9 風を司る神の現身
「目を覚ましたとき、我々は牢に入れられていた。しかし牢は施錠されておらず、体も拘束されていない。所持品を没収された様子すらなく、そのうえ牢の部屋は内側から鍵をかけられるようになっていた。だが監視カメラがいたるところに設置されており、すべての行動を見張られている。これがどういうことか、わかるか?」
探偵の問いにフィストが考えながら返す。
「牢に入れて拘束しておくことに意味はない、ということか? これだけの監視カメラがあるということは、俺たちを牢に閉じ込めてどうにかするのではなく、むしろ自由に歩きまわらせて観察することが目的と……そういうことなのか、探偵」
「おそらくはな。フィストティリア、この地下空間を探索していて他になにか気付いたことがあるだろう」
探偵が続けてフィストに問う。彼の試すような眼差しにプレッシャーを感じたのか、フィストは肩に力が入り、そのまま慎重な面持ちで自信なさげに答えた。
「俺からは備品の配置がわざとらしい、ということくらいしか。……ああ、そうだ、それについてなんだが、生物学の本だけがやけに多いようだな。雫希が気付いた」
これには三月が頷く。
「本の並びがバラバラで一貫性がないまではともかく、本もラインナップもダブりまくりで適当にかき集めただけに見える。でもここで見かけた生物学の本には一定の規則性があった。それにあのカルセットたちの既視感のあるちぐはぐな外見……俺と探偵の見立てだと、ここいらを徘徊しているカルセットは既存の種を人工的にかけ合わせた合成獣だ」
「生物学の本とキメラがどう関係してるの?」
「これは不知火三月が確認したことだが、ここに揃っている生物学書には多かれ少なかれ合成獣についての記述がある。ごくまれに別種族のカルセット同士の交配が成功して二つの遺伝子を引き継いだ魔獣が誕生することもあるが、それはいわゆる雑種の枠組みだ。自然の中で合成獣が誕生することはない」
「ああ、そういうのはだいたい近い生態を持つ種族の間でしか起きないことだ。爬虫類同士の間に子が生まれることはあっても、爬虫類と哺乳類の間に子は生まれない――ってな具合にな」
「トカゲとヘビの間にも赤ちゃんはできないと思うけど」
「ところがどっこい、魔獣同士ならそういうようなこともたまに起こるんだよ。まあ、雑種は子を残せないとか短命だとか、そういう話もある。新しい種として存続するのはレア中のレアケースだ」
「つまりここはカルセット同士を材料にした合成獣ってのを作るための施設で、あたしらはその餌か、なにかの実験のためにその巣窟につれてこられたって?」
「どっちかっていうと実験台だろうな。餌のためって雰囲気じゃない」
言いながら三月がテーブルに肘をつく。ジオは黙って静観しているが、まるで品定めでもするようにその場の面々を観察しているようにも感じた。
「ここが地下で、あたりにいるカルセットが合成獣? っていうのはわかったわ。それで、これからどうするの?」
「決まってんだろ。犯人をぶっ飛ばしてさっさとここから出る」
強気な赤兵の返答に三月が頭を押さえてため息をついた。
「その方向性自体は賛成なんだけどなあ……簡単に言ってくれるぜ、まったく」
「地下ってことは上を目指せばいいんだろ?」
「そうとも限らないんだよ。ここが厳密に地下何階なのかは知らないけど、俺が閉じ込められていたのはここより二階上だった。最上階が地上に繋がってるなら、俺たちを閉じ込めるのは最下層にしたはず。俺としては、まずここが全部で何階まであって、現在位置がどのあたりなのかを把握するところから始めたい」
「でもみっちゃん、それって超時間かかりそう……」
「なあ坊主……ジオだったか? あんた神様なんだろ? こう、あんたの神様パワーでちゃちゃっとなんとかなんないわけ?」
