16 忌避と獣と板挟み
戦場に漂う肌のひりつくような緊迫感が、この空間からは欠落している気がした。どうにも気を引き締めきれないのは、背後に構えた砦が強力すぎることから生まれる心の余裕と油断からだろう。振り払おうにも振り払えない、己の意思に関係なく強制的に享受させられるぬるま湯だ。どれだけ慎重になろうと、あるいは豪快に暴れようとも常につきまとう不要な安心感。戦士たる赤兵が求める空気には程遠く、腹の底がむず痒い。苛立ち一歩手前のじれったさを覚えると、堪え性のない赤兵はそのつど哮る。
「がああッ、おいてめえ! 今のはあたしの獲物だろうが!」
「死角だっただろ。不意打ちをくらうところだった」
「不意でもなんでもあれぐらい反応できらァ! 手ぇ出すんじゃねえ、邪魔なんだよッ!」
赤兵が勢いよく振り向きながら居合いを放つ。しかし、その剣戟が届くより先に、赤兵の背に跳びかかろうとしていた獣型の合成獣の動きが宙でぴたりと止まり、見えない圧力で全身をねじ切られ絶命する。行き場のなくなった切っ先をジオの顔の前につきつけた。
「だ、か、らッ! 邪魔すんじゃねえッつってんだよ! やべえとき以外は手ぇ出さねえって話だっただろーが!」
「無理なく迅速に済ませているだけだ。なにが気にくわない」
「んんんがあああッ!!」
八つ当たりに等しい振りおろしが壁を這う爬虫類の合成獣を切り裂く。激情を乗せた刃は鋭く、いつも以上に荒々しい。ジオは咆哮の瞬間に耳を塞ぎ、怪訝な顔で赤兵を見ている。近辺に潜んでいた合成獣は今ので最後らしい。
ジオにとって――というより、ほぼすべての人間にとって戦闘は避けるに越したことはなく、避けられない戦いであっても無事に怪我なく、危なげなく済ませることが理想であり、危ない橋は渡らず命のやりとりなどはしないに限る。危険を遠ざけてこその守護神だ。
だが赤兵はそれではダメなのだ。命を賭けずに戦うくらいなら死んだほうがマシ――そんな狂戦士の気迫すら感じられた。まさしく血に飢えた獣だ。命を危険にさらすことでしか生きている実感を得られない、戦場でこそ輝ける、戦場でしか生きられない獣。いや、獣のほうがまだいくらか理性的であるかもしれない。
「……なるほど、狂犬とはよく言ったもんだ」
「なんか言ったかクソガキ!」
ジオは黙って首を振る。興奮の冷めない赤兵がさっさと奥へ進んでいくのをうしろから追いかけながら、風の魔力を拡散させて周囲の動体反応を探った。赤兵がまだ荒い語気のまま同じ提案をする。
「んで、このあたりには他になんかねえのか? 今のところ合成獣の群れを片っ端から片付けてるだけで、生きた人間はまだ見かけてねえぞ」
「そうだな。……向こうでなにか動いた。大きい。人間じゃない」
「他には?」
「なにか飛んでる」
「なにかって、具体的になんなのかもうちょい詳しくわかんねえのか?」
「実際に見ればわかる」
「けっ。とりあえずなんか人間じゃない程度にデカイのと、なんか飛んでるのがいるってことだな? 近くにいんのはその二体だけか?」
「ああ。あ? ……飛んでたほうがやられた」
「共食いでもしてんのか?」
ジオが赤兵を誘導しながら向かった先では、通路に大きな熊のような合成獣がいた。首の中程には枝分かれするように突起が出っ張っていて、それはなにかの顔のように見えた。鋭く長い爪の生えた手は人間の顔ほどの大きさで、腕が地面につくほど長い。近くの壁はところどころにヒビが入っており、周囲の床には鮮やかな赤の血痕に汚れ、黒いものが落ちている。よく見るとそれは鳥の羽根のようだ。
双頭の合成獣はなにかを食べているようで、通路の角からそちらを覗き込んでいる赤兵たちには気付いていない。のそのそと身体の向きを変えたときに手に見えたのは黒い鳥だ。他にも二羽ほどの鳥が近くで動かなくなっており、赤兵は小声でジオに問う。
「なあ、近くで動いてたのは本当にあれだけか?」
「感知できるのはその場から地続きになっている空間にあるものだけだ。各部屋の中までは知らない」
赤兵が疑問に思ったのは床の血だろう。まだ乾いておらず新しい。この場の床に落ちている鳥が流す量ではなく、双頭の合成獣に負傷している形跡はない。ということは他に血を流したなにかがどこかにいるはずなのだ。それが人間ならば助けに行かない道理はない。
