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モラトリアム・ミステリシリーズ

通り悪魔

作者: 若庭葉

 男子トイレの個室の中、鮮血に塗れた彼は、ゼエゼエと荒い息を繰り返した。人生で初めて味わう死の実感──首筋に感じる熱と流れ続ける血が、そのリアリティを絶えず彼に与え続ける。

 扉の向こうで目にした()()は、どうなったのだろう? 酩酊している時のように判然としない意識の中で、彼は思い出した。

 自分と同じように赤く染まった、その姿を。

 どこか遠くの場所で、人の怒号や足音が聞こえる気がした。惨劇の舞台となったゲームセンターは、未だ恐慌状態にあるのだろう。

 そんなことを、ボンヤリと考えていた──ように思う。

 ほどなく、浜辺の砂が打ち寄せる波に攫われて行くように、彼の意識は真っ赤な晦冥へと沈んで行った。


 九月の半ば。都内某所にあるゲームセンターで起きた無差別殺人事件の犠牲者は、死傷者含め七名にも及んだ。

 そして、その事件の現場で、彼は確かに悪魔の姿を目にしていた……。


 ※


 二〇一八年の九月半ば。その頃、僕はとある理由から、大学の授業を自主休講していた。下宿の部屋に籠り。ひたすらある作業に没頭していた為、世間との繋がりはほとんどないも同然だったし、興味もなかった。

 だから、緋村がある人物の元を訪れる為帰郷していたことなど、当然知る由もなかったのである。


「どうだった?」

 読んでいた原稿を閉じると、すぐさま期待と不安の篭った声がかけられた。感想を求められた緋村は少し迷ったものの率直なコメントをする。

「正直、よくわからなかった。(わり)いな、普段漫画なんて読まねえからよ」

 そう言って、相手に原稿の束を返す。

 その作者──仁科は、病室のベッドに腰下ろしたまま手を伸ばし、それを受け取った。仁科と緋村は高校時代の友人──三年の時の同級生であり、こうして会うのは高校を卒業して以来だった。

「そうか……まあ、確かに漫画読んでるイメージなんてないな。高校の時から難しそうな本ばっか読んでたし。有名な医者の著書とか、海外の事件を扱ったルポとか」

 明らかに落胆した様子であり、緋村は自らの受け答えをわずかに後悔した。

「絵はすげえと思ったよ」

 そう付け足してみたが、あまり効果はなさそうだ。

「いいよ、気い遣わなくて。みんなそうだからな。俺の作品をちゃんと理解してくれる人なんて、今まで誰もいなかった。持ち込みをしてもこき下ろされるか門前払いされるだけ。新人賞からもいつも同じ通知が届くよ。『残念ですが落選とさせていただきます』ってな」

 言葉に反し、仁科は原稿を、丁寧な手付きで傍らに置く。

「それより、すまなかったな。わざわざ大阪から来てもらって。大学の講義だってあっただろうに」

 高校を出た後、都内に残り専門学校に通っていた仁科に対し、緋村の方は大阪の大学──阪南芸術大学に籍を置いていた。

「構わねえよ。これでも普段からまじめに授業受けてんだ。ちょっとくらいサボったって余裕で進級できる。それより、怪我の具合はもういいのか?」

 仁科の首には痛々しく包帯が巻かれていた。彼はその大怪我を負った為に、入院していたのだ。

「ああ、術後の経過が頗るいいようで、明日には退院できる予定だよ。一昨日まで生死の境を彷徨っていたのが嘘みたいだ」

「……そうか、よかったじゃねえか」

「そこに関してはな。けど、実は素直に喜んでもいられないんだ。このままだと、退院できても()()()()()()

 前髪を搔き上げるようにして、額に手を当てがう。その表情に見る間に絶望の色が広がって行った。

「その話をする為に、俺を招んだんだな?」

「そうだ。……聴いてくれるか?」

 緋村は頷く。初めからそのつもりで来ていた。

「ありがとう。ところで、五日前にあった通り魔事件、知ってるだろ? ほら、都内のゲーセンで起きた……実は俺、あの時現場にいたんだよ。最近、ちょっと行き詰まっていてな。気晴らしにふらっと立ち寄ったんだけど、この怪我も、その時の物だ」

「事件に巻き込まれたってことか? そりゃ災難だったな」

「本当にな。でも、災難はそれだけじゃな終わらなかった。……どうやら、警察は()()()()()みたいなんだ。俺が通り魔なんじゃないかって。いや、疑うどころか、確信している様子だった」

 そう語る仁科の姿を、緋村は無機的な瞳で眺めていた。自然と相手を()()する時の表情になっているのを、自覚しつつ、問いを放つ。

「どうして、警察はお前を疑っているんだと思う?」

「なんでも、目撃情報や防犯カメラの映像から得た犯人の背格好や服装が、俺と酷似していたらしい。それから、この首の怪我も犯人に負わされたんじゃなくて、俺が自分で切った──つまり、犯行後犯人である俺が自殺しようとしてできた物だと考えてるようなんだ」