赤兵が雑に話を振ると、ジオは黙ったまま考えるように口元に手を当て、大きく息をつきながら静かに口を開いた。
「その要望は……、……いや、この地下空間の全貌を把握するということなら、三月の案は俺がどうにかする」
「じゃあ製図は俺がやるから、あとで地図作りを手伝ってくれ」
「なあ、あんた空間転移でここに来たとか言ってたじゃんか。それで出られないのか?」
「今までに他人を転移させた経験はない。不可能ではないはずだが、身の安全が保障できない以上、実行に移すつもりはない。転移できるのは俺だけだ」
「全員いっぺんにじゃなくて、一人ずつとかでもダメか?」
「やめておくがいい。他者をつれての空間転移には膨大な魔力と緻密な演算が必要となる。理論上は可能でも慣れないことをさせた結果、一人だけ転移先の座標が狂って地中に生き埋め――などという事態も起こり得るだろう。そもそも、その方法で脱出できたとしても事態の根本的な解決にはならないのだからな」
「そうかい、ならしょうがないね。嬢ちゃん一人だけでも先に出してやれたらって思ったんだけど……まあ、あんたが自由に出入りできるなら、外との連絡も取れるってことだしな。あたしらはあたしらで地道に出口を探せばいいってことか」
「そういうこと。みんな疲れてるだろうから今日はこのくらいにして、明日になったらまた作戦会議といこう。ジオ、今夜はずっとこっちにいるのか?」
「夜が明けたらギルドに報告へ戻る」
「なら見張りは交代で、探偵、ジオ、俺、フィスト、赤兵の順でどうだ? 地図はそのときにでも用意しよう。雫希は役に立たないから論外な」
言いながら三月が立ち上がる。皆が賛同して、三月と赤兵は伸びをする。フィストは足を伸ばして体をほぐす雫希を見守っていて、探偵はそっぽを向いてなにかを考えている様子だ。各々が休息に移ろうとしたとき、黙って座ったまま動かずにいたジオが不意に顔を上げて部屋の隅を見た。そちらには水の溜まった大きな溝があり、水路としてどこかに続いているようだが鉄格子で閉ざされている。深さはだいたい腰までくらいだろう。
三月がジオの視線がそちらに向かっていることに気付き、なんとなしに水路に歩み寄る。途中、その水面にぼこりと音を立てて気泡が浮かんだ。赤兵とフィストも音に気付いて警戒するように注目すると、鉄格子がひとりでに外れ、水の中でごとりと音を立てて倒れる。そのすぐあとに水路の奥から姿を現し、水中から飛び出て来たのは、三月のよく知る顔だった。
ざばんと水を派手に飛び散らせながら勢いよく飛び出してきた人影は、咳き込みながら床に手をついて肩で息をする。
「ぶはッ! ……ふう、はあ……おお、今回はちょっと危なかったぞ……」
「ぜ、善?」
あっけにとられた三月が声を裏返らせる。三月と同じ顔をした男、不知火善丸が顔を上げて三月を見た。
「あ、三ちゃん」
「善ちゃん!」
雫希とフィストが駆け寄り、水路の傍に屈む。一同の様子を見て敵でないと判断した赤兵もそちらに向かった。ジオも立ち上がって少しだけ近付いたが、探偵は遠くから見ているだけだ。
「しーちゃん、フィーさんも! やっと見つけたぁ……三人とも全然帰ってこないから心配してたんだぞ!」
「す、すまない善丸……しかし、なぜお前がここに? というか、どこから……」
「ああ、これにはちょっとした事情があって……」
立ち上がってざばざばと水の中を歩き、ずぶ濡れのまま三月の隣に腰掛ける善丸。すると、彼の前の水面がぬう、と伸びた。それは女性の形をしており、善丸の手に透明な水の手を重ねながら不思議そうな顔で三月たちを見ている。赤兵が仰け反っておどろきながらも腰の剣を引っ掴んだ。
「うおっ、なんだこりゃ!」
「ルサルヴォレスじゃないか。善、なんでこんなのと一緒なんだよ」
