海の中 4
「あぁクソ! ごめんそっちいったかも!」
「無理しないで! 夏美さんも撤退してください! 海の中は向こうの方が有利です!」
叫び合うようにして、僕たちは少しずつ岸に向かって下がっていく。
馬鹿みたいに噛まれた右足が痛むが、正直それどころじゃない。
隙を見せれば一瞬でひっくり返される状況は、今も続いているのだ。
「ソコだぁぁ!」
急に飛び上がった夏美さんが、海に向かって踵落としを叩き込む。
その反動で水しぶきは上がり、波紋で周囲は一層見ずらくなった。
不味い、これは不味い。
「夏美さん! 落ち着いてください! むやみに攻撃しても、こっちが不利になるだけです!」
「う、うん。 ごめん!」
ジリジリと下がりながら二人でライトを海に向ける。
幸い夏美さんが持っているライトは、多分軍用モデルだ。
やけに強い光を放ち、周囲の水の底まで軽々と照らしている。
「とにかく下がります! 海に引き込まれたら……夏美さん! 9時の方角!」
「へ? って、うわ!」
水面から飛び出す様に迫ってきた”人魚”が、両手を広げながら夏美さんに迫っていた。
不味い、ここからじゃ届かない上に、彼女の体制が悪い。
このままじゃ彼女が組み敷かれる!
「夏美さ——」
「——”そのまま動くな! 水中に入ってからしばらくその場で待機!”」
力強い声が、周囲に響いた。
そして更に。
——キィィィィン!
という甲高い音が、周囲を包んだ。
その音を聞いた途端、暴れていた姉さんがスッと大人しくなる。
一体何が……
「俊君! 今の内に黒家先輩をこっちに! ”結界”は長くは続きません!」
「早瀬さん! ”ソイツ”を踏んづけたら一回こっちに!」
飛び掛かってきた筈の”人魚”は空中でピタッと動きが止まり、不自然な姿勢のまま夏美さんの隣を通り過ぎて、そのまま海水の中に堕ちた。
「二人とも、ナイス!」
一声上げると同時に隣に落ちたソレに対して、頭の上まで上げた踵を振り下ろすと、彼女はすぐさま振り返って岸を目指した。
「多分”声”の束縛が解けた! 水に入るとすぐ動き出すっぽい!」
それだけ聞いてから、すっかり大人しくなった姉を肩に担いで走り出す。
岸では二人が手を振り、隣には金髪ケモミミ、ケモ尻尾の女性が走るという訳の分からない状況だが、今は走るしかない。
あと少しで陸に上がる。
もう脛の半分くらいしか水に浸かっていない、そんな時に音叉の様な道具を持っていた鶴弥さんが声を上げた。
「”結界”が切れます! 注意してください!」
さっきまで鳴り響いていた、甲高い音が途切れる。
その直後、背後からゾッと冷えるような気配が迫ってくるのが分かった。
「来るよ! 警戒して!」
二人同時に振り返り、海を眺める。
何事も無いように静かな波が迫ってくるが、間違いなくいる。
どこだ、どこから……
「夏美さん!」
ほんの一瞬、彼女の隣を黒い影が通り過ぎた。
間違いない”アイツ”だ。
今度は手の届く距離、助けられる範囲。
だとしても、僕に何が出来る?
