海の中 5
「”止まれ!”」
天童先輩の大声と共に、右手に持った音叉を強く叩いた。
——キィィィン! と甲高い音を立てた音叉だったが、その音はすぐに止んでしまう。
さっきは上手く行ったのに、こんな時に限って……
やけに”調整”の難しい音叉に舌打ちし、正面を向き直れば黒家先輩が海に引きずりこまれる光景が映る。
天童先輩の声も届かず、結局前に出ている二人に任せる結果となってしまった。
だが、それでも事態は好転しない。
海に引きずりこまれた黒家先輩をギリギリ捉えたのか、前衛二人が水しぶきを上げながら沖へと引っ張られていく。
「早瀬先輩! 俊君!」
こうなってしまっては私も天童さんも成す術がない。
今から追いかけた所で、とてもじゃないが追いつく速度じゃない。
どうする、私たちは何をすればいい。
なんて必死に考えた所で、妙案など浮かぶはずもない。
私は、無力だ……
「だぁもう! こうなりゃ直接海に顔突っ込んでどうにか”声”を!」
「響くわけないでしょ! 水の中ですし、どれだけ離れてると思ってるんですか!?」
迷いなく海水に突っこんでいく天童先輩がおかしな事を叫びながら、ザブザブと海の中に迫っていく。
もはや水しぶきさえ立っていない海面には、早瀬先輩の持っていたフラッシュライトの光だけが僅かに残るばかり。
その明かりも今は随分と弱くなり、距離も遠い……どうする、どうすれば。
「状況ぉぉぉ! 説明ぃぃぃ!」
遠くから、訳の分からない大声が聞えた。
ついでにいえば砂浜だというのに、土埃の様に盛大な砂を巻き上げながらその人は走ってきた。
街灯の一つもない、月明かりだけに照らされるソレは、はっきり言って怖い。
何か迫ってきた、そしてこっちに向かってくる。
とはいえ、その声は間違いなく私たちの待ち望んだ”ソレ”。
だからこそ、私はその声に大声で答えたのだ。
「三人が海の中に引きずりこまれました! 早瀬先輩のライトがまだ見えてます! それを追って下さい!」
「あいよおぉぉぉぉぉ!!」
私の言葉が終る前に、隣を通り過ぎる彼。
気のせいかな、今若干海の上走った気がするんだけど。
あれか、右足が沈む前に左足を出せばいいっていうアレか。
やべぇわ。
「お前らはさっさと上がれ! 後は俺がやる!」
それだけ言うと、彼は迷う事なく暗い海の底へ潜った。
とんでもないスピードで駆け付け、そして一瞬で海の中に姿を消してしまったのだ。
その様子をずぶ濡れの天童先輩と眺める事数秒。
ポカンと口を開けていた彼が、ふと言葉を漏らした。
「あれは……うん、間違いなくヒーローだわ……うっわぁ、なんか悔しい」
その言葉に思わず噴き出しながら、言葉を返す。
私以外に言う人が居ないんだか、仕方ないだろう。
「そうですよ? どうですか、”本物”を見た感想は。 アレがウチの顧問です」
「ヤバイ」
「語彙力……まぁいいです。 普通そうなりますよね」
なんて言いながら、天童先輩の浴衣を掴んで岸へと戻っていく。
私たちがやるべきことは、もう待つことだけだ。
これ以上は何もするべきではない、彼の足を引っ張ってしまう。
未だに唖然としている天童先輩を安心させる為にも、私はもう一言追加した。
「大丈夫ですよ。 だって”浬先生”が来たんですから、もう安心です」
ちょっと自分でもどうかと思うくらいだが、それでもこればかりはどうしようもない。
だって、浬先生が何かに負けるところなんて私には想像出来ないんだから。
————
飛び込んだ海の中は、どこまでも深い暗闇が広がっていた。
水を掻き分ける自分の腕すらよく見えない状況で、一筋だけ光を放つ”ナニか”が見える。