「三ちゃん、この子のこと知ってんの?」
「その子個人は知らないけど、それがなんなのかってことなら知ってるよ。ルサルヴォレス、水辺に生息するカルセットの一種で、清らかな淡水の中でだけ生きられる人魚だ。一部の地域では水の精霊とも呼ばれてる」
「なんでそれが善ちゃんと一緒に水路から?」
「それが……まあ、その……」
善丸が返事にもたついていると、横から探偵が推測した。
「その水路は外の湖と直接繋がっているのだな。ルサルヴォレスは人間の子どもと同程度の知能を備えているが、声帯の構造上どうあっても人語を習得することはできない。おおかた、森の探索中に湖とそこに生息するこのルサルヴォレスを発見し、お互いに意思疎通が図れず相手の真意も知れないまま、成り行きで連れてこられたのだろう」
「あ、はい。そうです……」
「アホかお前は。もし罠だったらどうするんだよ」
「いやあ……森の中で湖を見つけて、そこでたまたま会ったんだ。言葉はわからないんだけど、なんか困ってるみたいでさ。探偵、この子の言いたいこと翻訳できないか?」
「できるわけがなかろう。貴様は私をなんだと思っているのだ」
「えー、でも寿とは会話してるじゃん」
「それは寿が人語を習得していて、つたないながらも言葉を発しているからだ。他者の思考を覗ける來坂礼ならともかく、カルセットの鳴き声から言いたいことを察するなど、いくら私でもできないことはある。人魚は人間の言語を扱えないし、人間も人魚の言語を扱えない。カルセット同士ならともかく我々が人間である以上、意思の疎通はあきらめろ」
カラン。
ガラス玉が転がるような声にその場の視線がルサルヴォレスと呼ばれた人魚に注がれる。誰も彼女の言葉を理解できないし、それは彼女にしてみても同じだ。人魚は困ったような顔で首をかしげて善丸とそれ以外の面々を見比べている。探偵は善丸のうしろに立って、めんどくさそうに人魚を観察し始めた。
カランコロン。コロコロ。
人魚がなにかを訴えている。善丸はルサルヴォレスの手を握って申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんね、俺たちは君の言葉がわからないんだ。でも君のおかげで捜していた人と会えたよ、ありがとう。本当ならお礼に君の困りごとを解決してあげたいんだけど……」
カラカラ、カラコロ、コロン。
「……ふむ。湖の水質汚染が悩みの種か? この施設に面した湖は既にルサルヴォレスの生息地として適さない環境となっているが、水中でしか身動きの取れないルサルヴォレスは別の水場に移動することすらできない。そうして日に日に弱っていくだけだったところへ不知火善丸が通りかかり、藁にもすがる思いで助けを求めた。汚染の原因はこの施設から流れ出る薬品や廃棄物――といったところか」
「やっぱり通じてるんじゃないか」
「何度も言わせるな、言葉は通じん。それでも状況とその人魚の様子と表情を見ればそれくらいの察しはつく。まだ別の要因がある可能性も考えられるが、現時点で推測できる範囲ではこの程度だな」
「っていうか、そこの水路が外に通じてるなら、あたしらもそっから外に出られるんじゃねえのか? まあ、出られても解決にはならないってのはわかってるけどさ」
「無理だな。言っとくけど一分二分我慢すればなんてレベルじゃないぜ。善が息を乱す程度ってことは、最低でも四十分以上は息継ぎなしで泳げなきゃ外には辿り着けない。まったく、わが片割れながら常軌を逸してるな……俺たちが善と同じ方法で脱出するのは到底不可能。これはこいつだからこそできた侵入方法だ」
「よんじゅっぷん……?」
「え、ていうか探偵の話が本当なら俺が泳いできたのって薬とかで超汚れた水ってこと? うわ、さっきちょっと飲んじゃったんだけど。ぺっぺっ!」
