0 忍び寄る影に拮抗する
東大陸の南西部に位置するスーリガ国。港を出てしばらく北東に進んだ先に広がる、やや人里離れた林の中。ほどほどに管理された雑木林を小路に沿って歩いた先に水無月邸はある。土の上に散見される小動物の足跡が、ここに危険なカルセットが生息していないことを示していた。小鳥のさえずりと枯れ葉を踏みしめる己の足音だけが響き、あたりは静かだ。
短く整えた茶髪に、いまいち感情の乗りづらい瞳。左の頬には目の下から口元にかけて大きな一本の傷痕が残っている。白いワイシャツの胸ポケットにはいつも一本のペンが挿してあり、今日このときもまたいつものとおりである。雷坂郁夜は南大陸のロワリアギルドに所属するギルド員でありロワリア支部の副支部長で、支部長――もといギルド長の補佐でもあるような存在だ。ギルドなどと名乗ってはいるが、要はあらゆる依頼を受けては解決していくなんでも屋のような組織で、便宜上の都合でロワリア支部と呼んでいるものの、その他に支部があるのかと言われると素直に頷けないのが実情だ。
ギルドの本拠地であるロワリア国は三つの領土から成り立っており、まず国の中心地であり心臓部であるロワリアと、建国直後にロワリア国の傘下となった亡国リワン。そしてもとよりロワリアの領地であるラウ。ロワリアは一日で横断できるほどに小さな国で、ラウは最西端の海沿いにあるさらに小さな村だ。ラウの領主が管理する小屋の地下にはロワリア支部――もとい、ギルド本部で保管しきれなくなった資料などが大量に保管されているので、そこをラウ支部と呼ぶこともある。
ロワリア支部はつまりギルド本部。ラウ支部は資料保管庫。ではリワン支部はあるのかという話だが、たしかにないと言えば嘘になってしまうだろう。だがその存在はラウ支部よりもいい加減で、非常に概念的な存在でしかないのだ。それはギルドの外部協力者たちのことを指していて、そういった人々のことをリワン支部、あるいはその人員と呼ぶ。正式なギルド員ではないし明確な名簿が存在するわけでもなく、組織内でのみ用いられる隠語ということで納得できなくもないが、正直、ラウ支部もリワン支部もなんとなくで呼んでいるだけなので、別段その呼び名に深い意味はない。ギルドに属する全員がその存在――というよりその呼び名の意味を知っているのかというと、知らない者もいるだろう。知っていなければならないことでもない。誰かが言い始めたのをおもしろがった、別の誰かが使い続けているだけだ。かくいう郁夜もその名称を便利に思って使い続けている一人である。
郁夜が水無月邸に向かっている理由は他でもなく、そのリワン支部の面々に会いに行くためだった。水無月邸の主、水無月水晶と妹の翡翠雫希。そして屋敷での雑用や用心棒などを請け負っている住み込みの使用人、双子の兄弟である不知火三月と善丸。水無月邸に住むのはその四人で、用があるのは屋敷の主であり不知火の雇い主でもある水晶だ。
ギルドから仕事を都合しているのは専ら三月と善丸で、二人は水無月邸で働く傍ら、リワン支部の人員として小遣い稼ぎ程度にこちらの仕事を受けて任務へ出ることがある。他のギルド員たちとの合同だったり、その二人だけ、あるいは単独での任務も引き受ける。ギルド員の多くは二十歳すら迎えていない幼い少年少女たちばかりなので、彼らに任せられないような危険な任務は二人――というよりリワン支部――にまわされることが多い。
元は水無月邸の使いである二人を駆り出すには、二人の雇い主である水晶に話を通す。今回、水晶への用は二人の仕事についての話をするためでもあるのだが、本題はそこではなかった。
