4 雫の回想
夢を見ている。
男が怒鳴り散らしながら夢の中の自分に向かって暴力を振るってくる夢だ。殴られ、蹴られ、踏みつけられ、夢の中の自分はその理不尽に対して身を固めて耐え、ただされるがままに虐げられていた。
「どうしてお前はいつもそうなんだ! こんな簡単なことすら満足にできない失敗作が!」
「今まで育ててやった私への恩を仇で返すばかりだ、少しは役に立ってみろ、この役立たず!」
「ノロマなグズめ! なんとか言ったらどうなんだ!」
男に突き飛ばされ、視界がぐるりとまわった一瞬だけ暗転し、次の瞬間には床がすぐ目の前にあった。いつものことだ、というある種の慣れと、それでも全身を襲う緊張と恐怖に、夢の中の自分はただうずくまって震えるばかりだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「それしか言えないのか、この穀潰し! ええい、邪魔だッ! なんの役にも立たないなら、せめて私の邪魔にならないところでじっとしていろ!」
「……はい」
打ち付けられた身体を起こす傍らで、男がデスクを殴りつける。
「ああ、クソッ! なぜだ……なぜうまくいかないんだ。前回の成功例と条件は同じ……いや、それ以上の手を尽くしているというのに……おい、聞こえなかったのか。さっさとどけ、邪魔だ!」
起き上がって四つん這いになり、そのまま立ち上がろうとしたところで腹部を蹴りつけられる。再び倒れ込むが、やはり男の暴挙に対する反抗心はなく、夢の中の自分はもう一度身体を起こすと、よろめきながらも部屋の片隅に急いだ。そのまま身を守るように縮こまって座り込む。男は苛立ちがおさまらないのか、頭を掻きむしってわめきながら部屋の中をぐるぐるとうろついている。
夢の中の自分には、この男からこれまで何度もあらゆる命令をくだされてきた覚えがあった。男は単純な雑用などを手伝わせようとするのだが、指差しも目配せもなくこちらに背中を向けたままの口頭指示で、アレを持ってこいだとか、ソレをあっちに持って行けだとか、命令の内容はいつも不明瞭だ。なので夢の中の自分は、結局なにをどうすればいいのか、どこになにを運べばいいのかがわからない。
しかし、アレやソレとはどれのことだと質問をしたり、その命令ではわからないなど口答えをしようものなら、男は烈火のごとく激怒して罵詈雑言をまき散らし暴力を振るった。当然、満足できるだけの働きを見せられなくても同じように暴力を振るった。
彼は長い間、なにか熱心に取り組んでいることがあるようだったが、手伝いをさせられているこちらは彼がなにをしているのか、詳細な部分はなにも知らない。なかなか思うような成果を得られていない苛立ちから、憂さ晴らしとして暴力を振るうのだということは、夢を見ている自分には理解できたが、夢の中の自分自身は理解できていなかった。夢の中の自分には怒りも憎しみもなく、ただいつ現れるのかも、理由もわからない男の激情に困惑しながら怯えている。それが夢の中の自分とこの男の力関係のすべてだった。
*
翡翠雫希が牢の中で目を覚ましたのは、フェルノヴァへの行き道にある森に入って四時間後、午後三時を少しまわったころのことだった。だがその牢の格子戸に鍵がかかっていないことに彼女が気付くのは、それからずいぶんと時間が経ったあとのことである。一度目覚めて、見知らぬ場所にとらわれていると気付いたときは取り乱しもしたが、なにが起きるわけでもない静かな時間が流れるうちに恐怖に慣れて感覚が麻痺してしまい、やがて緊張することに疲れて眠りについた。雫希本人は少し長めの仮眠をとった程度と認識していたが、外では既に朝を迎えていた。