恐らくアレが鶴弥の言っていた、”早瀬が持っているライト”なんだろう。
もしも到着したら提灯アンコウが居ました、なんて言われたら笑えないが。
どうでもいい事を考えながら、おっさんは魚の様に身体をくねらせながら海の底へと潜っていく。
泳ぐのは得意だ、だがいくら何でも暗すぎる。
今の状態で何かに襲われたら対処できる自信なんてない。
だが光の元に教え子が居るのだとすれば、行くしかないのが教師というものだろう。
全く厄介な職業に就いてしまったものだ。
なんて思っている内に、視界の中に誰かが浮かんできた。
暗くて良く見えなかったが、近づくにつれてその姿がはっきり見えてくる。
黒家弟だった。
やりきったぜ、みたいな顔しながらゆっくりと浮上しているその姿。
どう見たって酸素が足りてない、溺れる寸前だ。
意識だって保っているかも分からないその表情は、やけに接近してから俺に気づいたらしく、寸前でキッ! みたいな険しい表情に変わった。
俺がね、もうちょっと早く到着していればね? 確かに状況違ったかもしれないね。
でもね。
(お前は救助に入った癖に何故溺れてるんじゃぁ! 気合入れろぉ!)
思わず顔面パンチを叩き込んだ。
その衝撃で……なのかは知らんが、ハッとした顔を浮かべていたコイツなら大丈夫だろう。
よし、お前はもう地上に帰れ。
彼の背中を踏み台にして、今一度水中で加速する。
一気に光源に近づき、何かを掴んだ。
手や足にしてはやけに太い……コイツは……
光に照らされたその物体が姿を現した時、肺に残った空気を半分くらい吐き出してしまった気がする。
おぉっと、こいつは不味いぞ。
ヒラヒラと水中に揺れる浴衣、そしてその中に手を突っこんで、どうやら誰かの太ももをがっしり掴んでしまったらしい。
ちょびっと視線を上げれば、白い三角形がこんにちわだ。
(後生だ、今だけは許してくれ……)
阿呆な事を思いながら思いっきりソレを引き寄せると、何か下からもう一人誰か出てきた。
多分こっちの白い三角形の方が、潜っていく相手にしがみついている状況なんだろう。
ちょっとびっくりしたが、これで三名確認出来た。
後は戻るだけ……と思ったんだが、何かがおかしい。
さっきからどんどんと海の底に潜っているのだ。
なにこれどういう事。
下に居るのがどっちかわからないが、何かに引っ張られているような勢いだ。
もしかして足に鮫とかくっ付いてるのだろうか。
だとしたらかなり不味い、一刻も早く撤去しないと。
(だが……見えん。 非常に見えん)
光源を通り過ぎた今、視界に広がるのは真っ暗な暗闇ばかり。
とは言え、このまま深海に連れていかれる訳に行かないので、とりあえず誰とも分からない身体を掴みながら体制を立て直す。
そして引きずり込まれている彼女の足元に向かって、思いっきり踵を突き出した。
ぐちゃっ……という嫌な感触を覚え、海の底へ引っ張られる感覚は無くなった。
だとしても、これは結構不味い。
二人抱えて、上まで泳ぐのか。
さっきの白い逆三角形のせいで、俺の息をもギリギリ持つかどうか……なんて、言ってる場合じゃねぇわな。
二人を抱え、水面に向かって懸命に泳いでいく。
片方はマジでヤバイ。
身体の冷たさが尋常じゃない上、ろくな反応を示さない。
もう片方は若干の意識はあるのか、多少の反応は返ってくるが……こっちも長く持ちそうにないな。
(まじぃな……)
なんて思った時だった。
片腕に抱いた一人を、何者かに奪われたのだ。
最初は焦ったが、隣を泳ぐ顔を見て警戒を解いた。
