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巣窟の女神  作者: 氷室冬彦
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19 宵の明星、明けの色彩

「よかった、よかった……よく頑張ったな、大変だったろう。無事に産まれて、本当によかった……」


「私たちの娘よ、あなた。さあ、ほら抱っこしてあげて」


「ほ、本当に大丈夫なのか? ど、どうすればいい」


「ふふ、大丈夫よ、怖がらないで。もうあなたはお父さんなんだから、今日だけじゃなくて、これからたくさんこの子を抱っこすることになるの。そうよ、こうやってここを手で支えて……」


「こ、これでいいのか?」


「不器用な人ね、でも初めてにしては上手よ」


「今は不器用でも、これからもっと上手になってみせるさ。……あっ、指を握った! 生まれたばかりなのに、こんなに力があるのか……見ろ、小さな手だなぁ……」


「これからどんどん大きく育っていくのよ、楽しみだわ」


「ああ……かわいいなぁ。子どもなんて――と前は言っていたが、すっかり考えが変わったよ。小さくて温かくて、こんなに愛おしいものだとは……」


「私たちはこれからこの子にいろんなことを教えていくの。でも同時に、この子からもいろんなことを教えてもらうのよ。いったいどんな子に育つかしら」


「きっとお前に似て、人を思いやれる、優しくて美しい子になるさ」


「あなたに似て、とても賢い子になるのかも」


「あはは、それなら両方に似てほしいなあ。賢くて優しい、とてもいい子になるぞ」


「うふふ、そうね。きっとそうだわ」


「ああ、そうだ。これからの家事の分担とか、いろいろ考えてきたんだ。俺はこれまでお前に頼りきりだったから、完璧にはできないかもしれないが……」


「あら、お仕事は大丈夫なの?」


「今は研究よりも家族を最優先すべきときだ。これからは俺も家事や育児に加わらないとな。この子は、俺とお前の子なんだから、二人で協力しよう」


「うれしいわ。今まで研究一筋だったあなたが、そこまで考えてくれてるなんて。でも大丈夫? あなた料理だってしたことないでしょう? カップ麺を作るのは調理と言いませんからね?」


「レ、レシピさえあればできるさ、料理は科学だ。お前ほどうまくできるかは、わからないが……基礎知識はインプットしてきたとも、あとは慣れだ」


「ふふ、それじゃあ、お手並み拝見といきましょうか」


「この子のためにも、俺もいろいろできなくちゃな。名前はもう決まったのか?」


「もちろん。この子の名前は、エイルよ」


「それは……俺が考えた名前じゃないか、本当にいいのか?」


「たしかに他の候補はひどかったし、あなたには名付けのセンスがないと思ったわ。でもこの名前だけはね、私も本当にいい名前だと思ったのよ」


「それはよかった。エイル……エイル、俺たちの天使だ。お前とこの子より大事なものなんて、きっと一生かかったって見つからないんだろうな」


「ええ、私たちの天使、私たちのなによりの宝物よ」


「……ありがとう、この子を産んでくれて」



「それって、本当にできることなの?」


「わからない。でもだからこそやるんだ。だって、もしこれが成功したらすごいことだろう?」


「そうね。非能力者は能力者に比べて力が弱いし、身体も弱い。でも、あなたの研究がもし成功すれば、私たちみたいに能力がない人でも丈夫な身体になれるわ」


「人間より聴力や視力のような基礎的な能力が優れている生き物はごまんといる。そういう人間以外の生物が持つ、人間より優れた点や、氷雪耐性、炎熱耐性などの耐性能力。そういった特性を生物から抽出し、あるいは人工的に作り、人体に付与することが可能になれば、人類はさらなる進化を遂げる」


「もしかしたら、人工的なものとはいえ、そこから能力が目覚めることもあるかもしれないわね」


「その可能性も、もちろんあるさ。そうなれば、もしどこかで危険なカルセットに出くわすことがあったとして、その場を無事にやりすごせるようになれるんだ。能力の覚醒まではできなくても、なにかしらの耐性があるのとないのとでは、それだけでも全然違う」