「要するに、ゲーセン内で客を切り付けた後、お前はトイレに入り、そこで自殺を図ったってわけか」

「警察が言うにはな。──けど、俺はそんなことはしていないはずだ。と言うか、その話は実際の状況と()()()()()()

「矛盾……」

「ああ。俺は鍵のかかったトイレの個室の中で倒れてたんだが、もし本当に自殺しようとしたのなら、絶対に凶器が傍に転がってなきゃならないだろ? けど、警察が乗り込んで来た時、凶器の包丁は、個室の外にいた店員の体に()()()()()()()()()。……と言うことは、その店員が最後の被害者で、『刺された俺が個室に逃げ込んだ後で、犯人に襲われた』と考えるべきじゃないか」

「なるほど、確かにそれが自然な解釈かもな」

「そう思うだろ? 本当に俺が犯人だとしたら、『自殺を図った後でどうやって個室の外にいる人間に包丁を突き刺したのか』が、()だ。それなのに、警察は俺の話に取り合ってくれない……」

「凶器は他になかったんだな?」

「そうらしい。犯行に用いられたのは出刃庖丁一本で、今も言ったようにそれは店員の体に刺さってた。俺の首の傷が刃物によってできたのは明白だし、間違いないよ」

「へえ」少し考えた後、緋村は別の問いを発する。「さっきから気になってたんだが、お前もしかして事件当時のことを()()()()()()()?」

「……実は、襲われたショックからかわからないが、記憶が曖昧なんだ。ただ、ものすごく恐ろしい思いをしたのは覚えているし、凶器のことがあるから、俺はやってないはずやんだが……」

 彼自身でさえ、ハッキリとは容疑を否定できないのだ。仁科はもどかしげに、自分の頭を小突く。自分自身を信じきることができず、苦しんでいる様子だった。

 その姿を見るのは、緋村にとっても辛いことだった。彼をその苦悩から解放するにはどうするのが最善か、口許を手で多い、少し考えたほどに。

 すると不意に、仁科の口から予想外の言葉が発せられた。

「昔、高校の時、お前に教えてもらった妖怪の話があったよな?」

「妖怪? ──ああ、そうだったな。確か、お前が妖怪をモチーフにした漫画を描きたいとかで、いろいろ話を聴かれたことがあったか」

 瞬時に記憶を辿り答えに行き着いた彼は、そこでハッとなり旧友を見返した。

「“通り悪魔”か?」

 仁科は軽く俯いたまま、頷く。

「自分のことを信じられなくて悩んでいるうちに、その通り悪魔の話を思い出したよ。もしかしたら、あの日俺はゲーセンでそいつを見て、頭がおかしくなって事件を起こしたんじゃないかって……。馬鹿馬鹿しいと思うか? 俺だってそう思うし、もちろん妖怪なんてのが本当にいるだなんて言うつもはない。……けど、俺が本当に狂っちまったんだとしたら、そう言う人を狂気に至らしめる存在があの場所にいたとしか、考えられないじゃないか。じゃなきゃ、あんな恐ろしいこと、俺にできるはずが……」

 人を狂気に至らしめる存在──その言葉は、通り悪魔と言う妖怪の性質を、的確に言い表していた。

 通り悪魔は江戸時代の随筆にて語られている妖怪であり、槍を持った白装束の老人とされることもあれば、甲冑姿の武者の一団とされることもある。そのどちらにも共通している特徴は、それを見た者の心を乱して発狂させてしまう、と言う点だ。

 また、通り魔とも呼ばれ、今回の事件のような謂わゆる「通り魔」の語源でもあった。仁科がこの妖怪の話を想起したのも、無理からぬことだろう。

 そう思うと同時に、緋村は後悔を噛み締めていた。

 自分が通り悪魔の話をしなければ、彼はここまで苦しむことはなかったのではないか、と。

 であるならば、緋村には彼を救わなければならない義務があることになる。

「……いるわけねえだろ、通り悪魔なんて。あの事件を起こしたのは、紛れもなく一人の人間だし、その狂気の引き金になったのは妖怪なんかじゃねえよ」

「……どうして、断言できるんだ? まるで何もかも知ってるような口ぶりだな」

「そうだ、知ってるんだよ。誰の目にも明らかだ。もし、お前がまだ()()()()()()()()()()()、俺が教えてやる」

「……本当か?」

 上目遣いに見上げる彼の瞳に、()()()()が浮かんでいるのを、緋村は見逃さなかった。

「ああ。簡単な話だ。謎なんて一つもない。全て警察の言ったとおりなのさ。──お前が七人を刺した。そしてその後自殺を図ったんだ」

 硬い声で言い放った。

 唖然とした仁科の表情が、緋村の無機的な黒眼(まなこ)の中に映り込む。

「け──警察が正しいって言うのか……? け、けど、それはおかしいじゃないか!」

「何がだ?」

「お前の話は矛盾してるだろ! さっきも言ったけど、もし俺が自分で首を切ったんだとしたら、包丁はすぐ近くに落ちていなきゃならない。なのに、実際には個室の外で死んでいた店員の体に刺さっていたんだぞ?」

