蟲毒 3
あぁもう、どうしてこうなるかな。
背後でズルリズルリと大きな音を立てながら、アイツが通り過ぎていく。
襖一枚挟んですぐ後ろにあんなものが居ると考えると、とてもじゃないが生きた心地がしない。
夏美と二人して息を殺しながら、ジッと身を潜めて通り過ぎるのを待った。
間違いなく通ってる、通っているというのに。
どんだけデカいんですか! いつまで経っても全体が通り抜けないんですけど!
心の中では大声でそう叫びたかった。
ゆっくり動いてるのも原因の一つなんだろうが、随分と長い時間背後から擦れる音が聞えている。
まさか真後ろでずっとぐるぐるしてる訳じゃあるまいな……なんて不安が増していくのも、この状況では仕方ないだろう。
とはいえ緊張に耐えかねて飛び出したり、今下手に動いたらろくな事にはならないだろう。
隣で肩を震わせている夏美なんか、顔を真っ青にして額に汗を浮かべている。
息を潜めろとは言ったけど、まさか息を止めているわけじゃないよね? 呼吸してるよね?
こっちもこっちで不安にさせてくれる、困ったものだ。
ただ不幸中の幸いだったのは、今回の『上位種』が私達を追いつめる為だけの『迷界』を作っていなかった事。
前回の様にあからさまな逃げ道を作って誘導したり、どこかに追い込もうとしている雰囲気は今のところない。
『雑魚』の数は相変わらず多いが、かなり場所がバラけている。
その為こうやって身を隠す事も出来る訳だ。
恐らくこの『迷界』はあの蛇が造った、というより記憶の中の建物をそのまま再現した、という言い方のほうが近いのだろう。
「そろそろ……いいですかね」
随分遠くなった蛇の移動音に耳を立てながら、襖の隙間から顔を出す。
中庭を挟んだ向こう側の通路、その突き当りにアイツの尻尾が消えていくのが見えた。
「行きましたよ、もう大丈夫です」
「……ぷっはぁ!」
どうやら本当に息を止めていたらしい。
青い顔の夏美は、ぜぇぜぇと苦しそうな呼吸を繰り返しながら腰を下ろした。
「大丈夫ですか? 息を潜めるのと、息を止めるのは違いますよ?」
「ん、後々から気づいたけど、もはや手遅れだった……途中で息継ぎしようとしたら、やばい所で絶対ぷはぁっ! ってなってたし」
さようでございますか……まあ無事ならそれでいいが。
とにかく、この場を離れよう。
『上位種』はやり過ごしたが、私達の障害はソレだけではない。
さっきから徘徊している『雑魚』だって、いつこの場に顔を出すかわからないのだ。
「大丈夫そうなら行きますよ? 『雑魚』が3~4体こっちに向かって来てます」
距離としてはかなり近い、しかし襖とは反対の壁の向こう側だ。
カレらを撒くなら今の内だろう。
「次から次へと……本当に休ませてくれないね……」
なんて愚痴を溢しながら、夏美はゆっくりと腰を上げる。
さて、これからどうしようか?
