独りかくれんぼ 4
ゾッとするほど擦れた声が、部屋の中に響く。
大声を出した訳でもないのに、嫌という程耳に残る活舌の悪いその言葉。
それでもソレから目を離せない俺に変わって、胸のポケットから再び大きな声が上がった。
『先生、その質問に答えちゃダメです! はやく、はやく逃げてください!』
スピーカーから吐き出される彼女の声が、普段からは想像できないくらい切羽詰まっている事態だという事が分かる。
だがそれでも、彼は動こうとはしなかった。
ポケットからは未だうるさく感じるくらいに「逃げろ」という声が聞こえてくる中、おっさんは正面のソイツと改めて向かい合った。
「……いろいろとあったが、全部お前のせいって事でいいのか?」
その質問に答える事なく、乾いたような、擦れたような笑い声を上げ続けている。
「おう、答えろや」
さっきよりも幾分低くなった声に、目の前のソレもそうだが、スマホから聞こえてくる黒家の声も止まる。
そしてしばらくの沈黙の後、恐る恐るといった感じで声を上げたのは黒家だった。
『あ、あの先生。 とりあえずですね、この場から離れたほうがいいと思うんですけど……』
沈黙を突き通すソレと違って、黒家はどうにか状況を動かそうとしているようだが、今はそっちの相手をしている余裕などなかった。
「見エ……テル。 オマエ、見エテル」
「うるせぇ、さっさと答えろ」
やっとの思いで口を開いたかと思えば、また同じ内容を繰り返すソレに、若干の苛立ちを覚えながら、おっさんは足を前に進める。
胸ポケットからやけに騒がしい声が聞こえる気がするが、そんなものは無視を決め込んだまま大して遠くもない距離を詰め、ソレの目の前に立ちふさがる。
「コレは、てめぇの仕業かと、聞いてるんだ」
一言一句聞き逃せないようにゆっくりと丁寧に伝えてやると、目の前のソレがこれでもかと言わんばかりに口の端を釣り上げた。
「ソウ、ダヨ? 見エテル、ミツケタ」
ゾッとするような笑みを浮かべて、ソイツがそう呟いた。
『先生!!』
その叫びが途切れるかどうか、その僅かな時間。
目の前の不気味なソレは急に動き始め、まるで抱きついてくるかのように両手を広げて迫ってくる。
しかしその両手は、目的を果たす事なく宙を切った。
別に距離を見誤った訳でもなく、おっさんが飛びのいた訳でもない。
では、何が起きたのか。
少なくとも両手を伸ばしたソレと、通話越しの映像を見ている黒家には理解できるものではなかった。
「ハ?」
『は?』
短い言葉がシンクロする。
片方は単純な疑問を訴えただけであったが、もう片方は信じられないという目で見上げながらその言葉を口にしていた。
『先生、何したんですか……?』
スマホのカメラから映る光景に、若干目を疑いながら黒家は声を上げる。
そこに映し出された光景、ちょっと目を疑ってしまうが……さっきまで気味の悪い笑みを浮かべていたソレが地に伏せ、頬を抑えながらこちらを怯えた様子で見上げている光景だった。
「エ……エ?」
未だ状況が理解できていていない様子のソイツは、痛みに耐えるかの様に頬を押さえながら、這いずって後ろに下がっていく。
そんな相手に対して無言のままその体に馬乗りに座り、拳を振り上げるおっさんの姿が月明りに照らしだされた。
世にいう、マウントポジションである。
「まさかとは思うけどさ……こんだけ色々やらかして、タダで逃げられるとでも思ってんのか?」
その一言と共に、さっきとは逆の頬に振り上げた拳を叩きつける。
ウグェッ……とちょっと形容しがたい言葉を上げて、ソレは殴られた両方の頬を押さえてこちらを睨みつけてきた。
なかなか頑丈なようで感心である。
「まだまだ終わると思うなよ? お前にゃ器物損壊と不法侵入、それからその左手に持ってた……俺の2合の米を盗み出そうとした窃盗罪って奴が掛かってんだからな。」
『2合しか入れてなかったのかこの人……』
そう言われたカレは、先ほど殴られた拍子に取り落としたヌイグルミに視線を向ける。
たったこれだけの為に? そもそも中身足りてなくて、ヌイグルミ中途半端に膨らんでるし。
なんて思わなくもない状況だが、それでも彼の怒りは収まる所を知らないらしい。
「人の部屋の電化製品ぶっ壊して回った挙句、床まで水浸しにしやがって……ボッコボコにしてから警察に引き渡してやるから覚悟しやがれ! この不審者が!!」
その彼の目には、狂気そのものとでも言うべき怪しい光が灯っていた。
振り上げた拳を、全力で叩き込んでくる彼の様子に容赦という言葉はなく、一発叩き込むごとに頭が床にバウンドするという、傍から見ていたらとてつもなく悲惨な光景が繰り広げられていた。
『あ、あの……先生。 そろそろ、止めておいた方がいいんじゃないでしょうか? 呪われますよ?』
流石に見ていられないとばかりに、黒家が声を上げる。
この瞬間だけを他人が見ていれば、ただの行き過ぎた暴力事件にしか見えない。
「は? 呪い? ていうか、こいつまだまだ元気そうだぞ? もしかしたらこのまま逃げ出すかもしれん」
そんな事を言いながらただ殴り続ける彼の様子に、若干引き気味な様子の黒家。
いくらなんでもやりすぎなんじゃ……なんて思うのも無理はない状況だが、それに同意してくれる人間はこの場にはいなかった。