「あたしがあれをなんとかするから、あんたは先にここいら周辺に誰かいないか探してきてくれよ」
背後のジオをちらりと見てから、すぐに合成獣に目を戻しながら赤兵が言う。ジオは黙って赤兵をじっと見た。その視線に気付いたのか、あるいは彼がこの場を去ったことを確認するためか、赤兵がもう一度振り返る。睨んでいる――といった印象はないものの、その場から動かずこちらを見据えるジオに赤兵はむっと唇を結んだ。
「なんだよ」
「いや、……」
「言いたいことがあんならハッキリ言いやがれ」
「……、……安売りするものじゃないが」
ジオはしばらく思い悩むように眉をひそめていたかと思うと、ポケットからなにかを手に握って取り出した。彼がそれをさらに強く握りしめると拳の内側から薄緑の光があふれ、数秒で収まっていく。開かれた手に差し出されていたのは親指ほどの大きさの透き通った緑の宝石だ。
「持っていけ」
「なんだこりゃ」
「魔石、正しくは人工魔石だ。魔水晶とも言う」
「じんこーませき?」
「魔力を留めておくための特殊な宝石で、それがあれば非能力者でも一時的に魔力の持ち主の能力をその場に再現できる」
「へー、一瞬だけ能力者体験ができる石ね。便利じゃん。あんたの魔力の欠片をちょっと切り取って持ってけるみたいなもんか」
「魔力が尽きればクズ石に戻る。石の大きさによって込められる魔力量も変わっ――おい、乱暴に扱うな。ひとついくらすると思ってるんだ」
説明を聞きながらコインを飛ばすようにして手遊びをはじめる赤兵を、思わずといった様子でジオが止める。
「それは市場に出回ってる人工魔石の中でも小さい部類でグレードも低いが、それでもお前の一ヶ月分の給料の半分は軽く飛ぶぞ」
「ゲェッ! なんつーもん持ってんだよあんた」
「……本当は探偵に持たせておくはずだった」
「あいつが受け取らなかったか、じゃなきゃあんたが渡すの忘れてたんだな……にしても、守護神ってのはやっぱ金持ってるもんなんだねえ」
「いや。ギルドは開発元に伝手があって、そこから直接買い付けてるから余計なコストがかからない。これも他で買うよりかなり安く手に入った。本当ならお前の給料半分どころか、ひと月分がまるまる飛ぶ値だ」
「こんなちっちゃいのにか?」
「値切りに値切って、これでも最安価だ。だから使うとき以外は壊すな、落とすな、投げるのもダメだ。魔力の使い方はお前が決めていい」
「いや使い方わかんねえし……」
「砕くか、投げつければ魔力が放出される。あとはお前が願った効果が実現可能な範囲で再現される」
ジオの言葉に嘘はないが、彼女に人工魔石を渡した本当の理由は防御面の強化のためだった。守護神の魔力がこもった魔石は持っているだけでも効果が得られ、所持者の身に危機が迫ったとき、致命傷程度の攻撃を一度だけ防ぐことができるのだ。だが、それを言ってしまえば赤兵は決してこれを受け取らないだろう。ゆえに、攻撃手段としての使い道のみの説明で済ませる。
「ふーん。ま、じゃあ持ってて損するもんでもないか。とりあえず借りとくぜ」
赤兵が胸ポケットに魔石をしまったのを確認してから、ジオは転移を開始する。近くの部屋から遠くの部屋までを順々にめぐっていくつもりだったが、三回目の転移で薄暗い部屋に降り立った瞬間、部屋の隅のほうで物音がした。部屋は図書室のようになっており、音は本棚同士の間から聞こえたものだ。
覗き込むと、思ったとおり手負いの生存者を発見した。年齢は礼たちよりわずか年下に思えるが、さほど変わらない。ラフなパーカー姿は軽装だが動きやすいという意味では利点と言える。右腕の肩に近い部分に傷を負っているようで、赤く染まった服の上から手で押さえて庇っているが、止血が間に合っていないのか血は指先まで伝い、部屋の扉から今いる場所までの床にもいくつかの赤い点が残っている。
襟足の伸びた黒髪はところどころに青色が入っており、黒い目がジオを睨むように見上げている。床に座り込んでいる足元には一羽のカラス。おそらくジオがこの部屋にやってきたことを気配で察し、緊張とおどろきから足をなにかにぶつけてしまうなどして音をたててしまったのだろう。