じっと待っていても助けがやってくる気配はなく、声をあげてみても、ただ冷たい壁に反響するばかり。誰でもいいから助けてくれないものか。そうたとえば、この場に姿のないフィストティリアが今にも雫希を迎えに来て、ここから出してはくれないだろうか。そんな淡い期待を込めて鉄格子に近寄ったとき、ようやく戸が開くことを知った。……知ったものの、すぐさま外に出るというのもためらわれた。武器になるものも、防具になるものも持っておらず、そもそも身を守るための道具があったところで雫希は戦えない。それは三月と善丸の役目であり、雫希は常に守られるべき存在であったからだ。もしもこちらに攻撃の意思がある何者かに遭遇したら――そう思うと恐ろしくて二の足を踏んだ。
それでも彼女が牢を出たのは、一人でいることの心細さに耐えかねたというのが大きな理由だろう。見知らぬ場所で、自分の身になにが起きているのかがまるでわからぬまま牢に囚われ、助けは来ず。だがフィストも同じ状況であるなら、彼とさえ合流できれば――いいや、この際もはや誰でもいい。誰でもいいから一緒にいてほしい。そういった孤独への耐性のなさと、ここでじっとしていたところで安全ではない可能性に気付いた結果に選んだ、じっとしている勇気がなかったことからくる決断だ。
甲高く軋みながら簡単に開いた格子戸からそっと牢の外に出た。部屋の真ん中に一本の通路と、それを挟むように牢屋が向かい合わせに配置されており、通路の片方は行き止まり、もう片方には大きな鉄の扉があった。その扉にもカギはかかっていない。まず扉に耳を当ててみるが、外部からの物音はなかった。真実なにもないからなのか、それとも外の音を拾えないほど扉が分厚いのかは判断がつかない。重い扉をゆっくりと開けてみて、隙間から扉の先の様子を見た。薄暗い牢屋うとは打って変わり、照明の行き届いた明るい廊下だ。床も壁も天井も白く、人の気配はない。
「ね、ねえー……誰かいないのー……?」
控えめに声を出してみるが返事はない。ここでその扉が内側から施錠できるようになっているのだと気付いていれば、雫希はその一歩を踏み出さなかっただろう。壁に手を添えながらおそるおそる、まっすぐに続く廊下を歩いて行く。もといた部屋の扉が小さくなるまで進んでみても、相変わらず周囲に人の気配はない。その無音がかえって不気味だった。なにもない廊下を歩き続けること五分。曲がり角と、その角に配置された扉が見えた。扉の前で少し立ち止まり、中を調べるかどうか悩んだが、一人で扉を開ける勇気はなく、ひとまずそこに扉があったということだけを記憶して先に進む。
「フィスト? ねえ……どこ行ったのよ……フィストー……」
定期的に白い虚空に声を向ける。沈黙の重圧と孤独への不安に耐えられなかったのだが、その声に返ってくるものがないという事実がさらなる不安となって心に圧し掛かる。目の奥がじわりと熱くなり、視界がぼやけそうになるのを手の甲でこすってごまかす。それからも二つほど扉を素通りし、牢から出て十五分が経過したころだろうか。新たに現れた扉を前に、なにを思ったか雫希は立ち止まった。
依然として人の気配はなく、雫希の呼びかけに応える者もない。胸の中で大きくなっていく恐怖心は、状況を理解できない未知への拒否反応と、一人きりでいる時間が長すぎたことからくる寂寥感が原因だ。移動を続けて誰かと合流することが最優先事項ではあるが、合流の可能性を高めるためにも、この場所についての情報を得るためにも、やはり扉の奥を調べたほうがいいのではないか。この葛藤は最初に扉を発見したときからずっと抱いていたものだ。
部屋を調べるまではしなくても、扉を開けて誰もいないかを確認するくらいはしてもいいだろう。だが、そうして出会った相手が味方であるとは限らない。今までは運よく――あるいは運悪く――誰とも出会わなかったが、もしも雫希をこの場所に連れてきた誰かと出くわすようなことになったら、対抗手段を持たない雫希はなにもできずに殺されてしまうかもしれない。そのリスクを考えると抵抗は強まるが、それでももし、仲間がいれば? この扉を開けた先に、もし偶然にもフィストがいたら? 扉を素通りするのが絶対に安全策だと振り切れない。