黒家弟が帰ってきたらしい、ならば俺はもう片方に集中できる。
(わりぃ、そっち頼むわ)
心の中で謝罪しながら、黒家弟を置き去りにして一気に水面目掛けて加速した。
もう月の光が見える距離、あと少し、あと少しだ。
そんな風に思いながら、抱えた相手を無理矢理水面に押し出した。
「ぶっは!」
コンマ数秒遅れて顔を出し、腕に抱いた少女の顔を見る。
そこには黒家が居た。
見た事も無い程青い顔して、ぐったりと項垂れるソイツは。
まるで息をしていないみたいに、本当に静かだった。
————
「浬先生!」
水面から顔を出した瞬間、叫ばずにはいられなかった。
恐らく時間にしたらほんの短い間だったのだろう。
それでも、私にとってはこの上なく長く感じる時間だった。
何もできず、待つばかりの時間。
それは私の不安を必要以上に駆り立てた。
そして心境は天童先輩も同じだったらしく、浬先生が水面から顔を上げた瞬間、彼は海に向かって走り始めた。
「草加ッち! 他の皆は!?」
「どけ! 岸まで運ぶ!」
いつになく攻撃的な言葉を受け、天童先輩は唖然と立ち尽くしてしまう。
それも仕方のない事だろう。
未だ岸に居た私でさえ、彼の言葉を聞いた瞬間に身体が震え、身動き一つ出来なくなってしまったのだ。
バシャバシャと音を立てながら彼が戻ってくる間に、少し離れた位置から俊君と早瀬先輩が顔を出す。
どうやら二人とも無事みたいで、苦しそうな呼吸を繰り返していた。
そんな彼等に対して、浬先生は相変わらず強い言葉で叫んだ。
「俊! 今すぐこっちに来い! 救急救命! 心臓マッサージ!」
……え?
浬先生が、何かを叫んだ。
彼は何を言っているんだろう?
慌てた様子で岸に向かって来た俊君も加わり、場の空気が緊張を持ち始めた。
浬先生は黒家先輩を砂浜に寝かせると、首と顎を持ち上げ突然唇を奪った。
え、いや、何を……なんて思っている内に口を離し、俊君に指示を出す。
「心臓マッサージ! 数えろ!」
「はい! 1! 2! 3! 4!」
訳が分からなかった。
私のすぐ近くで、非日常な光景が繰り広げられている。
何が起きている?
今処置してるのって、黒家先輩だよね?
え? 何がどうなって……
「鶴弥! 救急車! ぼけっとすんな!」
「……え? あ、はい!」
浬先生に怒鳴られて、慌ててスマホを取り出した。
えぇっと、救急車、救急車……あれ、何番だっけ……?
記憶の中には確かにある筈の簡単な番号を思い出せない自分に、無性にイライラする。
こういう時、冷静を保てる人こそ”ヒーロー”なんだろう。
私には、どうやらその資格は無かったらしい。
「あ、あの……救急車ってなんば——」
「——30! 先生!」
「おう!」
俊君の掛け声と共に、浬先生が再び黒家先輩の口と自らの口を合わせる。
その光景を目にしながら、私は焦った。
通常呼吸が出来ないままの人間を放っておけば、数分で脳死するという。
黒家先輩が海に連れ込まれてから、どれくらいの時間が経った?
彼女の息はいつ途切れた?
そして今、どれだけの時間が残されている?
「——は、は、ぅ……はっ」
何をやっているんだろう私は。
上手く呼吸が出来ない。
胸が苦しくなり、酸素を吐き出すばかりで声の一つすら上げられない。
馬鹿か、馬鹿なのか。
本当に役立たずだ、黒家先輩がこんな状況の時に、私は一体何を……
誰かが崩れ落ちそうになる私を支え、その手は私のスマホを取り上げた。
「……もしもし? 救急車お願いします。 場所は——」
よく聞く”声”が、すぐ近くから聞えた。
次の話で3章は終了になります。





