『真実の一端』
既に眠ったはずの翡翠色の目が再び開かれたのは、探偵以外の誰もかもが寝静まったあとのことだった。見張りの交代が迫り、扉の傍で時計をながめながら座っていた探偵は、寒気のするような強い気配に顔を上げる。
「……交代の時間にはまだ早いだろう。現身が起きるから引っ込むのではなかったのかね、風神」
目線の先に佇んでいたのはジオ・ベルヴラッド――ではなく、その身体を使って顕現した風神ベルヴラッドだ。
「もう幾ばくもなかろう。わが現身が目を覚ますまでのわずかな時間だが、我は汝との対話を望む。先ほどはろくに話せなかったものでな」
「話だと? あいにく神を楽しませられるような話術など持ち合わせていないのでな、話がしたいなら他をあたることだ」
「我が興味をそそられているのは他のヒトの子ではなく、汝という唯一個体だ。して、見張りの成果は」
「今のところは何事もない」
「それはなにより。わが現身は汝を勤勉なる賢者として高く評価しておる。だが、あまり根を詰めすぎるでないぞ。知恵の要たる汝が倒れるようなことがあっては、わが現身やヒトの子らの損失は計り知れぬ」
「まわりくどいな、本題に入るがいい。まさか私に労いの言葉をかけるためだけに再顕現を果たしたわけではあるまい?」
「そうでもないぞ。そのためだけに、というわけでもないが」
「用件はなんだ」
「そう怯えるな。なにも汝に危害を加えようというつもりはないのだ」
「怯えている、だと? 私がか。貴様の目にはそう映っているのか、笑えない冗談だな」
「汝は我を前にすると、わが現身を前にしたときよりもいっそう慎重な面持ちになる。汝はなにを考えているのやらわからぬ男だが、それでも強い感情を隠蔽しきれない瞬間がある」
「それが貴様に対する恐怖心であると言いたいのだな」
「より正確には我だけではなく、我ら――すなわち、神性を宿す存在に対するものだ」
「くだらん。貴様はそんな取るに足らない無駄話のために、わざわざ貴重な時間を割いてその肉体を占拠しているのか。契約者といえどもそれはあの少年の身体。貴様ら神にとっては人間の尊厳や価値観など、それこそ取るに足りん事物なのであろうが、いかに守護神であろうとも一人の意志ある生命体を好き勝手に――」
ベルヴラッドが探偵に向かって伸ばした手を、彼は咄嗟に払い除ける。その瞬間わずかにはっとしたものの、すぐ目の前の神格を睨みつけた。強く叩かれた手をさすりながら、ベルヴラッドは薄く笑む。
「よい、許す。この程度を無礼と咎めはせぬ。崇拝と信仰の根底には混沌と畏怖が潜むもの。人々は畏れながらも我らを崇め、その恩寵を求めて跪く。汝が神とそれに連なるものに対して抱く恐怖と不安は、人間が抱くものとして正当な感情だ」
「……いいか、私は、さっさと本題に入れと言っている。私も暇ではない、速やかに話を終わらせて消え失せろ。私は貴様とも、貴様の選んだ現身とも極力ならば関わり合いになりたくなどないのだ」
「そう憤るな。我は汝の気分を害すために顕現したのではないのだ。よかろう、本題だ。実は少々気にかかることがある。わが現身が地下に広がる空間の気配を察知し、この場所を特定したことは既に話してあるが、そもそも現身が地下に目をつけた理由と、速やかな位置の特定が可能となったのは偶然によるものではなく、外的要素によるものが大きかった――ということまでは、まだ告げておらなんだな」
探偵は腕を組んでベルヴラッドの話を聞いている。
「汝であれば既に勘付いているはずだが、この地下空間には複数、光属性の気配がある。数えて三つ。一つはおそらく獣の神性、あとのふたつは規模と質からして人型とみえる。ひとつは今にも消え入りそうなほどに気配が微弱だな。汝であれども感知できておらぬやもしれん」
「なぜ私が気付いていると?」
「日頃は現身が自らの意思で己の神気が表に出ぬよう押さえ込んでおるのだが――我々のような真なる神ともなれば、目にした誰もが、また直接目にせずとも、付近に存在する生命体は否応なくその神気を感じ取れる。だが神に準ずるまがいもの、ヒトの子らが光属性だの神獣だのと呼ぶ程度の存在となるとそうもいかぬ。当人が光の気配を隠匿する場合は殊更に見つけづらい」