気の迷いだ。ドアノブに手をかけてまわしてみる。鍵はかかっていないようだ。そのまま小さく手前に引き、隙間から中の様子をうかがった。扉の向こうはなにかの部屋になっている。奥には粗末な机と、その上に本が数冊。部屋の中央あたりにパイプ椅子がひっくり返っている。部屋の左側には本棚が並んでおり、だが並び方は大雑把で、斜めに歪んていたり、一番奥の棚は壁に向かって倒れかかっていたり、床にも本が散乱している。人はいない。
もう少し扉を開けて半身だけ部屋に入る。隙間から覗いたときには見えなかった部屋の右側を確認すると、そこには大きな鉄製の檻が置かれ、なにかを中に閉じ込めていた痕跡が見て取れた。よく見ると周囲の床や壁には大きな爪跡のような疵が刻まれ、檻の扉は全開だ。ここにはなにか大きな猛獣でもいたのでは――背筋が冷えると同時に、心臓が大きく脈打った。
本棚の陰から四足歩行の足音と、低いうなり声。のそのそとおもむろに姿を見せたのは、体長二メートルはありそうな大きな獣だった。顔つきと毛並みは狼のようだが、体つきと口から覗く大きな牙はまるで虎のようにも見える。大きな尻尾と足先は毛が生えておらず爬虫類じみた皮をまとい、両側の側頭部に円を描くように伸びた羊のような角がある。
そういう生き物なのだと断じるにはあまりにバランスの悪い、ちぐはぐな外見の魔獣だった。まるで複数の生き物をかけ合わせたような違和感。爬虫類的な獣の大きな目がぎょろりと雫希を見た。異様な外見に気を取られていた雫希は、その殺気にはっとしてうしろにさがり、急いで扉を閉める。だが雫希を追った獣が扉に突進し、少女の腕力では力負けして弾き飛ばされた。
「きゃあっ!」
うしろによろめいたところに獣が飛びかかる。半ば転倒するようにしゃがみ込み、すんでのところで回避した。立ち上がって逃げようとするが、気が動転して身が固まり、足がもつれて倒れ込んでしまう。獣は低いうなり声をあげながら一歩ずつ、雫希との距離をはかっている。
「こ、来ないで、来ないでっ!」
尻餅をついたまま手足を動かして必死に逃げようともがく。窮地に陥ると人はここまで身体が震えるものか、自分の身体だというのにまるで言うことをきかない。どくどくと脈打つ緊張に心臓が痛いような気さえした。獣はそんな雫希をあざけるように、あるいは恐怖心を煽るように、ゆっくりと距離を詰める。
「やだ、やだ! なんでっ、誰か助けて!」
こんなところで死にたくない。わけもわからないまま知らない場所に放り込まれ、わけもわからないまま、わけのわからない獣に喰い殺されるなど。そんなのは理不尽だ。受け入れられるはずがない。誰でもいい、誰でもいいから――そんな願いを踏みにじるように、獣は後ろ足で地面を掻く。
「いやああああッ!」
逃げる間など与えぬ俊敏さで力強く跳躍し、大きく弧を描き、その着地点にいるのは当然、雫希だ。大きく開かれた口から覗く無数の牙。大ぶりな獣がたった一人の無力な少女に喰らいつき、その喉笛を噛み千切るには二秒もあれば事足りる。
「助けて! 助けてフィスト!」
そう。二秒もあれば事足りるのだ。
雫希の頭上に一瞬、影が重なった。大きく開かれた獣の口ごと、大きな手のひらがその頭部を掴む。すらりと長い脚が雫希の目の前に降り立って、次に獣を壁に向かって投げ飛ばした。叩きつけられた獣が高い悲鳴をあげる。
――鬼だ。
雫希と爬虫類の獣の間に割って入ったのは、そこにいたのは、一人の鬼だった。
うしろで束ねた紫の髪。草色の装束をまとい、手足に巻いた白い布の隙間から灰色の肌が覗く。獣が頭を振って体勢を立て直し、怒りと殺意に血走った目で鬼に跳びかかった。先ほどより速い。鬼は布を巻いただけの裸足の右足を素早く前に、一歩。踏み込むと同時に白い床が沈み、周囲に大きな亀裂が走った。突き出された拳は獣の喉を捉え、獣は声の代わりにゴリ、と奇妙な音を喉からもらしながら、再び壁に叩きつけられた。トカゲのような足を痙攣させて数秒、やがて動かなくなる。
雫希はおそるおそる、泡を吹いて倒れ伏す獣と目の前の鬼を見比べる。自分でもおどろくほどにか細い声が出た。