まばたきの直前の一瞬、彼の目が赤く光ったが、痛みに強張った顔がさらに引きつるだけだった。同時にジオは己に向けてけしかけられた邪な魔力の気配を察知し、即座に理解する。
「今、なにをした」
少年は答えない。だが、答えがなくともジオには覚えがあった。
エスパー系の能力による読心術で鳥と意思疎通し彼らを操り、かつてギルドの副支部長でありギルド長の補佐でもある雷坂郁夜に黒鳥をけしかけた少年。面識はないものの、ジオは情報として彼を知っているし、彼もまた守護神の現身たるジオを知っている。
ジオが直接関わったわけではないし、何事もなく解決したこととはいえ、話を聞いた限りあの一件は最悪だった。郁夜だけでなく礼もリスクを背負ってこの少年と邂逅を果たし、結果としてすべては丸く収まったものの、この少年への印象は好ましくはない。極力ならばギルドの誰も彼に関わってほしくない。
だが既に郁夜は目をつけられていた。今がどうかはともかく、少なくともあのときはそうだった。そして当然、郁夜の身になにかがあれば礼が動くし、礼が動けばその護衛役である零羅も動く。あの三人のうち誰か一人でもトラブルに巻き込まれたなら、あとの二人も芋づる式に引っ張り出される。つまりあのうちの一人に手を出すことは、あとの二人に手を出すことも同義。礼が標的なら郁夜と零羅が、零羅が標的なら礼と郁夜が、郁夜が標的なら礼と零羅が標的だったと言っても過言ではないのだ。
「そうか、お前――」
そしてあの三人、とくに零羅の身が危険にさらされること――ジオにとってそれは、つまり。
「俺の弟たちに手を出した人間か」
静かな敵意。目の前の少年――來烏はジオが怒りを向けるに値することをしでかした。烏は返す言葉もなく黙り込んでいる。ジオはしばらく彼を見つめていたが、やがて仕切りなおすように彼の真正面に立った。今からこの少年をどうしようと過去は変えられないのだ。制裁を加えるのは次になにかあったときでいい。
「……救助だ。生きてここから出たいならついてこい。向こうに仲間がいる」
烏は重圧と傷の痛みに耐えながら、無理に余裕ぶった笑みを浮かべる。
「ッつ……ああ、いや……ありがたい申し出だけど、遠慮しよう。あまり、他人に借りを作りたくないものでね。とくに、君みたいな大物が相手じゃ余計に」
「助かりたくないのか」
「ほっといても俺は自分で助かるさ。他の人の救助に行ったらどうだ? 俺以外にもまだまだいるんじゃないかなあ?」
「ひとつ素朴な疑問がある」
烏は目だけでジオを見上げる。
「どうしてお前がここにいる」
ふ、と烏の唇から薄く息がもれた。
「そもそもね、拠点なんて俺には最初からないのさ。いや、最初はあったけど今となっては関係ないことだし、別にどこに住んでるってわけでもないんです。だからどこに現われてもおかしくはないし、俺がどこにいようと関係ないだろ?」
「答えになっていない」
「経緯の話なら君たちと同じだし、そんなのみんなそうだ。森の中を歩いていたのに気付いたらここにいた。それ以外に説明のしようがないし、第一それ以上の説明が本当に必要?」
余計に話を長引かせたくないジオにとって、彼の反応はあまり好ましくない対応であり、率直に言って扱いにくいタイプだ。質問の意図を理解しながらのらりくらりとまわりくどく核心を避けようと、ああ言えばこう言うを繰り返して無駄にやかましい。長々と話すことで話を脱線させて肝心なことは煙に巻こうという魂胆だろう。ジオの言葉をやりすごすのにそれは悪手だ。
あまり気は進まなかったが、彼がその気ならば仕方ない。ジオは烏に歩み寄ると、負傷した右肩を押さえている彼の左手ごと容赦なく傷口を蹴りつけた。烏が突然の激痛に思わず叫び声をあげると、傷を踏む足にさらに力を込める。さらなる苦痛にあえぎながら足をばたつかせ、ジオが離れると彼は荒い呼吸を繰り返す。
「ぁああッぐ、う、ぁ……ッ!」
「あまり俺をイラつかせるな」
「はぁッ、……はぁ……う、……ふっ、神様ってのは……ッく、案外……野蛮なんだな、ぁ……」
「答えないならそれでもいい。死体がひとつ増えるだけだ」
