海の中
「ふぅ……」
思わずそんな声が漏れてしまうのも仕方ない事だろう。
あれだけ遊んだ挙句、疲れ果てた所で温泉に浸からせて頂いたのだ。
近くに温泉宿があって、そこは風呂だけでも使わせてくれるから! なんていうおばさんの一言で、私たちはお風呂の為だけにこの場所に訪れていた。
しかも浴衣まで用意してもらっている。
全員分のサイズが合う浴衣が用意されていたのは、未だに謎だ。
「こんなにお世話になってしまって、いいものなんでしょうか……」
ロビーで一人、コーヒー牛乳を飲む私は完全に放心していた。
昼間で体力を使い果たし、温泉で身体を癒し、そして今ではこんな風に自由気ままに休んでいる。
なんともまぁお休みらしいお休みだ。
今までこんな経験がないので、なんとも言えない気持ちにはなるが。
椿先生を除いた他の皆は未だお風呂を堪能しているのであろう。
彼女だけはお酒が回ったらしく、今は一足先にお家で爆睡中だ。
そして学生だけになった影響なのか、やけにちょっかいを出してくる二人に耐えられなくなって、私一人だけ早々に退散してきたという訳だ。
まさか鶴弥さんまで夏美と一緒に絡んでくるとは思わなかった……
むしろ彼女の方がヤバかった。
「浮くんですか!? マジですか!? ちょっと触ってみてもいいですか!?」
なんて血走った眼で詰め寄られた時には、マジでどうしようかと思ったくらいだ。
やれやれと脱力しながら、椅子に全体重を掛けながらダレていく。
正直このまま眠ってしまいたいくらいに、脱力感が凄い。
あぁ、充実した休日でございました。
おやすみなさ——
「——おう黒家。 随分と早いな」
「ふぉぉっ!?」
予想外な人物の声で、思わず意識が覚醒した。
まさに風呂上り、とでも言わんばかりに着崩した浴衣。
熱そうにパタパタとソレを揺らす無防備満載の顧問の教師が登場した。
やめろ、心臓に悪い。
「他の奴らはまだ掛かりそうか?」
「えぇ、まぁはい。 多分」
適当な返事を返しながら、目の前の和風姿をガン見する。
困った、これでは私も他の二人や、普段の先生の事が言えない。
「こっちもお前の弟が天童に説教始めちまってな、もう少し掛かりそうだ」
なんて軽口と共に、彼はキョロキョロと周りを見回すと懐から煙草を取り出して「ちょっと行ってくる」なんてハンドサインを送ってきた。
当然の如く浴衣の感想とかくれない彼に若干のモヤモヤを覚えながら、ヒラヒラと手を振って返事をする。
去っていく彼の挙動が、完全に煙草を隠れて吸う高校生のソレだよ……
基本的に皆の前だと喫煙を控えている彼だったが、匂いで普通にバレると思うんだけどな。
どういう拘りなのか、絶対隠れて吸うのだ。
いっその事喫煙中の姿を撮影して夏美にでも見せてやろうか、二人とも面白い反応が見られそうだし。
なんて悪戯心丸出しで、彼を追って外へと踏み出した。
はてさて、喫煙所はどこかなぁー? なんてニヤニヤしながら、うろついていたその時だった。
——、——。
「ん?」
声? かな?
波の音に合わせて、何かが聞えて来た。
微かに聞こえるソレに耳を傾けると、歌の様にも聞えてくる。
どっかで誰かが外で歌ってるの? こんな時間に?
これも田舎あるあるなんだろうか?