「……フィス、ト?」
勢いよく振り向いた鬼が雫希の両肩を掴む。その剣幕はまさしく鬼と呼ぶにふさわしい。
「――雫希! 怪我はないか、なにもされていないか?」
雫希は黙って首を振る。なぜか声が出なかった。一瞬の出来事に頭が追いつかない――というよりは、むしろ、目の前の鬼に対して湧き上がる安心と、それ以上の緊張の意味に理解が追いつかず混乱し、咄嗟に声が出せなかったのだ。雫希の答えに鬼は肩を落とし、ほっと安堵して表情をゆるめた。
――ああ。
「間に合ってよかった……本当に」
フィストだ。
牢で目覚めて以来、会いたいと願ってやまなかったフィストティリアだ。たしかに彼だ。ようやくそう認識できた途端、雫希の目には今までこらえ続けてきた涙がせきを切ってあふれ出した。なにも考えずにその胸に飛び込む。
「フィスト……フィストぉ……!」
鬼――否、フィストは子どもをあやすかのように雫希の背中を優しくなでた。
「どこ行ってたのよぉ! あたし、ずっと、ずっと一人でっ……」
「頑張ったな、ここまで一人でよく頑張った。迎えにくるのが遅くなってすまない」
「ほんとに、こ、殺されちゃうって、思ったんだからあっ……ばかぁ……!」
「よくぞ無事でいてくれた。ああ……かわいそうに、こんなに震えて……怖かったな、もう大丈夫だ」
フィストは装束の上に羽織っていたいつものローブを雫希の肩にかける。ふわりと森の香りがした。フィストの匂いだ。
「その薄着では身体を冷やす。こんなものでもないよりはマシだ、使ってくれ。なにかと不安なのはわかるが、少し落ち着いたら移動しよう」
「……うん。ねえ、フィスト……ここってなんなの?」
雫希の問いにフィストはためらうように目を伏せ、首を振った。
「すまん、それは俺にもわからない。……ここがいったいなんなのか、なぜ俺たちがこのような場所に連れてこられたのか。状況を正しく理解するための手がかりが必要だ。あせらずに一歩ずつ前進しよう。拉致という形だったとはいえ、入ってくることができたんだ。必ずどこかに出口がある」
「拉致?」
「覚えていないか? フェルノヴァに向かうために森の手前で列車を降りて、徒歩で森を横断しようとしていたときに、お前が急に眠いと言ってしゃがみ込んで、そのまま倒れてしまったんだ」
「そう……だったかしら、森に入ってしばらく歩いていたところまでは覚えてるんだけど……」
「その直後に、茂みから大きな……獣の骨のような魔獣が出てきて」
「獣型スケルトンってこと?」
「ああ。そいつの周囲には奇妙な甘い香りが漂っていた。おそらく睡眠効果にある毒の類だろう。俺はそれ自体は平気だったが……戦闘に少し手こずってな、重めの一発を頭にくらって、情けないが気を失ってしまった。それで気付いたらここにいたんだ」
「そのカルセットがあたしたちをここに? ほら、こう、餌を巣に蓄えておくみたいな……」
「俺も最初はそう考えた。巣穴に獲物を生きたまま持ち帰ったり蓄えたりする種は存外に多い。だが、ここは他にも魔獣が多く徘徊しているから、こんなところに餌を貯蓄していては他の連中に奪われかねない。蓄えとして攫ったというのは違和感がある。そういう連中は単独行動を好み、縄張り内に他の個体がいることを快く思わないからな。それに」
「それに?」
「魔獣はそもそも多くの場合は廃虚や自然の中などの、滅多に人が踏み入らない場所に生息するものだ。ここは電気が通っている以上、少なくとも長く放置された廃虚ではないだろう。明らかに人の手が入っている場所だ」
「じゃあ、誰かがそのカルセットに命令したのかしら。少し前に、セレイアでカルセットを従わせて町を襲ったテロ集団がいたって、みっちゃんから聞いたことあるわ」
「そうだな……その事件もそうだが、魔獣も場合によっては人に従属したり、共存の道を選ぶこともあると聞く。ありえない話ではないはずだ」
「でも……なんのために?」