「能力者じゃない私たちは、いつもカルセットに怯えているしかないものね。カルセットに出会えば、その先に待っているのは理不尽な死だけですもの」


「町にいる間はカルセットに出会うこともない。それでも、町はずれで子どもが襲われたとか、誰かが亡くなった話もときどき聞くだろう? 人里を襲いにくるカルセットだっていないわけじゃない。そんな不運に見舞われる確率はそう低くない」


「ええ、そうね。自分がそんな目にあうかもって思うだけでも恐ろしいのに、もしエイルがそんな目にあってしまったらと思うと、震えが止まらないわ」


「きっと方法を導き出してみせるさ、他の研究者たちからどんなに否定されようとも。……なー、エイル。そうすれば、もーっと丈夫になれるもんなー」


「もう、ふふ、エイルには難しすぎるわよ。ねー、エイル。ほーら、ママですよー」


「うー、……あう、まー、ま」


「あっ! 今、ママって言ったわ!」


「本当だ! エイル、エイルー、パパだぞ、パパ、言ってごらん?」


「まー、あー、あうー」


「うーん、パパはまだ難しいかなあ……」


「うふふ、拗ねないで、すぐに言えるようになるわよ」



「パパー、パパのおしごとはなにするの?」


「んー? パパのお仕事はね、動物やカルセットの……あー、なんて言えばわかりやすいかなあ。たとえば鳥さんの中にはね、エイルよりずーっと遠くにあるものを見れるほど目がいい鳥さんがいるんだ」


「そうなの?」


「そうだよ、この図鑑の……ほら、このトカゲさんは熱さに強くて、こっちのふわふわの熊さんみたいなのは寒さに強いんだ。もしエイルが熱いのも寒いのもへっちゃらになれば、この前みたいにお湯で手を火傷しなくなるし、冬もお外でずっと雪遊びできるようになるだろう?」


「エイル、雪遊びしたい!」


「うんうん、エイルがおっきな雪だるまを作っても手がカチコチにならないように、どうすればそんなふうになれるかを研究するのが、パパのお仕事だよ」


「けんきゅう?」


「たくさん勉強して、いろんなことを試してみて、どうすればやりたいことを本当にできるかを調べるんだよ。エイルだって昨日、綺麗な泥団子を作るためにいろんな作り方を考えて試してみただろう?」


「じゃあエイルの泥団子も、けんきゅう?」


「そうだね、泥団子の研究だよ。パパもね、いろんな動物を集めて調べて、いろんな方法を探して研究しているんだ」


「パパのおしごとのとこ、動物がいるの?」


「そうだね、いろんな動物がいるよ」


「ウサちゃんは?」


「うーん、ウサちゃんじゃないけど、ウサちゃんに似てる動物はいるよ」


「エイル、見たい!」


「お、それじゃあ、パパの研究所に来てみるかい?」


「うん、行く!」


「ちょっと、本当に大丈夫なの? 研究所にはカルセットだっているんでしょ?」


「危険なカルセットは上層の牢屋に隔離してあるし、研究所には無害なカルセットや小さな草食動物もいる。最下層にいるのはそういう安全な生き物ばかりだから大丈夫だよ」


「そうなの? うーん、じゃあ念のため私も一緒についていくわね。二人でなら目を離すこともないでしょうし」


「あれ、意外だな。てっきり、もっと反対するものかと……」


「あなたが大丈夫だって言うんだもの、信じるわ。それに動物との触れ合いも子どもの教育には必要でしょう? この子には、動物を慈しめる心の豊かな子になってほしいもの」


「そうか、よし。それじゃあ餌やりができるように野菜を用意しておこうか」


「やったー! 動物園みたい!」



「今日はどうだった? エイル、楽しかったか?」


「うん! たのしかった! パパ、また遊びに行ってもいい?」


「いいとも、でもそのときはちゃんとママと一緒にな」


「エイルったら、すっかりあなたの研究所が気に入ったみたい。でも安心したわ、思ってたより管理のしっかりしてるところで」


「安全面には常に気を配っているさ、そうでなきゃ俺も他の研究員たちも不安で仕事どころじゃないからね。うちはたしかに人手が少ないけど、その分被検体の管理には細心の注意を払っているさ。それに研究員の中には戦闘経験のある能力者もいるからな」