十年前か、九年前か、そのくらいの時分から長く郁夜たちと同じ組織に所属する、探偵という男がいる。名の通りに探偵業を生業としている男で、なにかと謎は多いが信頼できる人物だ。ギルドの設立は今からきっかり十年前のこと。当時はギルド長の來坂礼も郁夜も、まだほんの十歳程度の幼子だった。ほんの数人の子どもしかいない組織に依頼など来るわけがなく、創立直後のギルドはただの孤児院と化し、組織として機能していない状態にあったのだ。なので、ひとまず組織の責任者、あるいはスポンサーとして、世間への影響力がある人々の名前を借り受けることにした。探偵はその交渉に応じた一人だ。
かの有名な名探偵。頭脳明晰、正義感があり悪辣非道。足癖も口癖も態度も悪いが実力は疑いようもなく本物の、なぜか嫌いになれない毒舌探偵。あの探偵が監督し、支持しているうえ所属までしている組織ならば信用に足る――と。しばらくは彼のネームバリューを提供してもらっていた。代わりにギルドは彼専用の事務所と私室など、衣食住を十全に整え、彼の望むあらゆるものを用意した。
とはいえ、あれは欲のない男だった。物資や金品で機嫌をとろうというわけではないが、探偵が自分の名前を商売に利用されてもいいと納得するような取引の落としどころを探しても、彼が要求するのは静かな部屋と質のいい紅茶とやわらかな寝具くらいのもので、なぜそれだけでギルドの肩を持つことにしたのかは謎であるし、礼と郁夜が責任者として認められる年齢になり、ギルドの運営が軌道に乗って安定している今もなおギルドに留まってくれている理由も謎だ。
そもそも彼はギルドに来る前は世界のあちこちを転々としながら、行く先々で遭遇した事件を解決しては去っていく謎多き名探偵だった。いや、謎が多いこと自体は今も変わりはないのだが、どこかに留まらなくてもやっていけるだけの実力と知名度が既にあったのだ。当時もなぜ交渉に応じてくれたのかを尋ねてみたことがあるのだが、郁夜の問いに対し彼は、そろそろ拠点を決めて活動したいと思っていたからだと答えた。たしかにそれも理由のひとつではあったのだろう、彼は真実を語る者だ。だが、たったそれだけで組織とも呼べない孤児院もどきを選ぶだろうか? 彼がなにを考えているのか予想すらつかないが、ひとつ予想できることがあるとすれば、今一度同じことを問いかけてもはぐらかされるのが関の山ということくらいだ。
とにかく、その謎多き探偵が先日ギルド員たちを会議室に集めて、とある情報を開示した。彼が大々的になにかを訴えることというのは初めてで、以前にも既に何人かのギルド員には警告じみた忠告をしていたのだが、その段階ではまだ雲をつかむように曖昧な話であったものが、いよいよ真相が眼前に見えてきたらしい。そもそも彼がそういった曖昧ではっきりしない段階の話を他人にもらすこと自体が、まず異常だったのだ。つまり彼がそうしなければならないほどに重要な話だという意味で、確信をもって話せる段階となった今、それがどんなに突拍子のない話であろうとも、彼からの言葉は誰の耳にもまっすぐに届いたことだろう。
これまでにギルドが解決してきた事件の中には、あきらかにその他多くの事件とは違う異質な事件が混ざっていることがあった。この時点で既に漠然とした話になってしまっているのだが、それだけなら別段気にするほどのことはなかっただろうし、正直、具体例を挙げてもピンとこない者も多かった。無理もない。しかしそれらは何者かによって誘発された事件であり、そして事件には『鍵』が関係していると。とにかく『鍵』に気を付けるように、そんな話を聞いたということだけでも記憶に留めておくように。――そこまでが以前に探偵から聞いた話だ。
「……誰だ」
立ち止まり、前を向いたまま鋭く投げかける。うしろか、違う。左か、違う。前ではない。では右か。そっと左胸に手を添えながら、目だけで右側の茂みを確認する。パキ、と小枝の折れる音がした。耳をそばだて、集中して気配を探る。三月と善丸のどちらかである可能性も疑ったが、あの二人に郁夜のあとをつける理由などない。