あわてて水から這い出る善丸に、三月がなぜか安心したように胸をなでおろす。
「倒錯的に水が好きな善でも、さすがに汚染された水は無理か……」
「汚染されているといっても、それはルサルヴォレスにしてみればの話だ。人体に影響が出るほどのものでもあるまい」
「ならいいや」
また水に足をつけ、善丸はルサルヴォレスに向かい合った。
「ともあれ事情はわかった。できる限り手を打ってみるから、もう少し我慢してね」
ルサルヴォレスはもう一度だけ善丸の手に触れると、すぐに離れて水の中に沈み、それきり顔を出すことはなかった。善丸の言葉が通じたとは思えないが、どうやら水路を伝って湖のほうへ戻っていったようだ。三月が人魚の消えた水路の奥に目を向けながら善丸に問う。
「手を打つって言ってもどうするつもりだ?」
「とりあえず汚染物質がこれ以上湖に流れないように原因を排除して……既に汚染された分は、あとで帰ってからアリアちゃんとか琴琶ちゃんにどうにかできないか相談してみようと思う。探偵、どうせここをぶっ潰すんだろ? 俺も作戦に加わるよ」
「……まあ、戦力が増えるのはいいことだ。不知火三月、事情を話しておけ」
「わかった。ところで善、いつまで水の中にいるんだよ。そろそろあがってこい。いくらお前でもそのままじゃ風邪ひくぞ」
三月に言われて善丸は今度こそ水からあがった。頭の先から足の先まで全身ずぶ濡れのままだが、善丸は別段気にした様子もない。ジオが小さくため息をついて善丸の正面に立ち、彼の濡れたシャツの胸元に手を触れると、そのままゴミでも払うように手を横にすべらせた。
その瞬間、横殴りの風が善丸だけに吹き注ぎ、ジオの手の動きに従うように善丸の全身から水路に向かって大量の水しぶきが剥がれ落ちた。善丸が自分の身体に触れたとき、そこには既に一粒の水滴も残っていない。事は済んだとでも言うようにその場を離れて部屋の隅で胡坐をかくジオに手を振って礼を言うと、善丸は赤兵と目を合わせた。
「先に新顔さんに挨拶しておこうか、俺は不知火善丸。三ちゃんとは見てのとおり双子の兄弟で、しーちゃんたちの屋敷に住み込みで働いてる用心棒みたいなもんだ。よろしく」
「警備隊所属、ロワリア部隊A班班長の赤兵だ。寝るときはあんたも見張り要員として数えていいのかい?」
「もちろん。交代になったら言ってくれ。あ、なんなら俺が最初でもいいよ」
「善は俺の次だ。お前の次はフィストだから時間になったら起こしてやれ」
「わかった」
「善ちゃん、外は今どうなってるの?」
「たぶん、そろそろ陽が沈んだころだろうな。あ、水晶さん屋敷においてきちゃったけど大丈夫かな」
「おいてきて正解だ。ここにいられても困るだろ」
「そうだけど、屋敷にずっと一人で残しておくのもそれはそれで心配だろ? ギルドの誰かが様子を見にきてるといいけど」
「とにかく今日はもうお開きといこうや。嬢ちゃんはそっちのソファで休みな。鬼、この子はあんたがちゃんと見といてやんなよ」
「鬼ではなくフィストだ」
「赤兵ちゃんはいいの?」
「ちゃんはやめろっつってんだろ、赤兵さんと呼べ」
「赤兵さん」
「よろしい。あたしは床だろうがどこだろうが寝れるからいいんだ」
「たくましいねえ、雫希にも少しは見習ってほしいところだ。善、とりあえずここに来てからわかったことをざっくり話すから、ちゃんと聞いてくれよ」
「うん。じゃあフィーさん、引き続きしーちゃんのことは頼むぞ」
「ああ、任された」
フィストが雫希をソファに運び、赤兵は近くの壁にもたれながら座った。善丸と三月は水路のふちで皆に背を向けながら小声で話を続け、探偵は扉の横に椅子をひとつ動かしてそれに腰掛けている。ジオは監視カメラの真下あたりで死角をつくように座り、うつむいて目を閉じている。もう眠っているのかもしれない。
