2 地の中の巣窟
スーリガ、フェルノヴァ間にある国境の森は木々が鬱蒼と生い茂っており、昼間だというのにずいぶんと薄暗かった。探偵が線路沿いの道からではなく、農場に面した通りをまっすぐ北上したところにある、もうひとつの出入口から森に入ったのは、先にここに立ち入ったと思われるフィストたちや三月もそうしたと考えられるからだ。少なくともフィストと雫希は住民の目撃証言からも間違いなくそこを通過している。
大抵、よそ者が森に立ち入る場合は多くが道に迷う心配の少ない線路沿いを歩くので、普段は住民たちだけが使うその道から森に入っていく二人の姿は印象強かったようだ。フィストがわざわざ人前を歩いてそちらを選んだのは、利用者の少ない線路伝いの道を歩くよりも、これまでに多くの人が通ってきて地面が固まっている道を進むほうが歩きやすいからだ。人目につきやすいデメリットはあるが、フィストなら自分の都合よりも雫希の足を優先する。三月がフェルノヴァからではなくスーリガからこの森に入ったのだとすれば、探偵と同じ判断を下したはずだ。
路地裏の放浪者たちの失踪や町での行方不明者の話もあったためか、森にひと気はない。それはおそらくフィストと雫希が通ったときもそうだっただろう。しかしフィストがあえて住民と接触する理由もないので、二人は行方不明者の話やこの森の不穏な噂など知らなかったはずだ。もし知っていれば、フィストは雫希を担ぎ上げてでも引き返していた。人どころか野生動物やカルセットの気配さえ見受けられず、あたりは静かだ。
歩きながら隣に生えた木の幹に触れる。そこには鋭利な刃物でつけられたような疵があり、まだ真新しい。同じような疵のついた木が森の入り口からここまで等間隔に配置されている。当たり前だが自然にできるものではなく、目印として意図的に残されたものと捉えて間違いない。数歩先で寿が地面にしゃがみこみ、こちらを振り返って飛び跳ねた。見ると小石が不自然に並べられており、どうも暗号めいた文字になっている。寿は足先で小石をつつきながら首をかしげた。
「不知火三月だな。自分のあとからこれの意味を知る者――すなわち、私か不知火善丸がやってくることを見越しての書き置きだ」
これの意味がわかるのか、と言いたそうに寿が見上げてくるので、探偵は軽く鼻で笑って頷いた。
「以前、あの男が持ってきた古い書物の解読を手伝ったことがある。これはその際に不知火三月がおもしろがって創りだした文字だが、基盤となっているのはそのとき解読した古代文字。つまり、これはその古代文字を少しいじっただけの簡単な暗号だ」
とはいえ文字の意味自体はそこまで重要ではない。彼はこれを残したのが自分であることを知らせるために小石を置いたのだ。それだけで不知火三月がここを通ったというなによりの証拠になる。なぜなら、ここにある文字は解読すると「通過」の意味になるからだ。自分のあとからやってきた探偵や善丸が文字の意味を解読できなかったとして、これを残したのが三月であることさえ伝えることができれば、それは解読したのと同義である。
木に付けられた疵と、小石の配置と文字の意味を手帳に書き記す。それが三月の手によるものであることと、彼がたしかにここを通ったという補足も簡単に付け加えた。ひとまずはこのまま彼の足取りを追う。この小石の文字のように、まだ後続に向けたなにかを残している可能性が高い。
「先に進むぞ」
草むらから現れた蝶に気を取られていた寿が呼びかけに反応してついてくる。それから先も目印のついた木を辿りながら森の奥へ進んでいくと、しかし、これまで一定の間隔で発見できたはずの目印が急に途絶えた。三月の几帳面な性格からして、本来ならばこのあたりに次の目印があるはず――と周囲の木々をよく確認してみると、たしかに疵のある木は見つかった。だがそれは目印というより、目印をつけようとした痕跡と呼ぶべきだろうか。今まで見てきたような切り口のしっかりとしたものとは違い、ナイフの刃先が掠ったような、刃を立てたものの力が入らず離してしまったような、小さな疵だ。
「寿、周囲になにか怪しい反応はないか?」
寿は首をかしげ、その場にうずくまると頭を抱えて考え込むようにうつむいた。いくら探偵でも周囲にいるカルセットの気配を察知することはできない。そこを補うのも寿の役割のひとつだ。寿があたりの警戒に意識を割いているうちに、探偵は最後の目印の周辺を調べる。木の裏や根本にはなにもない。その場に屈んで地面を睨みつけた。
三月のものと思われる足跡がわずかに残っているが、この木のあたりからは土が乱れている。足取りが危うくなった証拠だろう。襲撃か戦闘がおこなわれた可能性が高い。立ち上がり、そのとき彼が進んだと思しき方向へ歩を進める。その先は藪になっているため侵入するには難儀しそうだが、うまく使えば敵対生物の視界から外れることができそうだ。一歩だけ踏み込んであたりを見回す。