「――待った。……すまない、郁夜、俺だ」
現れたのは、鬼だった。
灰色の肌に尖った耳。額に生えた黒い角は二本あったうちの一本が根本から折れているようだ。紫の髪を後頭部の耳の高さでひとつにまとめ、鋭く吊り上がった緑の目は、白目の部分が黒く変色している。草木のような色の装束から覗く長い手足には、肌を隠すように白い布を巻き付け、その足は靴を履いておらず、ほぼ裸足の状態だ。
夢喰い鬼、フィストティリア。彼もまたリワン支部の人間と言える存在だ。ギルドとは数年来の付き合いで、頻繁には会えないものの彼の穏やかな人となりを気に入っているギルド員は多い。意外な相手が現れたことに郁夜はひどくおどろいたが、その表情にはあまり変化がない。顔に出にくい性質なのだ。
「フィスト……」
「久しい――と言うほどでもないか。おどろかせるつもりは……あったのだが……その前に気付かれてしまったな。さすがだ」
「おどかすつもりだったのかよ」
「森に入ってすぐにお前の姿を見て、せっかくなのでそっと近付いて……いや、すまん、忘れてくれ。思いがけない再会だったもので、つい年甲斐もなく……」
フィストは恥ずかしそうに俯いた。つまり嬉しくなってはしゃいでしまったということだ。それが許されないほどの疎遠な仲ではないので謝る必要もないのだが。ごほん、と咳払いして彼は顔を上げる。
「水晶たちのところへ行くのか?」
「ああ、そうだ。……なんだ、あいつらと知り合いだったのか。ここにいるってことは、お前もそうなんだろう。なにかあいつらに用事でもあったのか」
「そうだな、用と呼べるほどのことではない。義理を果たしにきたと言うべきか……あの屋敷には以前、世話になってな。別れの際にまた会いに来てほしいと言われてしまって、言われるがままに何度か通っているのだが……」
「言われてしまった、って。言われたくなかったのか」
郁夜からの少々意地の悪い問いに、フィストは激しく首を横に振った。
「いや! それは違う。決してそんなことはない、嬉しいとも。ただ、その……なんと言えばいいのか……まさか俺のような者が、そんなことを言ってもらえるとは思っていなかったので、こう、胸のあたりがむず痒くてな。すまん、ひねくれた言い方をした」
ひねくれてなどいるものか、彼は誰よりも純粋だ。なのでこうしてからかうと少し悪いことをしたような気になってくる。
「まあ、行き先が一緒ならあえて別々に歩く必要もないな。ちょうどお前にも話しておきたいことがあったんだ。来てくれ」
フィストの肩を軽く叩いて、郁夜が歩き出す。彼も隣に並んでついてきた。
「話しておきたいこと、とは?」
「あとで水晶にも同じ話をするつもりなんだが……まあいいか。探偵じゃあるまいし、もったいぶる理由もない。……実はその探偵からの伝言というか、警告というか。少しばかり厄介なことになってきてるみたいで、それを水晶たちにも伝えておきたかったってわけだ」
「厄介なこと」
「ああ。この頃、世界各所で奇妙な事件が増えてきているんだ。それはつい最近始まったわけじゃなく、おそらくもう何年も前から起きていた。セリナでは街なかにカルセットの巣ができたり、セレイアでは正体も原因も不明の妙な現象が起きたり、ロワリアやレスペル、その他の周辺国でもそれらしい事象が観測されている。……というところまでが、以前に探偵から聞かされていた話だ」
「奇妙な事件……それはもしかして、『鍵』と関係のある話なのか?」
「なんだ、知ってるのか」
「いいや。ただ、俺が最後にギルドを訪れた際、柴闇たちの仕事を少しばかり手伝ったのだが、そのときに柴闇と龍華が『鍵』がどうとか話していたのだ。詳細ははぐらかされてしまったが、以降その言葉がなんとなく引っかかっていてな」