ハイヒールを脱ぎ、しばらくソファに横になっていた雫希は、体を半分起こして他の皆の様子を確認した。そして誰もこちらを見ていないことを確認すると、すぐ傍のフィストに目を向ける。
「……ねえ、フィスト」
ささやき声で話しかけた雫希に、フィストは顔を上げる。
「どうした、眠れないか?」
「ううん。あ、あのね、そうじゃなくて、あの……」
ぎこちなく声を詰まらせ、うつむいていしまう雫希。フィストは静かに彼女の言葉を待った。数秒の沈黙のあとに、雫希はようやく伝えるべき言葉をしぼり出す。
「あのね……さっきは、ごめんなさい。わ、ワガママ言って困らせて……」
泣きそうな顔にいつになく弱々しい声だ。フィストは不意を打たれたようにきょとんとしていたが、やがていつものように穏やかな笑みを浮かべた。
「そんなことか、気にするな。この状況を考えれば、お前がああなるのも仕方のないことだ。誰だって不安な状況が長く続けば叫びたくもなる。すまない、俺も配慮が足りなかったな」
「そ、そんなことない。フィストはずっとあたしを気遣ってくれてたもん。ねえ、たまには……怒ってもいいのよ? みっちゃんみたいに、あたしのこと叱ったっていいんだからね」
「いや、俺は別に……ううむ。少し、苦手だな、そういうのは。……もしかして、ずっとそれを気にしていたのか?」
「だ、だって……ひどい態度とっちゃったし……」
「お前はいい子だな。俺は気にしていないさ、だからお前も気にするな。さあ、今日はもう休むんだ。あとのことは俺たちに任せておけば大丈夫だ。すぐに帰れる」
「うん……ありがとう」
「おやすみ、いい夢を」
眠るための体勢を整えて、雫希が目を閉じようとしたときだった。扉のほうで探偵がガタンと音をたてながら立ち上がり、懐に手を入れながら部屋の隅で座っているジオのほうに足を踏み出した。
「上だ、ベルヴラッド!」
その声に重なるようにして、ジオの真上にある通気口の格子が派手な音を立てながら落下した。無論、ひとりでに壊れたわけではない。巨大なイモリのような体に鳥類のごとき鋭いくちばしを持った合成獣が通気口を破って侵入したのだ。しかし探偵は呼びかけた先でジオは既に眠っている。起きていたとして、音を聞きつけてから対処していたのでは間に合わない。
「ジオ!」
三月が叫ぶのと、落下してきた格子と鳥顔のイモリがジオの頭上でぴたりと停止するのはほぼ同時だったと言えよう。鳥顔のイモリは宙に浮いたままバタバタと手足を動かしてもがき、抵抗は無駄だということにいまだ気付いていない様子だ。
そのとき既にジオは突然の侵入者から一メートル程度離れた地点に転移しており、フィストや三月、そして探偵までもが彼に声をかけられずにいたのは、その小柄な身体から発せられる並々ならぬ神気に慄然として言葉を失ったからだ。息が詰まる。肌が痺れるような空気に重々しい畏怖が張りつめ、全身が総毛立つ。壮大で神聖かつ、恐ろしい気配だ。姿かたちは見知った少年、しかし、その内側にあるものの正体が我々の知らないなにかであることは、目を閉じていようとも感じ取れた。
「――騒々しいな」
一瞬の静寂。破ったのはその小さくも強大な背中だった。合成獣が抗議するように、あるいは恐れおののくように吠え、いっそう激しく暴れ出す。
「歪な畜生風情が、誰に許しを得てわが現身に傷をつけんとする。身の程を弁える脳すら持たぬとは愚かな……そして哀れだ。我は寛大である。ゆえに、命をもって償うことを許そう。疾く首を差し出すがいい。これは慈悲である」
グア、ガア、と鳥顔のイモリが悲鳴をあげる。直後、その頭部が目に見えぬ刃によって斬り落とされ、胴体と格子とが支えを失ったように床に崩れ落ちた。周囲の床と壁に血潮がほとばしり、頭を失った魔獣はぴくりとも動かない。たしかな高貴を湛えた燦爛たる翡翠色の瞳が振り返り、一同を見た。