すると、草陰に隠れるように黒い棒のようなものが地面に刺さっているのが見えた。雑草をかき分けてみると、それは地面に突き刺さった短剣だ。引き抜いて確認したところ、柄の部分に「三」の文字が刻まれていた。見覚えがある。これは不知火三月が持ち歩いている護身用の武器だ。
「たんてー、たんてー!」
振り向くと、寿が両手をばたつかせながら飛び跳ねている。声帯こそ人間と同程度に発達しているが、人語というものにいまだ馴染むことができずにいる寿は、あわてると余計に言葉が出なくなる。すぐにそちらへ駆け寄ろうとするが、立ち上がって二歩目で異変に気付いた。
まっすぐ進むつもりが、足がもつれる。膝に力が入らず立っていられない。いや、それどころか、全身から力が抜けていく心地で、思うように体が動かない。めまいが一秒と経たないうちに重くなっていく。突然の異変に頭を押さえ、気をしっかり保とうと眉間にしわが寄る。探偵が地面に膝をつくと寿が駆け寄ってきた。甘い香りが鼻先を掠め、瞬間、ひどい眠気に襲われる。
寿。――と声に出したつもりだった。急速に訪れる脱力感に、もはや平衡感覚すら失われていく。倒れ込む寸前、探偵は寿の襟首を引っ掴むと近くの草むらに向かって放り投げた。がさり、と小人の姿が草陰に消える。まぶたが重い。抵抗空しく視界が閉ざされていく。そのまま倒れ伏し、暗闇に意識が融ける間際。なにか大きな足音が近付いてくるのが聞こえた。
*
――……。
――……、……い。
――……んてい。
「探偵、……おい、探偵! しっかりしろ!」
耳元で響く声。体を激しく揺さぶられて目を覚ました。ぼやける視界はまばたきのうちに明瞭さを取り戻し、目に入ったのは暗い色の壁と天井。そして威圧的な鉄格子。そこが牢の中であることは考えるまでもなく理解できた。体を起こすとまだ少しめまいがある。全身が重い。
「よかった、気が付いたか」
「……気を失っている相手をあまり強く揺さぶるものではないぞ」
探偵を揺り起こしたのは、昨日から行方不明になっていた不知火三月だった。片膝を立てた状態で探偵を見下ろしていた三月は、冷たい石の床にぺたりと尻を付けて胡坐をかく。
「フィストと雫希が帰ってこないもんで捜しに出たら、森の中で急に意識が遠くなってな。んで、気付いたら牢の中にいて、誰か仲間がいないかうろついていたらお前を見つけたんだ」
「ここに来るまでの経緯は私も同じだ。どうもあの森に睡眠ガスの類を振り撒いている者がいるらしい。無論、ただで捕まってやったわけではないが……やはり厄介なことになったか」
「寿が一緒じゃないってことは、ギルドからの応援があることを期待してもいいんだよな?」
探偵は懐中時計を取り出した。きちんと動いているようで壊れてはいない。森で気を失ってから既に三時間ほど経過しているようだ。持ち物を没収された様子はなく牢の扉も開いている。錠前はどこにも落ちておらず、また三月が持っている様子もない。鍵は最初からかかっていなかったということか。
「今ごろダウナにはロア・ヴェスヘリーが来ているはずだ。寿の足でそこへ辿り着くまでにどれだけかかるか……あれが來坂礼のもとにさえ届けば、我々の身になにが起きたのかは余さず伝わる。しかし現在位置の正確な座標がわからない上、我々を眠らせたガスは厄介だな」
「寿は大丈夫なのか?」
「あれに毒は効かん」
「じゃ、あいつ以外で毒に耐性のあるギルド員は?」
「聖導音アリアと世知那琴琶、藍那夜黒ならあるいは。ギルドが応援を寄越すとすれば、早い段階で名前が挙がるだろう」
三月が探偵の言葉に反応し、ぱっと顔を上げる。
「聖導音アリア? ふ、ふーん……」
「水を差すようで悪いが、この様子では貴様の片割れもそのうちここに来ることになるだろうよ。あれは今フェルノヴァを調べている。寿と入れ違いになっているならば、なにも知らずに森の中に入ってくるはず」
「つまり?」
「フィストティリアと翡翠雫希もここにいると見ていいだろう。全員が合流できれば、その時点である程度の戦力が整ってくる。ならば來坂礼は私がなんとかするものと考え、しばらくは様子を見ることを選ぶだろう。我々がこの場の戦力だけで内側から攻略することを期待しているのだ。応援が一人も来ないとは言わんが、すぐさま大勢の――となると期待はできない」
「……もしフィストたちと合流できなかったとしても、他に捕まってる誰かの中には戦力として期待できるやつもまぎれているかもしれないしな……まあ、そうだな」
「そう落ち込むな」
「俺は別に落ち込んでないし、それだとまるで俺が聖導音と会いたがってるみたいじゃないか」
「私は聖導音アリアの話などしていない。ギルドからの応援が望めないことに関して言っている」
「くッ……謀ったな……」
「牢には最初から鍵がかかっていなかったのだな?」
「……ああ、俺が閉じ込められていたところもそうだった」