「なるほど、あのときの……まさしくその『鍵』の件だ。それらの事件はすべて、とある人物の手引きしたものだった。……光属性については説明しなくてもわかってるよな?」
「神格を宿した生命体。属性能力のひとつとして名を知られてはいるものの、一般的なそれらとは乖離した存在。神の一種とも呼べる生物だな。神話の時代では多数生息していたことが確認されているが、現代では著しく減少したと……まさか」
「ああ、黒幕の正体は光属性、『鍵』の権能を持つ邪神だ。俺が直接会ったわけじゃないが、探偵いわく痩せ細った二人の子どもを手下に引き連れていて、髪も服も左右非対称な奇異な格好で、男か女かもわからない出で立ちだそうだ」
「その『鍵』の権能とは?」
「探偵の話によると、知的生命体と呼べるすべての個体は、無意識下に抑制した欲望の核を内に秘めていて、それはいわゆる禁断の箱だ。邪神は『鍵』によってその箱を開錠し、その中身を開放することができる……らしい。俺にもまだよくわからんが、それがとんでもないことだっていうのはわかる」
「……極端な例えだが、つまり無意識に殺人願望を抱いている人間がその邪神に遭遇して箱の中身を暴かれてしまえば、ただひたすらに殺戮を繰り返す存在に成り果ててしまう、ということか?」
「しかもそれだけじゃない。その箱を開けるってのは欲望の枷が消えるのと同じ。つまり理性を捨て、それは人間性を捨てるのと同義。その過程で新たな力を得るが、箱の中身に呑み込まれれば、多くの場合は本来の形を保っていることすらできなくなる」
「本来の形を失う……」
フィストはなにかを思い出したように、そっと目を伏せた。
「……なるほど。異形に成り果て、欲望に呑まれ、やがてその理由すらも見失う。愚かで哀れな末路だ」
「先に言ってあったとおり、鍵師が起こしたであろう事象はあちこちで確認されてる。お前たちも無関係でいられなくなるときが来るかもしれないから、そうなる前に少しでも情報を共有しておきたかったんだ。なんせ、そいつらはいずれギルドに目をつけるはずだってのも、探偵からの話なんだ」
「ああ、聞かせてくれてありがとう。俺個人でも調べてみるとしよう。なにかわかったことがあれば、すぐにギルドへ報告に行く」
「それは助かるが無理はすんなよ。相手は人間じゃないし、ましてカルセットでもないからな。まともに相手をしても敵わない。それに手下の二人もなにかしらの力を授かってるはずだから、もしどこかで目撃するようなことがあっても手は出さないほうがいい」
「神格生物には他者に寵愛や加護や神罰を付与する力があるからな。その黒幕が神としてどれほどの格を持つのかはさておき、手下たちがその加護を受けているならば、おそらく並の人間では一人を相手取るだけでも手こずるだろう。わかっている、無茶なことはしないとも」
郁夜は少しの間を空けて、確認するようにフィストを覗き込む。
「なあ、お前が礼を占ったときに凶が出たっていうのは……」
「……急な来客に注意。礼は俺の忠告に従ってくれているだろうか?」
「探偵にこの話を聞かされてからはとくにな、しばらく眼鏡をかけた姿は見てないぜ。そのあたりは心配ない」
「そうか。引き続き気を付けるように言っておいてくれ」
「わかった、伝えておく」
大きく開けた場所に出る。広々とした敷地を囲む大きな柵の向こうには、これまた広々とした庭園が広がっており、奥には大きな屋敷が見える。ここが水無月邸だ。外界に面している柵に沿うよう植えられた花はケモノナシという特殊な花で、この花の香りには魔獣や野獣を追い払う効果がある。人里離れた場所にある一軒家や、森や山に近い小さな集落などでの生活には必需品と言えるだろう。