「久しいな、観測者。……そうあからさまに嫌そうな顔をするな、不敬であるぞ」
直接の指摘を受けてなお嫌悪の表情を隠さず、探偵は低く威嚇するような声を返す。
「その神気……まごうことなき守護神の威光。貴様が表に出てくるにはいささか些事がすぎるのではないかね? 風神ベルヴラッド」
「お、おいおい、ベルヴラッドって……まさか、えっ、中身のほう?」
雰囲気の豹変したジオと、探偵の言葉を聞いた善丸が引きつった顔で口を挟む。探偵は慎重な面持ちで警戒するようにジオ・ベルヴラッドを睨んでいる。ジオは――もとい、ベルヴラッドは善丸を見てわずかに口角を上げた。
「いかにも、わが名はベルヴラッド。ラウ・ベルヴラッドの名でも通りがよいな。わが現身を通して見ていたゆえ、事の仔細は把握しておる」
「えーっ。ていうか守護神本体って、出てこれるもんなんだ?」
「本来ならば守護神の宝珠は人格や意識を持たぬが、現身を通して顕現する際に限り、現身の潜在意識にある想像上の人格をまとうことで外界との意思疎通が可能となる。此度のように顕現すること自体は特別珍しいことでもないが、ヒトの子と会話を交わすのは何年ぶりであろうな」
「待っ……なに? 潜在意識の……なんだって?」
ベルヴラッドが扉の傍の椅子に腰かけるので、赤兵がテーブルの椅子の向きを変えて座って聞き返す。ベルヴラッドは足を組んで顎に手を当てた。
「汝らも風の守護神たる我が、あるいは我以外の守護神がどのような性格なのかをなんとなしに想像したことが一度くらいはあろう。今のように我が表に出てくる際には、わが現身が想像した人物像をそのまま当てはめて振る舞っておるということだ」
「つまりジオが想像した風神ベルヴラッドの理想像がそれってことか」
「とはいえ完全にわが現身の想像だけで成り立っているものではない。数多の民草がこうあればいい、そうであってほしいという願望をお互いにささやき合う。わが現身もかつてはそういった声を聞いて育った。厳密には、そういった民草の話を聞いた上で、わが現身が想像した人格が今この場にいる我ということになる」
「ええ? えーと、まあ、なんとなくわかったような……」
「風神よ。此度の顕現にはどのような用向きが?」
フィストが問う。
「簡単な話だ、ヒトの子よ。わが現身に危機が迫った。ゆえに我が顕現し、脅威を排除した」
「そ、それだけ?」
拍子抜けしたような雫希にベルヴラッドが目を向ける。雫希はフィストの背中に隠れた。
「当然のこと。我は守護神ベルヴラッド。我はこの世に風があることの証明であり、この世の礎と土地……ついでにその土地に住まう生命を守護する神。無論のこと、その恩恵を第一に受けるのはわが現身たる契約者よ」
「そんな話をするためにこの場に留まっているわけではないのだろう、風神」
「そうでもないぞ、ヒトの子。だが我が代弁すべきことはある。なんせわが現身はシャイなものでな、言うべきことは最低限に、言うべきでないことを言わぬのはまだしも、多くは言いたいことも口にせん。うむ、それもまたよし。愛愛しいものよ。だが少々見ていてはがゆい」
「……それで?」
「わが現身は汝らを守護対象とみなし、この施設を攻略するために協力は惜しまん。汝らを心配するあまり、今宵この場に留まる判断を下したほどだ。……そうまで気にかけておるならば、我の啓示通りに事を運べばよいものを。わが現身らしいと言えばらしいのだが」
「啓示って、たとえばどんなの?」
「わが現身がヒトの子らを捜して森に立ち入った際は、森ごとひっくり返せば早かろうと何度か示しておったのだが、こやつは一向に聞き入れぬのだ」
なんでもないように言ってのけるベルヴラッドに三月が顔を引きつらせる。