「わからないが、なにかしらの目的があるのだろう。詳しく探索するうちにそれを推測できるだけの手がかりが見つかればいいが……。ところで、雫希は毒耐性を持っていないのか? 体液のすべてに毒性を宿しているということは、同時に耐性もあるのだと思っていたのだが」
「あるにはあるけど、フィストのみたいに万能じゃないのよ。あたしはあたし自身の毒を無効化できるだけよ。まあ、普通の人よりは毒に強いでしょうけど……毒耐性って、強すぎると薬も効かなくなるんでしょ? あたし、風邪薬とか鎮痛剤とか飲むけど、強めの薬を多めに飲めば普通に効くもの。だったら、毒にしてもそうなんじゃない?」
「そうなのか……なら気付いていなかっただけで、森を歩いている間はずっとガスを吸い込んでいたのかもな。体内に蓄積された毒性がじわじわと効果を表して、その結果があれだったのかもしれない」
「あたしもそう思うわ」
「それと、気がかりなのはここに住み着いている魔獣だな。ここに来るまでにも何体か相手をしたが、どれもこれも今そこにいたのと同じように奇妙な姿のものばかりだった」
「あたしはカルセットとか詳しくないし、実際で近くで見たこともほとんどないんだけど、やっぱあれって変なの? みっちゃんが持ってた本で見たのは、もっとこう……あんなにアンバランスな感じじゃなかったわ」
「俺もすべての魔獣を知っているわけではないが、あんなに不気味なのは初めて見た。あれはトカゲ然とした獣のようだが、俺が見た中には魚面でウロコのある鳥らしき魔獣もいた。雫希の言うとおりアンバランスで、というか生態的に無理があるような……見た目の衝撃が強すぎるというか……」
「キモすぎて無理」
「……うむ」
暴言だが、フィストも苦い顔で頷いた。
「遭遇しても戦闘態勢を取るより先に、変に気が抜けてしまうというか……だが、それでも狂暴さは他の魔獣にも引けを取らない。どんな見た目であれ、敵として強力な相手であるのはたしかだ」
「一発で伸しちゃったけど……」
「たまたま相性がよかっただけのこと。だが身体は十分に温まったからな。油断と慢心は禁物だが、どんな相手が来ても後れを取るつもりはないさ。……いや、すまん、今のは大見栄を張った。不利な相手が来たら撤退もやむなしだ」
「フィストが不利な相手って、たとえば?」
「そうだな……精神干渉が効かない相手と、単純に俺よりも強く速い相手。人である以上、水中戦も苦手だ。基本的に力押しでどうにかなる相手なら問題ないが、それが通用しない相手とは相性が悪い。俺が不利なものというと……あとは雫希、お前くらいのものだろうか」
雫希は思わずくすりと笑う。
「……あんたでも冗談言ったりするのね」
「おや、あながち冗談でもないぞ。……それから、先に言っておくと俺には決定的な切り札と呼べるものがない。能力者の多くは体内の魔力を一時的に操ることで火力の底上げをおこなったり、いざというときの奥の手として強力な一撃を放つこともできるが、俺はそういった魔力操作ができないんだ。だから敵に囲まれても大技で一掃して切り抜ける――という手段はとれないので、そこは理解しておいてほしい」
「そうなの?」
「ああ。だが足の速さには自信がある。少しでも危険を感じたらお前を担いで逃げるつもりだ。大事なのは目前の敵を屠ることではなく、どんな手を使ってでも生き延びることだからな。頼りないとは思うが、俺に任せてくれ」
フィストは雫希に手を差し出す。その手をとって立ち上がり、雫希は一度だけ床に視線を落とした。フィストが踏み砕いた部分だ。堅く艶のある白い床。足の形に沈んだ部分を中心に派手なヒビが入り、そこだけ床が粉々だ。その先に転がる死骸は喉のまわりが奇妙に潰れ、眼球が半分ほど飛び出してしまっている。これを見れば、彼が頼りないなどという感情は微塵も浮かばない。
「行こう。ここから出る方法を見つけるんだ」