大きな正門を開いて中に入る。フィストは門――というより門にある呼び鈴――と郁夜を交互に見ながら、戸惑いがちについてくる。
「いいのか? 知り合いの屋敷とはいえ、勝手に入ってしまって」
「今日ここに俺が来ることは水晶たちも知ってるし、そもそも、あいつらがそれでいいって言い出したんだ」
「そうなのか」
庭の中ほどまで歩いていくと噴水の傍に広い花壇が見え、その柵の内側に屈んでいる人影が見えた。金の前髪に対し、こめかみのあたりからうしろは黒く、長く量のある髪をうしろで束ねている。細長い脚。七分丈のシャツの袖からは黒い手甲が覗き、男は人の気配に振り返ると、郁夜とフィストに濡れた手を振った。よく見るとシャツに水のシミができており、足もとにはスプリンクラーがある。
「善丸、水晶はいるか」
不知火善丸は立ち上がりながらシャツの裾をしぼっって、ぽたぽたと雫を落としながら花壇から出た。
「久しぶり、郁夜。水晶さんなら部屋にいると思うけど、俺も中に戻るつもりだったし案内するよ」
「おう、頼む」
「フィーさん、また会えてうれしいよ」
「俺もだ。なんの連絡もなく、いきなり来てしまって迷惑ではなかっただろうか」
「そんなことないさ。フィストがいれば三ちゃんと水晶さんも喜ぶだろうし、しーちゃんも会いたがってたから」
「ならいいのだが……ところで、花壇でなにをしていたんだ?」
屋敷に向かって歩き出した善丸が、花壇をちらりと見る。
「今朝からスプリンクラーの調子が悪いんだよ。そんでちょっと様子見てて、工具箱を取りに行こうと思ってたところだ」
「直りそうか?」
「どうだかねえ。もうかなり長いこと使ってるみたいだから、寿命なのかもしれないな。こういうのは俺より三ちゃんが詳しいけど、今回は業者を呼んだほうがいいかもしれない」
「そうなのか……困ったものだな」
フィストは心配そうに、もう一度花壇のほうを見た。彼にとって植物は花も草も木も例外なく、すべてが食糧でしかない。なのでこれは別に花々を慈しみ憐れむがゆえの言葉ではないのだろう。
善丸のあとに続いて屋敷の中に入る。大ぶりな外観と華やかな庭先とは対照的に、装飾を最低限に抑えた内装は絢爛豪華ではなく、そのシンプルさが上品で落ち着いた印象を引き出している。屋敷の主である水無月水晶は、豪勢できらびやかな飾りにはあまり興味がないのだ。
「おや、着いていたのか、郁夜」
善丸の予想は外れ、水晶は郁夜たちが玄関の大扉を開けて中に入って間もなく、すぐ傍の扉から姿を現した。端正で美しい顔立ち、白く滑らかな肌。淡い青色の瞳にはわずかに紫が差している。右目には眼帯を着け、艶のある長い黒髪は腰まである。シワひとつないシャツに黒いジャケットを羽織り、しかしネクタイを締めていないので堅苦しい印象はない。華奢なハイヒールを履いた足元は女性的だが、不思議と彼にはよく似合っている。
上から下まで身に着けている衣服は上物であるが、宝石類や貴金属は着けていない。彼曰く、自分と宝石を並べてしまえば宝石の美しさがかすんでしまって気の毒であるから、らしい。自己愛と自信に満ちた言葉だが、そういう男なのだ。水晶はフィストを見てうれしそうに微笑みかける。黙っていれば息を呑むほど美しいのだが、残念ながらよく喋る。
「フィスティ! ああ、友よ。来てくれたのだな。この日をどれほど待ちわびていたか」
「俺のほうこそ、またこうして会えたことをうれしく思う。相変わらずの急な来訪ですまないな」
「なに、かまわんとも。来訪が急であろうとなかろうと、私は常に今この瞬間がもっとも美しいのだからな。つまり、そう、なにも困ることはない。いつでも好きなときに足を運ぶといい。私も、いつでも最上の美しさでお前たちを迎えよう」
「それはよかった。壮健そうでなによりだ、水晶」
「本当に相変わらずなんだよな……」