”異能”も無ければ、”見える人”でもない僕に。
結局手を出した所で、皆に迷惑がかかるだけかも——
「——知るかぁ! 先生ならこうする!」
黒い影が迫るだろう予測地点に、思いっきり右の拳を海に叩きつけた。
拳の先に、今度ばかりは感触がある。
間違いない、捕らえた。
「夏美さん!」
「さっすが!」
阿吽の呼吸とでも言えるタイミングで、捕らえた”ソレ”に対して夏美さんが踵を叩き込んだ。
ジワッと海に広がる黒い液体。
一見血の様にも見えるが……水の中に黒い霧が広がっていく。
視覚がおかしくなりそうな光景だ。
「これは……仕留めたんですかね?」
拳の先には大きな魚の半身がピクリとも動かず沈んでいる。
多分丁度人と魚の真ん中くらいに、彼女は踵落としを叩き込んだのだろう。
見事に上半身と下半身が分断された様だ。
しかし、その肝心な上半身が見当たらない。
「わかんない……とにかく一旦陸に——」
——永遠……命、若イ女……肉。
その声は背後から聞え、振り返った時には左肩に担いだ姉さんの足に、”ソイツ”は絡みついていた。
「こいつ!」
思わず反撃しようとしたのが、それが間違いだった。
体を捻った瞬間に姉さんは海の中に引きずり込まれ、上半身だけの”ソイツ”は沖に向かって姉さんを引っ張っていく。
「返せ!!」
「巡!」
二人同時に海に飛び込むと、ギリギリの所で姉さんの両手を片方ずつ掴んだ。
三人分の重量があると言うのに”人魚”は気にした様子もなく、海の底へと僕たちを引っ張りこもうとしている。
浅い場所を抜けてしまえば、周辺は真っ暗闇に包まれた。
唯一の光源は夏美さんが腕にストラップで固定したライトのみ。
すぐそこに居る筈の姉の姿さえ、視界には映らない。
(不味い不味い不味い! このままじゃ3人共死ぬ!)
慌てながら、どうにかこうにか状況を確認しようと視線を周囲に向けると、唯一光の当たった夏美さんが苦しそうに藻掻いているのが見えた。
どうにか姉さんの腕に掴んで引っ張られているものの、どう見たって酸素が足りてない。
多分潜る前に息を吸い込む間もなく姉を追ったのだろう。
どんどんと青くなっていく彼女の口からは気泡が漏れ、やがて口を閉じたまま動きが鈍くなり始める。
瞳は力を失い、金色の髪や尻尾は彼女の体内へと戻っていった。
彼女の手を振りほどいて水面に戻すべきだ。
このままじゃ間違いなく夏美さんは死ぬ。
しかし彼女を戻して僕が残った所で、今度は姉さんが死ぬ。
だとすれば、僕の出来る事はひとつだろう。
(夏美さん! ごめんなさい!)
心の中で謝罪してから、僕は彼女の唇を奪った。
驚いた表情を浮かべる夏美さんに対して、僕の肺に残った酸素を全て彼女に受け渡す。
人の肺に一度入った代物だ、長くは持たない。
でも、その命を数秒くらいは繋いでくれる筈だ。
(後は……お願いします)
酸素を失った事で遠のいて行く意識の中、自分の腕が姉から離れるのを感じた。
あぁ、これは水面まで持たないかも……
なんて思いながら、力なく水面を見上げたその先に、黒い影が迫ってくるのが見えた。
まさか、”人魚”がもう一体?
とんでもない速度で迫ってくる”ソレ”に対して、ふざけるなとばかりに顔を顰めた瞬間。
顔面に衝撃を受けた。
お陰である意味覚醒したが、視界に残ったのは鬼の様に恐ろしい顔だった。
とか思っている間に今度は背後に回られ、背骨が折れそうな程の衝撃が後ろから迫る。
まるで踏み台にでもされたような圧力が掛かり、その勢いのまま水面に一気に近づいた。
意識が途切れそうになる中、何とか目の前に迫る水面目指して藻掻いた結果。
「ぶっはぁ!」
数秒と掛からずに、僕は酸素を吸い込んだ。
なにが起きた、なんて思っている内に先程の泳いで来た鬼の顔を思い出す。
あぁ、そういう事か。
「ヒーローは遅れて登場するにしても、ちょっとギリギリすぎませんかね?」
本人には聞えないだろう愚痴をこぼしてから大きく息を吸い込んで、僕は再び海の底へとその身を沈めた。