探偵は立ちあがる。部屋には通路を挟んで牢が向かい合わせに配置され、通路の先には重そうな鉄の扉があった。天井には監視カメラが作動しており、カメラのすぐ近くに通気口が見える。牢に鍵がかかっていないことや、拘束もなく手荷物もそのままであることからも、閉じ込めたままにするつもりがないことは明白だ。探偵に続いて牢を出た三月が扉に耳をつけて外を警戒する。
「かなり広いみたいだぜ、ここ。俺が目を覚ましたのはこのひとつ上の階なんだが、上がればいいのか下ればいいのかわからなくて、とりあえず下に来てみたんだけど。そこかしこによくわからんカルセットが徘徊してて、これまではなんとかやり過ごして逃げてたんだが……」
「ならばこれを渡しておくべきだな」
そう言って探偵は森の中で拾った短剣を差し出す。三月は僥倖だとばかりに受け取って口角を上げた。
「なんでもいいから、とにかく俺がそこで力尽きたってことを知らせたかったんだ。回収してくれていたとはありがたい」
「よくわからんカルセット、というのはどういうことだ。今までに見たことのない種族ということか」
「それがなあ、いや、見たことあるような気はするんだよ。初めて見るはずなのにどこか既視感があるというか。知ってるようで知らないような気味の悪いやつらがうろついてるんだ」
「ほう、それは……いや、実際に見もしないうちから断ずるべきではないな。続けろ」
「俺が森で意識を失ったのは昨日の夕方ごろで、ここで目を覚まして動き出したのが……たぶん、今朝のこと。正確な時間はわからない。一人だったからまずは仲間を捜そうと思って、建物内の探索はほとんどできてない。扉があっても中に誰もいなきゃ調べずに引き返してたんだ。そんで、その気味の悪いカルセットどもから逃げながら右往左往してるうちにお前を見つけた」
「聞くまでもないが、ここに来るまでの道筋は?」
「完璧だ。それはそれとして地図は作っておきたいところだけどな。俺とお前は手ぶらでも頭の中で地図を描けるが、この先もし他の生存者と合流できたとして、そいつも同じだとは限らない。紙と書くものくらいなら少し探せば見つかりそうな雰囲気だったし」
「手始めにこの階を調べるとしよう。戦えるか?」
「ああ。今までは素手だったから戦闘は避けてきたけど、得物があるなら話は別だ。よし、これでようやく見張りを立てながらの探索ができるんだな。俺が見張りをするから、しばらく探索のほうは任せるぜ」
そう言って話をまとめるものの、三月はどこか気乗りしないような口ぶりだ。探偵も他人のことを言えないが、三月はその場の情報を極力なら自分で管理したい性格なのだ。水無月邸での情報管理といえば常に三月の役目で、だからいつもと違う分担での仕事は据わりが悪いのだろう。彼の絶対的な記憶力と驚異的な速読術は探偵をもしのぐ。それでも、今この場においてより見張りに向いているのは探偵でなく自分のほうだと理解している。彼は水無月邸の情報管理者であり、水無月水晶および妹の雫希の護衛――つまり、非戦闘要員の探偵と違って、十分な戦闘要員なのだから。
「ここみたいな牢屋がある部屋は、なぜか内側から扉に鍵をかけられるようになってる。休むときはここにいれば安全と見てよさそうだ。まあ、それでも寝るときは交代で見張りを立てておいたほうがいいだろうから、早いとこフィストたちを捜そうぜ。俺より見張り向きなやつがいれば、俺とお前で情報を集められる」
探偵も三月の情報管理能力には一目置いている。なので彼の言うとおり早めの段階で他の誰かと合流して、彼も情報収集に加わってくれたほうが都合がいい。三月が扉を少し開けて外を覗き、安全を確認してから外に出た。外は廊下になっており、暗い牢とは打って変わって真っ白な空間が広がっている。
「意図的にそう造ってあるのかは知らないが、窓がひとつもないんだ。外がどうなっているのかもわからないし、今が朝なのか夜なのかもわからない。ずっとこんなところにいたら体内時計どころか気が狂っちまいそうだ」
「ここが地下であるとすれば当然だ」
「まあ、そうだろなあ。森の中にこんなに広い建物があれば誰かが気付くし、俺たちを眠らせたあとに森の外に運び出すのもリスクがでかい。俺たち以外にもここにつれてこられたやつだっているんだろうし」
「根なし草の放浪者たちを森に連行した者がいる。白衣を着た壮年の男だ。仕事を斡旋すると話していたそうだが、つれて行かれた連中はそれきり帰ってこないままだ。それと関係なく森に入った町の住民も何人か行方不明になっている」
「ああ。住民が何人かっていうのは俺も聞いたよ。ってことは、思ってたより大勢が俺たちと同様に閉じ込められてるのか」
「……そうだな」
「ここで気になったことといえば、ひとまずそれくらいだな。とりあえず俺が一度通った方面から順に調べていこう。こっちだ」
三月の先導で探索を開始する。ともかく課題のうちのひとつであった三月との合流は無事に果たされた。目下のところ探偵が懸念するのは、寿が無事に森を抜けられたのかどうかという点と、探偵と引き離されたあの小人が暴れて余人を噛み殺さないだろうかという点についてのみだ。
次回は明日、十三時に投稿します。