蟲毒 4
ひたすら長いだけの廊下を、私はただ走り続けていた。
後ろから聞こえる異音は、近くもなく遠くも無い。
ただひたすら一定の距離で追いかけ続けてくる。
たまに左右から飛び出してくる『雑魚』にも気を配りながら、建物の外周を回るようにして走り続けた。
とはいえ……
「ちょっとそろそろ厳しいかも……」
今は頭と腰の下辺りから生えている、謎の物体のお陰で普段よりずっと体は軽い。
見た目こそ最初は心底驚いたが、中々に便利な代物であることは確かだった。
これを出している間は妙に運動神経が良くなるし、何よりびっくりするぐらいスタミナが続くのだ。
いつか見た草加先生のパルクールに憧れて、こっそり深夜に挑戦してしまったくらいだ。
その後巡には怒られてしまったが、どうしてもやりたかったんだ仕方ないじゃないか。
とはいえ、この状態でも体力が無限にある訳じゃない。
速く走ろう、高く跳ぼうとする程、体力がゴリゴリ減っていく感じがする。
パルクールを試した時は10分もしない内に限界を感じたし、今みたいに走り続けるだけだって、そう長く持つとは思えない。
しかも試した結果、耳を仕舞った後は後遺症とも呼べる脱力感に襲われるのだ。
手足が鉛の様に重くなるし、指先一つ動かすのだって億劫に感じる。
だからこそ、乱用するべきではない事は分かっている。
でもこうしなければ逃げ切れないのだ。
徐々に体が重くなり、息が上がる。
しかし今は耳をしまう訳にも、休む訳にも行かない状況。
だからこそ、こうして走り続けている訳だが。
「なんなのアレ! 蛇じゃないよね!? もう違う生き物だよね! キモチワルイ!」
背後に視線をやれば、追いかけてくるのは先程と同じ蛇……とはとても思えない程異様なナニか。
頭の先には眼球のない人の顔がいくつも張り付き、体の側面からは真っ白な人間の手足がいくつも生えている。
もはや幽霊だのなんだのではない、ただのモンスターだ。
今までは同体で這いながら移動していたというのに、今や生えた手足をシャカシャカと動かしながら追ってきている。
見た目はグロテスクな百足に近いのかもしれない。
アレが本当の百足です、実は進化します! なんて言われたら、多分私は明日から殺虫剤片手に引き籠るだろう。
それくらい気持ち悪いモノが、とんでもないスピードで追ってくるのだ。
もはや悪夢、というかこれから毎晩夢に出そうな醜悪な見た目をしている。
どうしてこうなった。
——忌ミ子、忌ミ子ヲ……
「あぁもうさっきから本当にうっさい! ”いみご”って何さ! 私はそんな名前じゃないって!」
忘れた頃に飛び出してくる『雑魚』を躱し、再び振り返ると丁度『上位種』の口の中に収まる瞬間だった。
噛んでるし、蛇の癖にめっちゃかみ砕いてるし。
ソレを飲み下すとまた新たな”顔”が現れ、キモさをましていく。
もはや泣きたい、というか既に泣いている。
「やだぁ! あんなのに食べられたくない! 絶対無理! 草加先生ぇぇぇ!!」
叫ぶだけ無駄な体力を使っていると分かっていても、叫ばずには居られなかった。
この声が届いて、彼が助けに来てくれる妄想を何度した事だろう。
しかし悲しい事に、これだけ走り回ってもこの瞳に映るのは死者ばかり。
巡がいたからこそ気丈に振る舞っていたが、その彼女さえ今は居ない。
もはや心が折れそうだった。
そもそも私は彼女の様に強い心を持っていない。
皆と出会う前は怯えて隠れて、眼を反らしながら生きてきたのだ。
そして彼のような強い力も無い。
だからこそ、こんな異常事態に真っ向から立ち向かえる程の勇気なんて持ってない。
弱いんだ、泣きたくなるくらい貧弱なんだ。
”抗って”みないかと誘われたあの日、私も変われるような気がした。
でもどうだろう? 怖い思いをした、狐に憑かれた、そして今は逃げる事しかできない。
私は、とてつもなく無力だ。
そんな事を考えたら、流れていた涙の量が倍増した。
もはや洪水レベルだ、水不足まっしぐらだ。
視線はボヤけて、前が良く見えない。
ひたすら足を動かしているが、今はどこを走っているのだろう。
もう5分くらいは経っただろうか? もしかしたらまだ全然経っていなくて、このまま戻ったら巡にまた怒られちゃうかも。
「でも、戻った先で巡も食べられちゃうのは……嫌だなぁ……」
ポツリと、自然に言葉が漏れた。
やっと出来た、何も隠さずにいられる友達。
そのままの私で居させてくれる彼女。
失いたくない。
ならいっそ全部諦めて、少しでも時間を稼ぐ為に私が食べられてしまえば——
「——夏美!!」
思考を遮るように、怒鳴り声が響いた。
走っている目の前の通路、その一番奥。
一瞬幻覚か何かと目を擦ったが、その姿は消えなかった。
いつの間にか戻ってきてしまった?
建物を一周した後、記憶に残っている道を無意識に選んでしまったのかもしれない。
時間は? 彼女は5分と言ったが、大丈夫なのだろうか?
私はその短い時間を、稼ぐ事が出来たのだろうか?
「通路の真ん中を真っすぐこっちに! 合図したら目を瞑ってください!」
回らない思考回路が、ただただ彼女の言う事に従っている。
疲れ切った体に鞭を打ち、後ろから聞えてくる音を引き剥がした。
「今!」
その声と共に目を瞑った。
しかしこれからどうすればいいのか、走り続ければいいのだろうか?