「もしかしたら、エイルも生物学に興味を持つかもしれないわね」


「はは、将来は俺と一緒になにかの研究に打ち込む日がやってくるかもしれないな」


「かもしれないわね。さ、エイル、もうすぐご飯よ。手を洗っていらっしゃい」


「はーい」


「……ねえ、あなた。昨日の話、ちゃんと覚えてる?」


「ああ、もうすぐエイルの誕生日だ。プレゼントはなにがいいかな? ケーキも予約しておかないと」



「もしもし、俺だ。どうかしたのか?」


『あなた、そっちにエイルが行ってない?』


「え? いや、来ていないぞ。なにかあったのか?」


『それが……ちゃんと部屋の片付けをするように叱ったら、家を出て行っちゃって。エイルがよく行く公園とか、あちこち捜したんだけど見つからないの。もしかしてあなたの研究所に行ったんじゃないかと思って……』


「なんだって? いったいどこに……俺も捜しに行こう」


『そっちに向かってる最中なのかもしれないから、あなたは研究所にいて、もしあの子が来たら連絡してちょうだい。私はもう一度エイルが行きそうなところを捜してみるわ。もしかしたらお友達の家に行ってるのかもしれないし』


「わ、わかった。迷子になってないといいが……」


『せっかくの誕生日なのに、ちょっと叱りすぎちゃったかしら……』


「あの子のためを思うからこそ、厳しく叱ることもある。エイルは賢い子だ、きっとわかってくれるさ」


『そう……そうね。それじゃあ、見つかったらすぐに連絡するわ』


「ああ」


……。


「そういえば、妻子持ちの研究員が何人かいたな。こういうときはどう対処していたのか、話を聞いてみるか……」


「所長、いらっしゃいますか!」


「ああ、私はここだ。どうかしたのか」


「大変です、隔離していた危険指定のカルセット、一角狼三頭が脱走しました!」


「な、なんだと!? いったいなにがあったんだ」


「監視カメラの映像をチェックしていた警備担当員が、牢の中のカメラの向きがズレていることに気付いて修正に向かったらしく……」


「一人でか?」


「いえ。二人一組で、睡眠薬入りの餌を使うつもりが、牢のカルセットは眠っていたらしく。カメラの向きを少し変えるだけですから、すぐに済むだろうと中に入ったところを襲われて……」


「一角狼は人間並みの知能を持ったカルセットだぞ! 牢に入る際は必ず睡眠薬を使って眠らせろとマニュアルにも書いてあるというのに!」


「げ、現在は隔離区域にいるようです。警備担当員一名と清掃員二名、研究員四名の死亡が確認されています。いかがしましょう」


「防護服に着替えて麻酔銃の準備だ、これ以上被害を出すな!」


「はい!」



「一角狼、二頭目の沈黙を確認! 残り一頭です!」


「いいぞ、一角狼は睡眠時に耳が横を向く。よく確認してから運ぶように!」


「所長!」


「どうした」


「下層への扉が破壊されています! 一角狼が破壊し、侵入したものと思われます」


「よし、なら私が向かう。お前たちは医務室で手当てを」


「お一人で向かわれるおつもりですか?」


「下は構造が単純だし、お前たちは皆怪我をしている。血の匂いでこちらの居場所を嗅ぎつけられるリスクがある以上、大勢で向かうのはかえって危険だ」


「で、ですが……」


「おいおい、もともとあの一角狼たちを捕獲したのは私なんだぞ、あいつらの動きの癖は知り尽くしているさ。大丈夫、私を信じなさい。お前たちをこれ以上危険な目に晒しはしない。私が責任を持って捕縛しよう」


「所長……」



「一角狼がここに侵入したのは、最初に捕獲され、研究所に搬入された場所を覚えていたからだ。真っ先に最下層に向かっただろう」


「だが一角狼には昇降機を動かせない。解決策を探し、やつは昇降機の付近をうろついているはずだ」


「捜している間は常に麻酔銃を腰元で構え、発見しても急には動かず、決して目を離さずゆっくり歩き、銃は決して動かさず、狙いを定めていることを悟らせてはいけない」


「やつらは賢い。だが、止まっているものには疎い。一角狼に遭遇した際にもっとも重要なのは、急な動きを見せないこと。私はそれを知っている。大丈夫、大丈夫、うまくいくさ……」