「だから、そんなこと謎でもなんでもないんだよ。至って単純な話だ。お前は()()()()()()()()()()()()()()()()のさ」

「は?」一瞬凍り付いた彼だったが、すぐに破顔した。「あり得ないな。順序がおかしいだろ。いったいどこに、自分を刺してから人を殺す奴がいるんだ?」

「まだわからない()()をするのか? なら、望みどおり説明してやるよ。

 事件当時、ゲーセンで惨劇を演じたお前はトイレに入り、そこで店員を刺した。状況からして、お前の後から彼が入って来たんだろうな。勇敢にも、通り魔を捕まえようとしたんだ。しかし、彼は敢え無く返り討ちに遭う。そして、自分の犯行に満足したのかどうかは知らないが、とにかくお前はそこで自殺しようとした。自らの首を切り付けたんだ」

 手刀を首筋に添え、斜めに下ろす動作をした。

 その姿を睨み付ける仁科の瞳は、やはり何かに怯えているようだった。

「さて、これで後は死ぬのを待つだけだと思いきや、ここで予想外の事態が起こる。今しがた刺し殺したと思っていた店員が、実はまだ生きていて、()()()()()()()()()んだ」

「…………」

「思わぬ反撃に、たいそう面食らっただろう。しかし、どう言う了見か、天は殺人鬼に味方した。揉み合いながらもどうにか包丁を手に取ったお前は、それを店員に突き刺したのさ。今度こそ完全に息の根を止められるよう、深々とな」

「…………」

「再び彼を返り討ちにしたお前は、個室に入り、扉の鍵をかけて意識を失った。……確かに、お前は個室に逃げ込んだんだろう。そして、恐ろしい体験をしたのも本当さ。だが、お前が恐れたのは襲撃者の追撃なんかじゃなかった。()()()()()()()()だったんだよ!」

「…………」

 仁科は黙していた。血の出そうなほど唇を噛み締め、顔を背ける。

 病室の白い床に定まらぬ視線を彷徨わせる彼を見つめながら、緋村はさらに言葉を浴びせた。彼の現実逃避(もうそう)を打ち砕く為に。

「事件当時の記憶がないってのも嘘なんだろ? 何故なら、お前は自分がやったってことを自覚している。だからこそ──言い逃れが難しいとわかっていたからこそ──、通り悪魔なんてのを持ち出して、自分は狂気に()()()()()ってことにしようとしたんだ。俺が昔通り悪魔の話をしたせいで、お前に逃げ道を与えちまったんだな」

 緋村はここに来て、そのことを後悔していた。それがなければ──逃げ道を与えなければ、仁科は自らの犯した罪を認めざるを得なかったのではないか、と。

 無論、悔いても意味のないことだとは、理解していたが。

 病室はシンカンと静まり返る。

 二人とも、身じろぎ一つせず、本当の沈黙が降り立った。

 ほどなくして、彼の乾いた声が発せられるまでは──

「動機に関しても、大方自分の漫画が理解されないことの鬱憤が、歪んだ形で発露したってところだろう。通り悪魔なんかいなくたって、その程度のことでも十分人は狂う」

「……違う。俺は狂ってなんか」

「どのみちもう終わりだがな。明日、お前は退院すると同時に、正式に逮捕される。今も廊下の外で刑事たちが見張ってるぜ。この部屋に来る途中、何人かそれらしいのを見かけたよ。観念して、罪を認めるんだな」

 そう言うと、緋村は椅子から立ち上がった。これ以上、ここにいてもできることはない。

「じゃあな」

 踵を返し、部屋を出て行こうとした時、

「……そうか。なるほどな……面白い話だったよ。こう言うのも、たまにはアリかも知れないな」

 予想だにしない言葉だった。

 足を止め、緋村は振り返る。

「そうだ、次は心機一転して、ミステリを描いてみようか。それもキレのある叙述トリックを組み込んで、読者をアッと驚かせるんだ。……ありがとう、緋村。お陰で、今度こそいい漫画が描けそうだ」

 恍惚とした表情を浮かべ、彼は笑っていた。その瞳にはもう、現実の世界など映っていないのだろう。


 原稿はそこで終わっていた。


 ※


 緋村は読んでいた原稿の束を閉じ、封筒の中へとしまった。都心から随分と離れ、車窓を流れる景色は長閑な物へと変わっている。車内は空いており、乗客は緋村の他に三人のみだった。

 路線バスに揺られること、約四十分。ようやく目的のバス停に差しかかる。ここで下車してから、さらに十分ほど歩いた場所に、彼の目指す墓所があった。

 遺族から譲ってもらった遺品を鞄にしまい、バスを降りる準備をする。隣りの席に置いた花束を持ち上げた。

 二〇一八年九月半ばのある日、緋村は僕の知らないところで、旧友の元を訪れていた。一年前のその日が、彼の命日だった。

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― 新着の感想 ―
[一言]  短編でありながら、面白くて魅力的なプロットです。  一方で、ミステリーで作者が読者に勝った、というのは、作者が読者にミスリードをさせ、そのうえで読者がミスリードさせられたことを納得すること…
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