そこは気のせいとかそういうんじゃないんだけど。それ以外でね、同じ本がくつもある気がするの。ほら、これとか、これも。今まで調べた部屋でも同じ名前の本を何度も見たわ。あ、これなんて同じ本棚に三冊も同じのが入ってる。こっちの本なんて逆さまに並んでるわ。なんでこんなにテキトーなのかしら。別にただの本だし、変わったところはないみたいだけど」


「同じ本がたくさん……そうか、ますます気味の悪い。なら、本自体に特別な意味はないのかもしれないな」


「どういうこと?」


「これもただの舞台装置のひとつでしかないのだろう、ということだ」


「よくわかんないけど、本はどうでもいいってこと?」


「ああ。断ずるのはまだ早いかもしれないが。それでも本以外のなにか……雫希が言ったように、誰かが残したメモなんかが見つかるかもしれないからな、探索自体は続けよう。お前にばかり負担がかかってしまうが……」


「負担ならフィストのほうが大きいわよ。怪物が出たら戦うのはフィストなんだから、あたしはあたしにできることするだけよ」


雫希は静かな声で言う。フィストは彼女の顔を覗き込んだ。元来のはつらつさはなりをひそめ、声も表情も重く沈んでいる。


「……元気がないようだな」


この状況ではそれも当然だろう。彼女は戦士ではない、ごく普通の少女なのだから。雫希は暗い表情で足元を見下げる。


「足が痛いのよ」


「そうか……どこかに代わりの靴があればいいのだが、サイズが合わなければと思うと難しいな。なにが落ちているかわからない以上、俺のように裸足で歩くわけにもいかない」


「こんなことになるんだったら、もっと歩きやすい靴を履いてくるんだったわ。もう一歩も歩きたくないくらいよ」


「そうか」


ため息をつく雫希に背を向け、フィストはその場に膝をついて屈んだ。


「乗れ」


「あ……、あのね、いくらあたしでも、別にそこまで頼んだりしないっていうか……今のはそんなつもりで言ったんじゃなくって……」


「このまま無理に歩き続けて、いざというときに足がつって動けなくなってしまったら? 疲労が溜まれば咄嗟の動きも鈍くなる。この状況下において、それは死に直結すると言っても過言ではないのだぞ」


「それは、そうかもしれないけど……」


「俺は日頃から一日の中でも止まっている時間より歩いている時間のほうが長いんだ。いまさらお前を背負って歩いたくらいで疲れるようなことはない。それにお前自身の体力もある程度残しておいてもらえると、より守りやすくなる。そのためにもこうするのが最善だ、乗れ」


「……重いとか文句言わないでよね」


雫希を軽々と背負い上げてフィストは小さく笑んだ。


「問題ない。想定より軽いくらいだ」


「ほんとにぃ……?」


心にずしりとのしかかる、人間一人の命の重み。この小さな生命を、なにがあろうと絶対に守り抜かなければならない。たとえ、それ以外のなにを犠牲にすることになったとしても。今のフィストにできるのは、それだけしかないのだから。

次回は明日、十三時に投稿します。

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