「森ごとって、それはまたとんでもないスケールだな……」
「汝、そこの赤毛の子。汝がわが現身に神の権能でこの状況を打開してみせよと要求した際もな、我はこの地下に埋まった建造物ごと地上に引っぱり出して粉微塵にすればよいと示したが。まあ、地下に埋めたまま破壊するでも地上に出して破壊するでも、外に出られるのはせいぜいこの場に居合わせた者だけであるからして。わが現身がそういった手段を好かぬと言うのも仕方あるまい」
「あー、そういえば……たしかに赤兵と話してたとき、一瞬言葉に詰まってたような……」
「たしかにどうにかしろとは言ったけどさあ……守護神ってか荒神の間違いじゃないのかい、あんた」
「ねえ、ジオがあたしたちを守護対象として見てるって言ってたけど……それはいいの? あたしたち、南大陸の生まれじゃないし、南大陸に住んでるわけでもないし、ロワリアにもたまにしか行かないんだけど……お祈りとかもしたこともないし」
「よい、我は寛大である。ゆえにその不信心を許す。わが現身が汝らを守護の対象とみなしたのであれば、我はその意に沿うまでだ」
「守護神って意外と自己主張しないのね。なにをどうするかは全部契約者に任せっきりなんだ?」
「我らの権能の本質は守護である。守りたいという意思があっての行動ならば、現身がなにをしようと構いはせん。神よりもヒトの子のほうが守護するものが多いというだけのこと。現身がなにを思い、なにを成すかは現身本人が判断すべきである」
「ってことはさっきの啓示ってやつも、とりあえずなんかノリで言ってみただけの、ちょっとした提案程度のもんってことかい」
「然り。他になにか我に聞いておきたいことはあるか? そろそろ引き上げねばならんので、なにかある者は今のうちに済ませるように」
「こうやって表に出てられる時間には制限があるってことか?」
「我々が現身の身体を通して顕現できるのは、現身が眠っている間のみ。無論、例外もあるが基本的にはそうであると覚えておくがいい。その間、現身は意識が眠っているだけで身体は起きている状態にあり、この状態が長く続けばいずれ目を覚ます。せっかく眠っているのを起こすのは気の毒であるし、そもそも我が表に出ていては休息になるまい」
「ジオにめちゃくちゃ甘いなお前……」
ベルヴラッドが壁際で横になると、空気が痺れるほどの神気はなりをひそめた。ジオは再び静かな寝息をたて、それを確認すると赤兵やフィストたちも元いた居場所に戻っていく。雫希は仲間と合流できた安心からすぐに寝ついてしまい、それを見届けたフィストもそのうち眠りについた。善丸は長時間の探索と潜水の疲労があるのですんなり寝入ったし、赤兵も本当に寝る場所はどこでもいいらしく、壁際で剣を抱いたままの姿勢で眠っている。三月は長いこと起きていたようだったが、それでも雫希や善丸が眠ったことを確認してからほどなくして自身の休息に時間をあてた。
全員が寝つくころには既に探偵の見張り時間は残りわずかとなっていて、しかし三月はだからこそ探偵を最初の見張り役として采配したのだ。探偵はなにかあっても護身程度には戦えるが、護身程度にしか戦えない。戦闘が発生したとしても誰かしらが起きているであろう時間帯を割り当て、それに最初の見張りとなれば一度休息に入れば途中で起きる必要もない。その理屈で言うと最初と最後の見張りが最も安定した休息をとることができ、そこには体力を蓄える必要のある者、つまりその作戦における重要人物をそこに置くべきだろう。探偵と赤兵の見張り順はそういった理由だ。
見張り順に関しては三月の独断だが、彼は、そして彼以外もこれが妥当であると踏んでいて、探偵もある一点を除けば、これが最善の策と頷けたのだろう。
次回は明日、十三時に投稿します。