などと思いながらしばらく耳を傾けていると、くらっと頭が重くなった感じがした。
体制が崩れ、柱に身体を預ける様にして何とか転倒を防ぐ。
「湯あたりでもしたかな……いやでもそんなはずは」
頭がクラクラする、視界が霧で歪む。
なんだこれ、気持ち悪い。
昔ウイスキーの入ったチョコレートを食べて酔っぱらった事があるが、なんかその時の感覚に似ている気がする。
やっとの思いで立っているというのに、耳障りな歌は続く。
耳障り? 今まではそんな事思わなかった筈なのに、何故……
——オイデ。
歌に交じってその言葉が聞えた瞬間、身体が震えた。
間違いない、”カレら”だ。
まさか近くに居るのか? とはいえ、今の私は『感覚』さえ満足に使えない。
これは不味い、早く誰かに連絡を……
スマホを取り出した所で、私の意識は完全に途切れた。
————
「草加先生と巡が居ない……」
「電話も出ませんね、まさかお二人で先に帰ったという事はないでしょうし」
「草加っちの裏切者……俺まだ黒家さんの浴衣姿見てないのに……」
「もしかしたら二人だけでお楽しみに行ってたりして。 ね? カブト虫先輩」
「「うそだぁぁぁ!」」
「早瀬先輩まで……冗談ですから落ち着いてください」
なんてこった、温泉を堪能し過ぎた。
ロビーに戻れば俊君と天童君だけが待っていて、草加先生は先にお風呂から出たとの事。
そして巡も同じ様に先に上がった事を伝えると、こうして怪しい事態になっている事が発覚した訳だ。
やらかした、私もさっさと出てくればよかった。
「嘘だぁぁ! デートなら私も行くぅぅ!」
頭を抱えた私を、周りのみんなが「おい止めろ、周りが見てるだろ」みたいな表情をしながら止めに入った。
しかしそれどころじゃ無い、今は緊急事態だ。
もしもこのまま大人しく帰って、朝方に二人がお手て繋いで帰って来てみろ。
私は絶対引き籠ってやる、草加先生の部屋とかに。
もういっその事”狐憑き”を使ってそこら中しらみつぶしに探してやろうか、なんて考え始めた所で困った顔の俊君が口を開いた。
「大丈夫ですよ、先生が生徒放り出したまま遊びに行くとは思えませんし。 それに姉さんにそんな度胸はありませんよ。 多分フードコートにでも居るんじゃないですか?」
確かに草加先生ならコレといった問題もなく「〇〇食ってきたわ!」なんて帰ってきそうな雰囲気はあるが、それでも心配なモノは心配なのである。
しかも相手は巡だ。
鶴弥さんを連れて行ったならゲーセンで一晩過ごそうが心配しないが、彼女は別だ。
あまりにも”彼に”近すぎる。
「これがひと夏の思い出……」
「不吉な事言わないで鶴弥ちゃん!」
「カブト虫には訪れない……ひと夏の……」
「もっと不吉になった! もう止めよう!?」
ギャアギャアと騒ぐ彼らを尻目に、唖然とする私の肩を俊君が落ち着けとばかりにポンポン叩く。
「とりあえず探してみましょう? こうしていても仕方ありませんし、姉さんは肝心な所でヘタレですから。 多分そういう状況でも途中で恥ずかしくなって逃げるのがオチです」
そんな誰よりも頼りになる言葉を胸に、ようやく踏ん切りがついた私は立ち上がった。
大丈夫だ、何だかんだ言って巡はストレートな表現やら行動に弱い。
彼女がそういう反応を示せば、草加先生が無理矢理襲う事なんてありえない。
つまりひと夏の思い出完全阻止だ。
本当に? 本当に大丈夫? なんて気持ちはあるが、あの二人なら多分大丈夫だろう。
そう信じてる、草加先生の自制心を私は信じる。
「よっし! それじゃ手分けして館内と念のため外の探索を——」
「——何騒いでんだお前ら?」
「あれ?」
居たよ、探す前に帰ってきたよ。
首を傾げた草加先生が、丁度玄関の方からお戻りになられた。
浴衣姿がとてもいいです、後で写真撮らせてください。
「それよりお前ら、黒家見なかったか? ここで待たせておいた筈なんだけどよ」
「先生と一緒じゃなかったんですか? てっきり姉さんと食事にでも行ったんじゃないかって話してたところなんですが……」
「あぁ、いや。 俺はちょっと外行ってた」
草加先生に近づいてクンクンと鼻を鳴らせば、微かに残る煙草の匂い。
あぁ、それなら間違いなく一人だったんだろう。
「……臭うか?」
「嫌いじゃないですよ?」
何て会話をしながら、草加先生は浴衣の袖から一台のスマホを取り出した。
どっかで見た事のある、ゴツイ見た目のスマホ。
確か衝撃に強いとか何とか自慢してたっけ、巡が。
「コレ黒家のだよな? 帰ってくる途中で落ちてたからよ、アイツも外に出たのかと思って探してきたんだが見当たらなくてな」
俊君にソレを渡し、本人も間違いないと頷いた。
え、巡スマホ落としてどっか行っちゃったの?