先生達が『迷界』の中に迷い込んでいるのは間違いないと思おうが、自ら探すべきか、それとも隠れながら状況の変化を待つべきか。
安全面だけ考えれば後者だろうが。
しかし先生と『上位種』をぶつければ解決、という絶対的確信が持てない今の状況なら前者だろう。
どうしたものか、正直どっちもどっちだ。
今回の相手は爬虫類、あんなデカい図体をしていても、壁さえも這いまわるだろう。
そうなるとこちらの方が絶対的に不利だ。
しかも周りにはカレらが蠢いている、障害が多い事この上ない。
「さて、どうしますかね……とりあえず『上位種』と反対側に歩きながら考えますか」
顎に手を当てながら、夏美を引きつれて廊下を歩き始める。
長い廊下、やはり『迷界』だけあって現実のそれとは違うらしい。
左右にはいくつもの襖が並び、建物を外から見た時にはありえないと思える距離が伸びている。
あの獣には”とにかく長い廊下”とか感じた物が、そのまま言葉通り再現されているかのような風景だ。
「とにかく先生達と合流する事が最優先だよね……ちなみに荷物は何があるの? さっきと同じような事、後何回出来そう?」
貴女はまだ同じような事やる気ですか……なんて思わなくもないが、最悪の場合それもお願いする事になるだろう。
何度も使用している内、彼女に影響が無ければいいが。
「お手製閃光手榴弾が二つ、それから……殺虫スプレーとライターが一つ、です……」
「な、なんで殺虫スプレー?」
「だってホラ、一応蟲毒だって予想は立ててましたから。 その、虫だと思って。 まさか蛇だとは思いませんでしたけど……」
全く意味のない物を持って来てしまった、その事実はその物を持っているというだけで恥ずかしい出来事だろう。
旅行や外泊時に、完全に余計な物を持って行ってしまい、ソレを発見された事のある人には分かる羞恥心だと思う。
というかそう思いたい、誰でもいいから賛同してくれ。
「ま、まぁ虫もいっぱい出るし、試しに使ってみるのもいいんじゃないかな!」
もはや彼女の気遣いが痛い、とても心が痛い。
いくら虫の姿をしているとは言え、彼らは怪異だ。
よくよく考えてみれば、こんな物が本当に効くんだろうか?
今すぐに殺虫スプレーを投げ捨ててやろうかと考えたが、それこそライターで炙りながら噴射して火炎放射器(仮)にでもしてやろうか。
むしろそれくらいしか使い道が無いように感じる。
まぁ火を放った所で、カレらに通用するとも限らないのだが……
そんな事を考えながら通路を進んでいくと、やけに大きな扉に行き当たった。
なんだろうか? 今までとは違い、少し物々しい雰囲気を放っている。
まさか前回のように、上位種がすぐ近くに居るエリア……という訳ではないだろう。
さっき逆方向に這って行った訳だし。
警戒心を高めながら、扉を開いてみると——
「倉庫、かな?」
多分、彼女のいう通りなのだろう。
目の前には大きな木箱や樽、そんなものがそこら中積み重ねられる様に並べられていた。
薄暗い室内、埃っぽい空気。
そして棚に並べられている行燈や提灯、それに使われるであろう布や蝋燭などが並べられている。
「ここは備品保管庫か何かですかね? 蛍光灯なんてもちろんの事、ランタンすら無い所を見ると、この建物かなり昔の物な気が……」
正確にどれくらいの年代とか、何時代の物だなんて事は分からないが、とんでもなく昔のお城な気がする。
そんなものを『迷界』で再現するってどういう事だ。
あの蛇はその時代に生きていた……というか使われた物であり、その呪いが今も生きているとか?
ちょっと考えにくい気もするけど、呪いに有効期限があるのかどうかなんてわからない。
これはもしかしたらとんでもない大物を引き当ててしまったのかもしれない。
全然、これっぽっちも嬉しくはないが。
「確かに見知った物が無いねぇ。 この箱とか樽って何が入ってるのかな? 開けてみる?」
「いや、どうやって開けるんですか。 樽なんか特に、きっちり口が閉じてるでしょうからね」
「それもそうかー……あっ、その辺の道具で割ってみるとか!」
「脳筋2号はこれだから……」
もしかしたら正式な開け方というか、簡単に開ける方法があるのかもしれないが、残念な事に私はそんなもの知らない。
というかもし開いた所で、何か使える物が出てきてくれるのならいいが……多分望みは薄いんじゃないかなぁ。
そもそも『迷界』の中の物って使えるの?
触れる事は出来るので物として扱える事は間違いないのだが……『上位種』に効くんだろうか?