そんな疑問を抱いていた私のすぐ近くでバチッ! といつか聞いた音が響き、瞼の向こうが明るくなった。
その直後私の体を何かが包み込み、そのまま横に跳んだ。
すぐ近くを何かが通り過ぎのが分かる、とんでもない勢いで横を突き抜けていった様だ。
「げほっ……結構な、勢いですね……」
「ご、ごめん巡! 大丈夫!?」
こっちもこっちで良い勢いで突っ込んでしまっていたらしい。
私の返事には答えず、苦しそうに胸を押さえた彼女はそのまま上半身を起した。
視線の先にあるのは、先ほどまで後ろを追って来ていた『上位種』の姿。
しかしソイツは倉庫の中に体の半分以上を突っ込んで、ビタンビタンと転げまわっていた。
勢いが殺せなかったとか? いやまさかそんな馬鹿な。
相手は蛇というか、今では百足だ。
ならそんな猪みたいに突っ込まず、急カーブでも容易に曲がってきそうだが......
「あの油ですよ。 通路の真ん中以外はたっぷりとぶちまけて置きました。 あの図体じゃ人と同じ幅で移動するのは無理でしょうからね」
そういってから巡は、手に持っていたライターに指を掛ける。
そのままシュボッと音を立て、火のついたソレを振りかぶった。
「こんな『迷界』の中なら、放火したって誰も文句言いませんよね?」
やけに物騒な台詞と共に、彼女は床に広がった油に向かって火種を放り投げた。
映画の様に一瞬で燃え上ったりはしないが、それでもみるみる内に火の手は広がっていく。
床を這うように広がった炎はやがて蛇に辿り着き、そのまま倉庫の中へと矛先を伸ばしていった。
油が燃える匂いと、古い木が燃える匂い。
そして——
「巡、ちょっと不味いかも……」
「え?」
恐らく身体能力が上がり、五感さえ研ぎ澄まされる狐憑きの状態だったからこそ嗅ぎ分けられたであろう匂い。
さっきまでは気にならなかったその匂いが、私の嗅覚を刺激していた。
「これ、多分火薬の匂い」
「もしかして、もう一方の箱の方ですか……」
「多分……」
「逃げますよ!」
二人揃って脱兎のごとく走り出した。
木箱はそんなに多くなかったと思うが、どれ程の量が入っていたのかは確認していない。
しかも火薬というものが、どれくらいの量でどんな威力になる、という知識など持ち合わせていないのだ。
とにかく遠くへ、なるべく早く。
それだけを考え、二人で長い通路を走り抜けた時。
ドッ! と短い音が聞え、衝撃に体を持っていかれた。
前方に吹っ飛ばされるように体は転がり、視界に白い霧が掛かる。
キーンというやけに大きな耳鳴りがして、周りの音が聞えなくなってしまった。
「——! ……——!!」
倒れた私を揺さぶりながら、巡が何かを叫んでいる。
私だけ耳がおかしくなってしまったのだろうか?
あぁなるほど、そりゃそうだ。
狐憑きの状態から元に戻る事を忘れていた。
当然の様に聴覚だって良くなっているんだ、巡より鼓膜にダメージが来るのも当然だろう。
それこそ爆発音だって、もっとド派手に鳴り響いたのかもしれない。
しかも今更になって耳は引っ込み、とんでもない脱力感が襲ってくる。
困った、体が動いてくれない。
「——みっ!? ——、——い!!」
少しずつ耳が馴染んでくるが、未だ聞き取れない。
そしていつまで経っても起き上がらない私に焦れたのか、巡が自らの肩に私の腕を回し、無理矢理歩き始める。
目の前に広がるのは美しい模様のガラスに包まれた渡り廊下。
ボヤけた瞳にその光景を映しながら「あぁ、離れみたいな建物なんてあったんだ……」なんて場違いな感想を思い浮かべた。
「絶——、逃げ——ますよ!」
少しずつ、本当に少しずつ聞えてくる声は、とても焦っているようだった。
チラチラと後ろを振り返る巡は、私を引きずるようにして必死に前に進んでいる。
鉛の様に重い体を動かし、首を捻って彼女の視線を追いかけると。
「……う、そ……だ」
体の様々な部分が欠損した様な姿の蛇が、私達を追いかけてきていた。
先ほどまで生えていた人間の手足は、焼け焦げた枯れ木の様に次から次へとこぼれ落ちていき、前面に張り付いていた人の顔も、不要になった鱗のようにポロポロと剥がれていく。
そして残ったのは最初に井戸で見た蛇。
あれだけの爆炎の中、しかもその中心地に居たと言うのにまだ動けるのか。
体中負傷は追っているようだが、私達二人を喰い殺すくらい簡単にやってのけるだろう。
「わた……、置いて……って」
「黙れ馬鹿! いいから前だけ見てなさい!」
体がほとんど動かない私は、完全に足手まといでしかない。
だというのに巡は、決して私を手放そうとはせずに必死に前へ進んでいく。
戻ってきた聴覚は、すぐ後ろから這いずる音を捉えた。
背中に息が掛かっているのではないか思う程、アイツの圧迫感を背後から感じる。
このままじゃ二人とも……
「あぁもう! 先生! どっかに居るならさっさと助けて下さいよぉ!!」
泣き出しそうな巡の叫びが、長い廊下に響いた。
あぁもう駄目だ……そう思った時だった。
通路の左右を囲むように続く、美しい窓ガラス。
そのどこかが割れる音が響いた。
その直後何か重い物がぶつかる衝撃音が響き、背後からは獣の悲鳴が木霊する。
何が起こった?
唖然とする私達は、自然と背後に視線を向けた。
そこには。
「おう、おまたせ」
今一番会いたかった人が、デカい蛇の体に杭をぶち込んでいたのだ。