「冗談が、通じない、な……人捜しだよ、人捜し! このあたりにいる……かもしれないって情報を掴んだから、あちこち歩きまわって。それでたまたま森に入って、あとはわかるだろ。……なんでここにいるのかって、俺だってこんなところ、来たくて来たわけじゃない」
「誰を捜している?」
「知人だよ、昔の知り合い! 俺にだって日々の生活はあるんだし、会う相手だっている。別に警戒しなくてもギルドとはなんの関係もないし、ただ個人的な用事があるだけだ。……おいおい、俺はなにも悪いことはしてないぜ? 本当の本当に今回はなにも企んでないって」
「脅しは半分冗談だ。なにも企んでいないならいい」
黙ってじっと自分を見据えてくるジオの態度から本能的な危機感を感じ取ったのか、烏が弁明するものの、ジオにはここで彼をどうこうするつもりはなかった。烏は気疲れしたのか安堵からか、大きなため息をつく。
「ほんっとにさあ……考えが読めないからどこまで本気かわからないんだよ、君」
「俺の思考を読んでいいのは俺が許したエスパーだけだ。領守に精神干渉の類は一切効かないと思え。魔力の無駄だ」
「……ご忠告どーも。さっきも言ったように、君に……というよりギルドに借りなんか作りたくないんだ。俺は勝手に生き延びるからほっといてくれ」
「読心術ばかりで戦闘での対抗手段がないくせに生き残れるつもりか。使い魔も今はその一羽だけだろ」
「使い魔なんて禍々しい言い方しないでくれよ。こいつは俺の友達みたいなものなんだから」
「囮にしたくせにか」
「だってまあ、使えるものは使わないとね。君としても俺と一緒にいたくないだろうし、むしろ俺がここらで野垂れ死んだほうが都合がいいんじゃないか?」
「どうでもいい、自惚れるな。救助されたくないなら、俺たちが外に出るまではここを動くな」
天井の隅に配置されていた監視カメラが弾け飛んで床に転がった。三月に事情を話して彼を救助対象から外そうにも、ジオの端末は赤兵が所持している。このことを話したところで赤兵が納得するとは思えないし、それなら彼の存在自体を隠すほうが手間も暇もかからない。
扉から廊下に出て赤兵のもとへ戻ると、ちょうど事が済んだところだった。一度だけ大きな音がしたかと思うと、曲がり角の向こうから獣の首を引きずった赤兵が現れてこちらに気付く。返り血を浴びているが、赤兵自身に怪我はないようだ。これで非能力者だというのだから恐ろしい。フィストが高く評価するだけのことはある。
「おう、見つかったか?」
「もう死んでいた」
「なんだよ、チッ……一歩遅かったか」
「このあたりには誰もいない。上に行くか?」
「そうだねえ、誰もいないのにとどまってるわけにもいかないし……よし、上への階段はどこだ?」
ジオが進みだすので、赤兵も合成獣の首をその場に捨ててそれに続く。地図を完璧に記憶しているわけではないが、こと空間の把握に関してジオに死角はない。覚えていなくてもわかるのだ。赤兵もそれを無意識下で理解してジオの案内を信用している。
道すがら出会った合成獣を狩りながら、ジオの先導で迷うことなくひとつ上の階へ移動する。端末に三月からの通信が入ったのはちょうどそのころだった。赤兵は端末を取り出し、ややおぼつかない操作でそれに応じる。
「おっと、三月からか。えーと……こうか。おい三月、聞こえるか!」
『うわっ、そんなデカい声出さなくても聞こえるって……どうやらそっちも無事みたいだな』
「は、誰に向かって言ってんだよ。んで、ずいぶん遅かったけど、そっちはちゃんと所定の位置についたんだろうな?」
『ああ、なんとか。これでも急いだほうだぞ』
「よし、じゃあさっそくカメラで見えてるもん教えてくれや」
『そっちは……あれから三階上に進んだのか。いくらか狩り残しがあるけど合成獣もほとんど殲滅できてる。残念ながらその階には死体しかないな。現時点での生存者は六人。お前たちがいるひとつ上の階に一人と、もうひとつ上の階に二人。二階飛ばしてさらに上に二人と、あとの一人はうんと下の階にいるけど、牢の中でじっとしてて動く気配がないから、こっちはあとまわしでも大丈夫そうだ』
「なにか動きがあったら教えろ。とりあえず上にいる連中と合流していく」
『わかった、誘導するから通信はつないだままにしろ』
次回は明日、十三時に投稿します。