なんて事を考えてる内に、部屋の中からベキンッ! と木材の割れるような音が響く。
まさかまた何か起きたのかと慌てて振り返ると、そこにはどこから見つけてきたのか、木槌を振り下ろした夏美の姿があった。
「……なにやってんですか、貴女は」
「あ、いや。 コレ見つけたから、お正月に酒樽とかでやるじゃん? アレみたいに開かないかなぁって。 んで、開いちゃった……アハハ」
「アハハ、じゃないですよ。 音にアイツらが寄ってきたらどうするんですか……」
さっきまで音を立てない様に隠れていた事を忘れたわけじゃないだろうに、何やってるんだコイツは。
そこまでして中身が気になったのだろうか、どうせロクな物なんて入っている訳が……
「で、でもホラこれ! 中身油だよ! 匂いからして多分」
「油? あぁ行燈とかに使う奴ですかね? にしては随分量が多いですけど」
彼女の言う通り、樽の中には粘度の高そうな液体がなみなみと詰まっていた。
普段嗅ぐ調理油なんかとは違い、少し鼻につく匂い。
松脂とかそういうものなのだろうか? ちょっと嗅いだ事が無いので自信は持てないが。
もしもここにある全ての樽の中身が、同じように油が詰まっているのだとしたら、一体これ程まで量を何に使うつもりだったのか。
「アレかな、海外映画とかでよくある樽に火を付けて敵陣に放り込むやつ。 火炎瓶のでっかいバージョン?」
「あぁ~そうなんですかね? じゃあこの量は戦の準備的な? 詳しくは知りませんが」
何となく理解できたような、出来ないような。
まあとにかく油が出てきた所で今の私達に役に立つかと言えば……特に思い当たらない。
この建物に火を付けて一発解決じゃぁ! みたいな事をするなら分かるが、流石に危ないだろうし。
要はハズレ部屋という事なんだろう。
「まぁそろそろ気は済んだでしょう? 段々近づいてくる『雑魚』の反応もありますし、さっさと場所を移しましょう」
「え? 持って行かないの? 巡の装備少ないっていうから、てっきりココで何か調達するかと思ったのに」
お前は何を言っているんだ、という顔を向ける前に、夏美の方からそんな顔を向けられてしまった。
何を考えているんだ、こんな樽を担いで『上位種』から逃げろとでもいうのだろうか。
流石にそれは御遠慮願いたい所なのだが。
「あーいや、それこそ何かに詰めて火炎瓶! とかさ。 そういう事やるのかと思ってた」
アハハ、と困った様に笑う夏美を見て、思わずため息が零れた。
彼女は私を一体なんだと思っているのか。
「とにかく、油を詰める瓶だってないんですから、どうしようもないです。 早く行きますよ? さっきも言った通り『雑魚』が——」
呟いたその時、私の背中にゾッと寒気が走る。
夏美と向き合っていた為、現在開いた扉に背を向ける形で立っていた筈だ。
その背後、つまり扉の前に誰かが立っている気配を感じた。
『感覚』には映らない、誰かが。
——忌ミ子。
その声に、思わず振り返った。
枯れた喉から無理矢理絞り出した様な声、ボサボサの長い髪に薄汚れた袴姿。
そして何より、蛇の様なギョロっとした瞳が、私を見下ろしていた。
コイツ、まさか……さっきの蛇?
「だあああっ!」
声に似合わない叫び声を上げながら、狐の耳を生やした夏美がカレに向かって突っ込んだ。
あまりにも人間離れした速度の彼女に正面から激突され、目の前に居たカレは夏美と共に床の上を転がっていく。
私が事態を頭で理解するよりも早く、夏美は床をゴロゴロと転がった末に立ち上がって叫んだ。
「巡! 時間稼ぐから何か考えといて! ちょっと行ってくる!」
「はぁ!? 貴女何言ってるんですか!」
返事も返さず踵を返した夏美の前に、再び黒い霧が大量に現れる。
恐らく耳を出した影響なのだろうが、この状況は実に良くない。
後ろ……というか私と彼女の間にはさっきの蛇の目をした男、そして前方には大量のカレらが居るのだ。
もはや迷っている暇など無かった。
私はポーチからお手製の閃光手榴弾を取り出して思いっきりぶん投げた。
御大層な名前を付けたが、実際大した代物ではない。
車用の光量の強いバルブをフィルムケースに突っ込んで、高電圧の電池を意図的にショートさせ、一瞬だけ強い光を放たせる。
ただそれだけの代物。
それでも『雑魚』には効いたのだ、ほんの一瞬でも怯んでくれればそれでいい。
彼女の、夏美の逃げ道さえ作れれば意味のある攻撃だ。
「ナイスっ! 行ってきます!」
そんな掛け声と共に走り出そうとする彼女に対して、思わず大声で叫んだ。
こうしておかなければ、彼女がそのまま帰って来ない気がして。
「5分したらココに戻ってください! 何とかします!」
「了ー解!」
力強く地面を蹴った夏美が、黒い霧を飛び越えていく。
走り幅跳びの要領で飛んだ様だが、どう見ても人間のソレとは大きくかけ離れている。
高さも距離もその速度も、全く……お狐様に感謝しなければ。
「ホラこっちだよ! さっさと来い!」
夏美が飛び越えた先で叫んでいるのだろう。
今まで目の前に腕を翳して眩しそうに居座っていた男が、その声に反応したように黒い霧に向かって歩き始める。
——忌ミ子、忌ミ子……
ブツブツと呟きながら、黒い霧に向かって飛び掛かった。
そしてその体がブチブチと何かが切れる嫌な音を立てながら、先ほどの蛇へと変貌した。
やはり、あの男がさっきの『上位種』だったようだ。
どういう原理かはわからないが、人の体に変異して私の『感覚』を逃れていたらしい。
いや、もしかしたら敵意のようなものを振り撒いていなければ、『感覚』には掴まらないとか?