最初は擦り切れたような声を上げていたソレも次第に反応が薄れていき、今では何の抵抗もなく殴られている。
そろそろいいかと思われる所で、最後に一発大きく振りかぶった右ストレートをぶち込んでから、おっさんはやっと動きを止めた。
「まぁこれだけやれば流石に動かんだろう」
『いや、うん。 普通にやり過ぎだとは思うんですけど』
満足したとばかりに肩を回しながら、やっと気味の悪いソレから腰を上げる。
普通なら病院送りか、むしろこちらが加害者になりそうな映像を見せられ、やや疲れ気味な黒家も一息着くことが出来た。
「しかしなんだコイツ、汚ねぇ恰好してるが……ホームレスか? どうやって入ったんだろうな」
『汚い恰好ですか……というかコレを見てそういう発言が出てくる辺り、やっぱり先生はおかしいです』
とても失礼な事をさも当然の様に語る黒家だったが、当人はなんの事だろうと首を傾げるばかりだ。
「んな事いってもよ、実際ここに入ってきてる訳だし。 鍵閉め忘れたか?」
『こんな姿で、明らかに普通じゃない様子で、さらにどこから入ったかも分からない人が玄関に立ってたら……普通はもう少し動揺しますよ? それこそこの世の存在かって、普通は疑いますよ? 悲鳴のひとつでも上げてくださいよ』
「いやだって、どう見ても不審者だろ? そんなのを野放しにして、部屋を明け渡す方がどうかしてる。 それこそお前の大好きなオカルトなら、こんな風に殴ったり出来ないんじゃないのか?」
『う、う~ん。まぁそう言われてしまうと……』
そんなどうでもいい会話をしている最中だった。
相手が抵抗を無くし、もはや無力化したとばかり思いこんでいた二人。
その油断から来た隙をつく形でソレは素早く立ち上がり、足をもたつかせながらも玄関へと走り出したのだ。
「んな!? おい、コラ待て!」
一瞬唖然としてしまう行為ではあったが、すぐに意識をソレに切り替えて後を追う。
普通の人間なら、あそこまでやれば立ち上がる事さえ出来ない。
普通の人間なら、あんな状態でそこまで素早く動く事は出来ない。
そんな油断が、今の状況を生み出してしまった。
つまり相手は相当な手練れか、相当我慢強い輩だったという事だろう。
何故最後に意識をちゃんと確認しなかったのか、無意味だと思ってもしっかり縛っておけば良かったものを。
なんて一人後悔しながらその後ろ姿を追いかける。
後悔の念が渦巻く中、胸ポケットから黒家の声が響く。
『どうせなら腰のベルトのガラケーを開いて、スイッチを押して……どうぞ』
その場にそぐわない、よく分からない的外れな指示が飛んできた。
なんの事かと一瞬戸惑ったが、腰回りをこれでもかと言わんばかりに照らし出しているソレに視線を送り、今自分が何を装備しているのかを思い出したおっさん。
両足を懸命に前に進めながら、それでも指示を受けたからにはやってやらねばとばかりに、ベルトに付いているガラケーを開いた。
まるでスローモーションにでもなっているのではないか、そんな風に感じられるくらいに無駄な集中力を発揮してスイッチを探す。
不審者を追いかけながら何故こんな事をしているのだろうという、今更過ぎる疑問を思考の端に追いやってそれらしいスイッチを押し込んだ。
その行動の影響か、はたまた更にぶっ壊れたのか。
さっきから不具合を起こしまくって騒がしかったベルトが、スイッチを押した瞬間これまで以上にビカビカと輝き始め、けたたましい効果音が周囲に鳴り響いた。
そしてこれが最後の天命と言わんばかりに、ベルトから響く電子音じみた声が、高らかに宣言する。
『STANDING BY!』
電子音が廊下に響いた瞬間、何事かと振り返ってしまった不審者。
結果的にその行動が、逃亡中のソレに致命的な隙を与えてしまった。
逃げるソレを、無駄に腰回りが輝くおっさんが後ろから迫る。
後僅かな距離で玄関に差し掛かるであろう、それこそ数歩で扉に手が届くという所で、彼ら二人の行動は大きく分かれてしまった。
片や信じられないモノを見る目で、髪に隠れた瞳を大きく広げて立ち止まり。
もう片方はまるでアクション映画のスタントマンの如く、空中に飛び上がりながら右足を前方の不審者に向かって突き出したのだ。
「せいはーー!!」
『ちょ、先生ソレ違う作品——』
黒家が思わず叫んだ言葉が終わる前に、おっさんの踵は不審者の顔面を捉えた。
勢いが乗りすぎたのか、玄関がとんでもない音立てながら蹴破られ、不審者共々外まで放り出されてしまう。
吹っ飛ばされた勢いのまま不審者はゴロゴロとアパートの共有通路を転がっていき、おっさんはその近くに難なく着地した。
勢いのあまり外に出てしまった訳だが、そんなものは関係ないとばかりに腰に装着したベルトの電子音が唸りをあげる。
輝く夜景に負けじとばかり輝くこの厄介なベルトは、ココだと言わんばかりにデカい声で告げるのであった。
『COMPLETE!』
その電子音声は静かな夜の街に響き渡るかの如く、高らかに宣言される。
もちろんここは部屋の外である、野外なのである。
それこそまだ起きていた住人が顔出すくらいには、そこら中に響き渡ってしまったのだ……
『最後がラ〇ダーキックの音声じゃなかった事に、若干の不満が』
やかましいわ。