「! 見つけた……よし、まだこちらに気付いていない。今のうちに……」


「パパ?」


「エ――エイル?」


「パパ!」


「だ、ダメだエイル! 動くんじゃない!」


「え――?」


「ダメだ! やめろおおおおお!!」


「キャアアアアアッ!」


「このッ、この! ケダモノが、離れろ! エイル、エイルッ!」


「……あ、ァ……いだ、……ぃ、たい……ぱぱ……」


「そんな、そんな……エイル! くそっ、すぐに手当てを……そうだ、内線が……誰か! おい、誰か来てくれ! 娘が!」


「ぱぱ……」


「エイル、ああ、エイル……! 痛いだろう、痛いよな、ごめんな。すぐに助ける、絶対に助かるから耐えてくれ!」


「ま、ま……ごめ……なさ……」


「……エイル?」


「――――」


「エイル……嘘だ、嘘だと言ってくれ……」



「……そんなに自分を責めないで、決してあなたが悪いわけじゃないのよ。私だって、あの子をすぐに見つけられなかった。あの子のことは、きっと誰が悪いわけじゃないの。不幸な事故だった」


「でも、ごめんなさい。この家にいると……あなたといると、どうしてもあの子を思い出してしまって、苦しくて仕方がないの」


「……さようなら」



「おやおや、お気の毒に。娘さんを亡くし、奥様にも見放され、唯一の拠り所になり得た研究所さえ閉じてしまい、来る日も来る日も酒に溺れるだけ。幸せとは脆く儚いものです、そう思いませんか」


「……誰だ、お前は」


「僕は鍵師、アンロックと申します。君のような才ある人間が堕ちていく姿を心苦しく思い、参上しました」


「帰ってくれ、宗教勧誘ならお断りだ」


「勧誘だなんて、とんでもない。ただ君を救いたい。僕は神を崇める者ではなく、僕こそが神なのだから」


「帰ってくれ!」


「娘さんを取り戻す方法がある――と言ったら、君は信じますか?」


「……なんだと?」


「できるはずがない、不可能だと、そうお思いですね? その不可能を可能にする方法があるとしたら、君は……どうします?」


「バカバカしい、死者を蘇らせる方法なんてあるわけが……」


「では信じないと」


「信じられるわけがないだろう、そんなおとぎ話みたいな……」


「……」


「……本当に、できるのか?」



「こ、これは……本当に、合成獣キメラが出来上がったのか……!」


「ええ、僕は嘘などつきませんとも。どうですか? 既にお話ししたとおりです、これを応用すれば、きっと……」


「娘を……エイルを、取り戻すことができる……」


「そのとおり。それは決して簡単な道のりではないでしょう。あらゆる素材、あらゆる方法を用いておこなう、とても難しく孤独な研究になる。それでも、成功した際の見返りは計り知れない」


「あなたは……あなたは本当に神なのか……いや、疑うまでもない、あなたこそが……」


「そして娘さんが戻ってくれば、きっと奥様も君のもとへ戻ってきてくれるでしょう。幸せな暮らしを取り戻すことができるのです」


「ああ……アンロック様……」


「君は神に選ばれました。励みなさい」



「違う……違う……こんなクリーチャーではダメだ。あらゆる魔獣や野獣をかけ合わせてみたが、ヒトの形に近付けることはできても、これでは決してヒトにはならない……」


「エイルはもっと可憐で美しい。天から舞い降りた天使のように、まるで本物の女神のように……」


合成獣キメラたちは放っておくと数日で死ぬ。エイルがそんな短命であっていいはずがない」


「短命の克服……あとは、丈夫で強く、あらゆる耐性を持っている。もう二度とあんな目にあわないような身体を……」


「……神獣と、人間か」



「こんにちは、懸命に励んでいますね」


「アンロック様……!」


「近くに用があったので寄らせてもらいましたよ。順調のようでなにより」


「まだまだ思うような成果は出せていませんが……」


「いいえ、失敗は成功の基、君は何度でも失敗してよいのです。失敗に失敗を重ね、大切なのはそこから多くを学ぶこと。その先にこそ成功はあるのです。道は険しくとも、君は正しく前進しています」