かくして無事に合流を果たした二人は、まず最初に魔獣が飛び出してきた部屋を調べることにした。床に散乱した本をなんの気なしに拾い上げてみるが、気になるところはない。ごく普通の本だ。他の本も同様に、屋敷やギルドの図書室などでも見たことがあったりなかったりする物語の本や、むずかしそうな学術書などもまざっている。この場所や現状についての新たな情報を得られそうな本ではないと雫希は思った。魔獣が入っていたと思われる檻の前に屈んでいたフィストがこちらを見る。
「なにか気になる本でもあったか?」
「ううん、どうでもよさそうなのばっかりよ。これなんて普通に普通の小説だし。あ、これは善ちゃんが前に読んでるの見たわ。あと……たしかみっちゃんがこういう感じの本をいっぱい持ってたような」
「そっちは?」
「えーっと……こっちの棚にあるのは全部生物学の本みたい。こっちは……これは歴史かしら、これは化学ね。あ、言っとくけど、みっちゃんじゃないんだから、今からこれ全部に目を通すなんてのは無理よ。あたし、普段も本とか読まないし」
「俺はそもそも文字が読めないからな……それにしても、生物学の本がやけに多いようだが、なにか関係があるのだろうか」
「うーん……さあ、どうなのかしら。本自体は普通の本だし、本の間にもなにか挟まってるわけじゃないし……」
「あ」
不意に視線を落としたフィストがなにかに気付いて檻を動かす。すると、檻の下から小さな扉が現れた。人が入れるようなものではなく、おそらく床下収納だろう。扉を開けるフィストのうしろにまわりこみ、覗き込んだ。
「缶詰め?」
小さな収納スペースに水のボトルが二本と缶詰めが三つほど。そしてフォークの入ったプラスチックのケースも一緒になって収納されている。
「雫希、ここに来るまでになにか食べたか?」
「え? う、ううん。なにも持ってなかったし……」
本当はずっと牢の中にいたのだから食糧など探してすらいなかったのだが、まさか鍵のかかっていない牢屋にそうと気付かずこもり続けていたなど、そんな間抜けな事実は言えなかった。フィストは缶詰めを雫希に差し出す。
「ひとまずここは安全だ、今のうちに腹に入れておくといい。俺はともかく、一般的な系統能力者にとって飢えはそれだけでも命取りだろう」
「うん……まあ、賞味期限はちゃんと余裕あるみたいだし、贅沢は言ってられないわよね」
「水と食糧は用意されているのか……俺は他になにかないか探してみる」
ひっくり返っていたパイプ椅子を起こして雫希を座らせ、フィストは部屋の探索を続けようとする。
「フィストはなにも食べなくていいの?」
「今は腹が減っていない。そもそも俺が食えるものはそこにはないからな。それに少しだけなら非常食の備えがあるし、俺には飢餓への耐性も少しある。だから気にしなくていい」
「非常食?」
「ああ。常に枯れ葉を何枚か持ち歩くようにしているんだ。いつもなら無用な備えだが、今回はそれが功を奏したようだな、食糧に関しては俺は俺でなんとかするさ。……ほら、もうひとつなにか見つかったぞ。これは……果物か、甘味は人の心を落ち着かせる。今食べるか?」
「今はいいわ」
「ではあとに取っておこう」
「水二本と缶詰めが三つ……でも、カバンでもないと持って行けないわね。なにかないかしら」
「カバンではないが、風呂敷ならある。これくらいの荷物なら問題ない」
フィストが懐から折りたたまれた布を出すと、発見した水と食糧を包んだ。背中に斜めにかけて、胸元で布の両端を結ぶ。
「なんで風呂敷なんて持ってるの?」
「今はその用途として使うために風呂敷と呼んだが、これは手拭いにもなるし、マスクやターバンの代わりとしても、いざとなれば止血にも使える。とはいえ水を飲むためにいちいち風呂敷を広げるより、すぐに取り出せるカバンがあるほうが便利だな、優先して探すとしよう」
「見つかるかしら」
「それは探してみないことにはわからない。さあ、そろそろ行こう」
先にフィストが扉を開けて周囲を確認すると廊下に出る。雫希はその背中を追い、彼のあとをついていった。
次回は明日、十三時に投稿します。