ベルヴラッドは指を四本立てて見せる。
「離れた位置にある神気、あるいは光属性たる気配の感知が可能となる条件はおおまかに四つ。そのいずれかを満たすことで可能となる……今さら授けずとも、既に知った知識であろうが、あえて言おう。神格を得ていること、魔の境地に足を踏み入れたこと、獣の勘を有していること。そして……」
探偵はなにも言わない。
「沈黙か……白々しいな、観測者よ。ゆめ忘れるでない、神の御前であるぞ」
「私が――かつて神に触れられた存在だ、と?」
「あくまで認めないのだな。では聞こう、賢者よ。汝はこの世に生まれ落ちてから、いくつの齢を重ねてきた? ヒトの子にしては随分と長く生き、その姿を維持しているようだな。探偵――と名乗っておったか、ヒトの子らも汝をそう呼んでいる。だが、それは生まれたっての名ではなかろう。なぜ誰も汝の名に、立場に、齢や姿に疑問を抱かぬか。なぜ汝がそうも神格を厭うか。なぜ汝は真実を知り、真実を語る観測者なのか。……その真相も、すべてそこにある」
ベルヴラッドは椅子に腰掛けて続ける。
「寵愛を授かった者など見ればわかる。それを授けたかの女神は、汝が命を落とせば死後永久にその魂を己の膝元におくつもりだろう。ゆえにこそ、汝はまだ死ぬわけにはいかないのだろう」
「……こんなもの、好きで授かったのではない。寵愛などと笑わせてくれる」
「かの女神は我ら守護神と出自を同じくする、我らと同格の神だ。しかし、深淵に引きこもるばかりのあやつと目を合わせてしまうとは……汝は優秀だが、少々優秀すぎたようだな。おかげで厄介なものに目をつけられた」
「私にとっては貴様も十分すぎるほど厄介だ。かつて私をあのギルドに留まらせるために脅迫してきたことを、忘れたわけではなかろう。死をちらつかせれば、なんでも言うことを聞くと思って……」
探偵が初めてあのギルドと接触を果たした日。名を貸してほしい――というギルド側からの申し出に対し、探偵はまず当然のように断った。探偵にとって利益が少なく、考えるまでもなく切り捨てる程度の、それ以外に答えのない取るに足らぬ交渉だ。たしかに拠点がほしいと思ってはいたが、あの孤児院もどきだったギルドなど本来なら選択肢にもならない。
余計な面倒に巻き込まれてはかなわん。そう立ち去ろうとした探偵の前に、この風神は顕れた。神の啓示だ――そう言ってギルドの申し出を引き受けるようにささやかれ、それは探偵にとって生きるか死ぬかを選べという脅迫そのものだった。
「契機を与えたのは我だが、汝は十分に役割を果たした。もはやいつ旅立ってもよいものを、あの子らに絆され、今なおその場に留まり続ける決断を下したのは汝の意思であろう。……ふふ、無論忘れてなどおらぬ。そして当然、その勤労に見合う対価は授けるとも、わが現身は汝の働きを高く評価しておるからな」
「結構だ。神から賜るものなど、どうせろくなものではないのだからな」
「まあそう言うな、ヒトの子。これは寵愛ではなく神の慈悲だ。そうさな、かつては生命の危機をちらつかせたのだ、此度はその真逆といこう。深淵の女神が次に汝に手を伸ばした折には、わが権能を以てその手を振り払う。それでどうだ」
「……なにを企んでいる?」
「なにも。申したであろう、汝の日頃のおこないを見ての対価であり、その功労への褒美、見返りだ。遠慮せずともよい、これは汝の悲願であろう。わが現身の言葉を借りて言うなら――もらえるものはもらっておけ、ということだ」
探偵は疑いの目で睨みつける。ベルヴラッドは笑っている。本心がまるで読めない。
「神が直々に説得に参ったため仕方なく――それだけが理由であったとは思わぬが、それも含んで汝の意思であった。しかし、あのギルドに留まったその選択は間違いではなく僥倖であったと、汝がそう思えるよう取り計らおうというだけだ」