「おお、わが神……ありがたきお言葉……」


「おや、人間も扱うようになったのですね、よい進展です」


「本当は神獣を使った実験もおこないたいのですが、これがなかなか……」


「普通であれば捕縛は困難を極めるでしょうね。しかし、それらの居場所が、そしてそれを捕縛するにはどうすればいいのかも、君にはわかるはず。ええ、僕に選ばれたのですからね」



「供物、ですか」


「はい、アンロック様。娘の不幸から塞ぎ込んでいた私をお救いくださったあなた様に、どうしてもご恩返しがしたいのです。私のようなちっぽけな人間がご用意できるものなど限られていますが……わが神、アンロック様、どうか畏れ多くも供物を献上することをお許しください」


「ふむ、なるほど。僕は見返りを求めて君を救ったのではありませんが……ええ、君がそこまで言うならば、いいでしょう」


「では、なにをご用意いたしましょう。なんなりとお申し付けください」


「そうですね、では……はい、君が生み出した合成獣キメラを使いましょうか」


合成獣キメラを?」


「材料の獣たちは別として、君は失敗作である合成獣キメラたちを上の階層に放逐していますね、そこに人間を連れてきなさい。そうすることによって、ええ、僕の仕事の効率があがって楽になる」


「アンロック様のお仕事……?」


「己に課した使命と言ってもいいでしょう。つまり――そうすることによって、君はより直接的に僕の役に立てるということです」


「おお……おお……アンロック様のお役に……」


「わかりましたね? では、人間たちを君の動物園に招待しなさい。それから監視カメラの量を増やしましょう。そちらは急ぎませんので、今すぐでなくてもかまいません。なにしろ大変な作業ですからね」


「仰せのままに、わが神……!」



「神獣の羽根や毛から遺伝子情報を抽出し、それを使って何度か実験を重ねたが……どうしたものか」


「捕縛できた神獣はこの一頭のみ。一回きりの実験で使い潰すには惜しい……」


「そういえば、あの神獣には雌雄の概念が定着しているようだったな。生物としては雄で間違いない」


「合成素材として集めた人間を使って新たな発見がないか……女が一人残っていたからには試してみる価値はあるだろう。最悪でも餌くらいにはなる」


『ひっ、あ、ああああっ! いや、いやよっこないで!』


『いやっ! いやあああっやめてえええ!! 誰かっ誰かあ! 誰か助けてええ!!』


「今までは静かなものだったから気にならなかったが、やはりあの部屋のカメラにマイク機能は蛇足だったか」


「生殖機能を持つ神獣の交尾の時期や回数についてはどの書物にも記述がないからな……いくら雌とはいえ人間に反応を示すかどうかもイチかバチだが、存外うまくいっているようだ」


「……ん? 女が動かなくなった。うーむ、やはり神獣の相手をするのに人の身では負担が大きいか……喰う気配もない。仕方ない、こちらで回収して処分するか」


「……なんだ、妙だな、女の腹がぼんやりと光っているような……」


「……!」


「……信じられない、まさに生命の神秘だ。まさか神獣とまぐわって息絶えた女の……子宮だけが脈打っているだと? 生きて……いる、のか? すごい……これはすごいことだぞ、すぐに摘出して培養槽に移植し経過を見よう」



「あれから数か月……摘出した臓器の表面を覆うように新たな外皮が生成されて、段々繭のようになってきたな、それにどんどん大きくなっていく。まるでこれ自体がひとつの生き物のようだ……」


「サーモグラフィーで見ても人型の生物が内部に確認できる。これは期待できそうだぞ」


「! 繭に亀裂が……まさか、産まれるのか!」


「こ、これは……人? いや、獣……なのか? ほんの微弱なものだが神獣の神気を受け継いでいる……」


「しかし、エイル……ではない」


「これではダメだ……だが、もっと改善すれば、この方法なら、もしかすると……」



「どうしてお前はいつもそうなんだ! こんな簡単なことすら満足にできない失敗作が!」


「今まで育ててやった私への恩を仇で返すばかりだ、少しは役に立ってみろ、この役立たず!」


「ノロマなグズめ! なんとか言ったらどうなんだ!」


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


「それしか言えないのか、この穀潰し! ええい、邪魔だッ! なんの役にも立たないなら、せめて私の邪魔にならないところでじっとしていろ!」


「……はい」


「ああ、クソッ! なぜだ……なぜうまくいかないんだ。前回の成功例と条件は同じ……いや、それ以上の手を尽くしているというのに……おい、聞こえなかったのか。さっさとどけ、邪魔だ!」