「お前も変わりないようで安心したぞ、郁夜。二人とも遠路はるばるよく来てくれた。さあ、奥で話そう」
水晶が歩き出すので郁夜たちもそれについていく。すると廊下の奥から女の高い声がした。首元までの短い髪。シャツの胸元を大胆に開け、太股をさらけ出したスカートは下着が見えそうなほど短い。桃色の瞳はよく見ると瞳孔がハートのような形になっており、わずかに紫が差している。右目の下にはチャームポイントの泣きぼくろ。ハイヒールの少女、翡翠雫希が善丸と瓜二つの姿の青年、不知火三月となにか言い合っているらしい。
「一人で行けっつってんだろ!」
「やーだー! それじゃあつまんない!」
「知らねえっつの! ……あ? おう、郁夜とフィストじゃないか」
三月が気付く。雫希もこちらを見た。
「お兄様!」
「雫希と三月は今日も元気だな。向こうまで声が聞こえていたぞ」
「うちの連中に負けず劣らず騒々しいな。二人してなにを揉めてたんだ」
郁夜の問いに、三月が答えようとしたが、雫希がそれを押しのける。
「あたしが遊びに行きたくって、みっちゃんを誘ったんだけど、みっちゃんは一緒に行きたくないって言うの! ひどいと思わない?」
「だから一人で行けって。何度も言わせるなよ」
「やだ! みっちゃんと一緒がいいの!」
駄々をこねて身を乗り出してくる雫希の頭を手で押し返し、三月が善丸のほうを見て言う。
「だってさ、三ちゃん」
郁夜の隣で善丸がわざとらしいため息をつきながら頭を掻いた。
「無理。俺これからスプリンクラーの修理と、あと地下の本棚も修理したいから忙しい」
「だと思った」
フィストが三月と善丸を交互に見る。
「うん? 善丸……いや、三……?」
郁夜はため息をつく。
「……ああ、本当にややこしいな。お前らは」
先に庭で会ったほうが善丸のふりをした三月で、雫希と言い争っていたほうが三月のふりをしていた善丸だったということだ。からかわれていたのではない。この二人は声も見た目も区別がつかないほどに似ているため周囲の者はよく間違えてしまうのだが、二人の場合はその間違いを正すのではなく間違われたなら間違われたままで話を進める。郁夜は庭で水浸しになっていた不知火を先入観から善丸と判断し呼んでしまったが、善丸と呼ばれれば三月は当然として善丸として振る舞うし、逆もまた然り。決してイタズラなどではなく、二人にとっては当たり前のことで、どちらが三月でも善丸でも構わないのだ。
「あ、じゃあフィーさんをつれてけば?」
雫希の隣で三月――ではなく善丸が提案すると、雫希が飛び跳ねながらフィストに駆け寄って灰色の手をとった。
「フィストならいいわ、行きましょう!」
「えっ、いや、だが俺は――」
「嫌なの?」
「そ、そういうわけでは」
「じゃあ決まり!」
雫希が強引に推し進め、フィストの腕を抱いて歩いていく。彼がそれを力づくで振り払える男ではないことを既に知っているのだ。現にフィストは困った顔をしているものの、されるがまま連行されていく。水晶は微笑ましそうにその光景を見送った。
「では、フィストと話すのは二人が帰って来てからということにしよう。フィスト、妹を頼むぞ」
「ま、任された」
二人が去ったあと、三月は呆れたようなため息をつく。
「雫希のやつ、フィストが怒らないからって好き勝手して……」
「俺が言っといてなんだけど、フィーさんも遠慮せず振り払っていいのになあ。まあ、本当に嫌なことはちゃんと断ると思うけどさ」
「あいつはとことん押しに弱いタイプだよなあ……」
郁夜は二人が消えて行った廊下の角を見やるが、水晶は軽く笑って切り替えた。
「さて、それはそれとして、我々は我々の話をしようではないか」
「ああ、郁夜は俺らに話があって来たんだったな。善、茶を淹れてくれ」
「わかった。先に行って待っててよ」
次回は明日の十三時に投稿します。