それ結構不味い気がする。
土地勘だってある訳じゃないだろうし、何よりこの時間だ。
一人で遊び歩いてるならまだしも、もしも攫われた、なんて事になってたら……
「ちっと外探してくるわ。 あいつが家に戻ったら連絡してもらうようにお袋にも電話しとくから、お前ら館内一回り探したら先帰ってろ」
すぐさま走り出そうとする草加先生に、俊君が慌てて声を掛けた。
「先生、僕もお供します!」
「いやお前はこっちに付いててやってくれ、何かあった時に天童だけだと対処出来ないかもしれんからな」
「そう……ですね……」
苦虫を噛み潰したような表情で、去っていく草加先生の背中を見送る俊君。
何となく不安になる空気だが、とにかく私達もすぐ動いた方が良さそうだ。
「俺の扱い、酷くね?」
「ヤンチャでマッチョな海の男たちに絡まれたら、天童先輩相手出来ます?」
「すんません、調子乗ってました」
「よろしい」
普段通りの二人の会話聞いて、少しだけ場の空気が和んだ。
とはいえ、やはり皆顔が少し強張っているけど。
「さて、それじゃ私達も巡を探そっか!」
部長様の居ない今、一番オカ研経験の長い私がしっかりしなければ。
なんて気合を入れた矢先「あ、その前に」なんて、俊君から止められてしまった。
何を思ったのか、彼はスタスタと迷いなく歩いていく。
よくわからないまま後に続けば、向かった先は玄関正面に設置された受付カウンター。
「すみません、この人見かけませんでしたか?」
自分のスマホを取り出し、それを受付のおばちゃんに見せている。
あぁ、なるほど。
そっか、当てもなく探すよりそっちの方が早いよね。
関心しながら後ろから覗き込んでいると、あばちゃんは「あぁ、この子ね」みたいな表情で頷いた。
「えらく可愛い子だったからよく覚えてるよ。 最初は楽しそうに笑いながら外に出てったんだけどねぇ、その後すぐだったかな? フラフラしながらそこの坂を下りてったよ? ホラ、目の前の坂。 ここからならよく見えるんだよ」
早くも館内に居ない事がわかってしまった。
ていうか何してんのさ巡。
フラフラ歩いてたって何、お酒でも飲んだの?
「ちなみに誰か一緒だったとか、どこに向かったとかわかりませんかね?」
「……アンタ達あの子の知り合いかい?」
「彼女は僕の姉です」
「あぁーなるほど。 ちょっとだけど似てるねぇ」
一瞬警戒した表情を見せたおばちゃんだったが、俊君の顔を覗き込んで軽快に笑う。
そんな事より、早くお話を聞かせて欲しい所なんですが……
「歩いてたのは一人だったねぇ、どこに向かったかまではちょっと……何かあったのかい?」
「そうですか……ありがとうございます。 連絡先を残していくので、もしも帰ってきたら電話してもらえませんか?」
「そりゃ構わないけど……なんか不味そうなら警察呼ぶよ? 大丈夫かい?」
こちらの雰囲気が伝染したのか、おばちゃんも不安そうな顔になってしまった。
彼女の提案に対して、俊君はしばらく悩むように顔を伏せると、静かに口を開く。
「いえ、まだ事態がはっきりしないので大丈夫です。 ありがとうございました」
それだけ言って立ち去ろうとする私達に後ろから、ため息交じりの声が響いた。
「人魚にでも攫われてなきゃいいけど、心配だねぇ。 何かあったらすぐ連絡するんだよ坊やたち!」
……え? 今何て言った?
「あの、人魚って、どういう事ですか?」
あまりにも不審な言葉に、思わず振り返って確認してしまった。
”そういったモノ”の名前は、出来れば今聞きたくはなかったのだが。
「ん? あぁ、この辺で昔から言われてる子供だましだよ。 女の子が一人で夜に出かけると人魚に攫われるぞっていうね。 まぁ夜道は危ないから気を付けなって事さ」
その言葉は今の状況と合わさって、余りにも不穏な空気を漂わせた。
まさかそんな言い伝えに遭遇する程、私達は運が悪い方じゃ……ないとは言い切れないな。
結局それ以上の話は聞けず、私たちは温泉宿から外に踏み出したのだった。
ふむ、やっぱし日常パートが続くと読み手は飽きちゃうのかな。
頑張ってホラーパートで挽回せねば。