「ダメだダメだ、全然ダメだ!」


「エイルはもっと可憐だった。エイルはもっと小さかった。エイルはもっと……」


「誕生から今でも生存している唯一の個体がアレだ。役立たずでも貴重なサンプル、まだ捨てるわけにはいかない……だがどうすればいい。どうすればあの子を取り戻せるんだ」


「同じ方法を何度か試してみたが、アレ以上の成果が出ない……いったいなにがダメなんだ。一人は女が孕まず死んだ。一人は繭の中で死んだ。一人は産まれて数日で死んだ。運良く生き残ったのはあいつだけ……なにが違うというんだ……」


「母体が脆弱すぎるのか? そう思って人間五十人強を使って強大な母体を生み出したものの、あれはてんで役に立たなかった……」


「ああ、神よ……神よ……」


「エイル……俺たちの宝……俺たちの天使……」


「……」


「俺たちの、天使……」


「ああ……そうだった。エイルは俺たちの天使……なら、エイルを産み出すための母体にふさわしいのは……」


「一人しかいないじゃないか」



「は、はは……やはり、やはりそうだ! 私の考えは間違っていなかった! 繭の中からでもひしひしと伝わってくる神気! 私が求めていたものだ!」


「繭にヒビが入った! 頼む、今度こそ……」


「お……おお……おお!」


「やった……やったぞ! ついに成功だ!」


「間違いない……これこそが私が追い求めていた理想そのもの……ここまで本当に長かった。ようやく私の努力が報われる日がきたのだ!」


「……あの」


「ん? ……なんだお前か。私は忙しいんだ、邪魔をするんじゃない。向こうでじっとしていろ」


「はい」


「……貴重なサンプルだったとはいえ所詮あいつは失敗作。実験が成功した以上、もう用済みだな。まあ、どうせ傍においても役に立たない欠陥品だ、近日中に処分するか」


「今はそれよりもこの子を……」


「ああ、エイル……この姿はまさにエイルそのものだ……やっと、やっとこのときがきたのか……」


「俺たちのエイルは女神となって生まれ変わったんだ」


「エイル、今度こそお前を幸せにするからな……今度こそ、パパがお前を守るからな……もうあんな怖い目にはあわせない、もうあんな痛い思いはしなくていいんだよ」


「……エイル?」


「……」


「……なん、だ……なんだ、その目は……」


「や、やめろ……エイル、やめなさい、どうしてそんな……そんな目で俺を見るんだ!」


「見るな! 俺を見るなッ!」


「そんな目はエイルじゃない!」


「そんな目で俺を見るな!」



*



「娘を喪い、妻との別離、邪神に魅入られ、すべてを投げ打って娘を取り戻すための研究を始めた。お前の行動原理、欲望パンドラに起因するもの。お前の人生における至高の宝。そして、お前が失ったもの。たった一人の娘、エイルに関する記憶のすべて。たしかにいただいた」


意識をなくし崩れ落ちた男を前に、フィストは冷えた声でそう告げた。


「忘れられる苦しみを味わう者は既にこの世にいない。あとはお前が、忘れてしまった苦しみを味わうだけだ」


この男からエイルの記憶を奪うということ――それは彼の人生の中でも、もっとも輝かしく充実していた日々を奪うということ。彼が犯した罪の動機を忘却させたということ。そしてエイルの復活は彼の欲望パンドラに他ならず、彼はそれすらも忘却する。箱の中身を忘れてしまえば、そこから得られた力も失う。


胸の中に穴が空いたような虚無感と、なにか大事なものを亡くした喪失感。とても大切なことを忘れてしまっている予感がするというのに、なにを忘れてしまっているのか思い出すことができない。彼はこれから自分がしたことの意味を理解しながら、なぜ自分がこのような行動に出たのか、どのような方法で合成獣キメラを生みだしていたのか。すべての根本をなにひとつとして理解できないまま、思い出すこともできず、それでも自分自身が犯した罪の意識に苛まれることになるのだ。


その一生の苦しみが、フィストの下した復讐だ。

次回最終話です。明日の十三時に間に合わせます。

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