前回の死刑囚でも何度かあった様に、今回も気配が消えたのだ。
『上位種』には何かしら、自身の身を隠す手段があると思った方が良いだろう。
——邪魔ダ。
そんな声と共に、大蛇は目の前に広がる黒い霧を大きな口で蹂躙し始める。
先ほどと同じだ。
障害になったカレらだけを排除するかのように啄み、その身に取り込んでいく。
これ以上進化? はしてほしくない所だが、今の状況では致し方ないだろう。
とはいえメキメキと体の形が変わっていく蛇が、通路の向こうに消えた光景はあまり心臓に優しく無いが。
とにかく、夏美が時間を作ってくれたんだ。
私は私が出来る事をしないと……とはいえ、何をすればいい? 今の私に何が出来る?
何も浮かばずイライラとすると頭を軽く叩きながら、周囲を見渡す。
目の前に広がる通路……は何も無いし、左右にも通路は伸びているが何があるのか分からない。
今から行って探索する余裕はない、そうなると背後にある倉庫だけ。
その中にあるのは古めかしい道具の数々と、全部油だと思われる樽がいくつか。
木箱は未だに何が入っているのか分からないが、確認している時間はないだろう。
どうする? 私が言った通り夏美が帰ってきてくれるなら、時間は後5分しかない。
手持ちの道具は更に減り、効くかどうかも分からない『迷界』の中の道具がチラホラ。
今から夏美を追いかけた所で走る速度が違う、二人で再び逃げるというのは得策じゃないだろう。
こんな状況、どうすれば切り抜けられる?
「あぁ、もう! 時間がないというのに!」
八つ当たり気味に蹴飛ばした樽が揺れ、中の油が飛び散るように地面に広がった。
ジワリジワリと床を染め、一筋だけ伸びた油が私の足元に流れてくる。
その光景を静かに眺め、油が自身の靴に触れた辺りで、ポツリと言葉を洩らした。
「……一か八か、やってみるしかないですかね」
言うと同時に、そこら中に積みあがった樽を思いっきり崩した。
とてもじゃないが持ち上げられる重さではない。
崩れた物から転がして、また次の物を移動していく。
なんとも地味で時間の掛かる行為だ。
でも、他には思いつかない。
可能な限り素早く動いて、”その”準備を整えていく。
「素人がやることですから……失敗しても文句言わないでくださいね、夏美。 まぁ相手方に訴えられる事はないから、そこは安心ですけど」
大体思いつく限りの場所に樽を設置し、端から順に木槌を叩き込んでいく。
中から溢れ出る油の匂いに鼻をしかめながら、べとべとになった顔を袖で拭う。
どうにかなるのかなんて分からない、けどこれ以外思いつかなかったのだ。
その場凌ぎ、安直で子供っぽい、そして危険な作戦の準備を整えていった。
後は……
「ちゃんと帰ってきてくださいね、夏美」
サイドポーチから取り出したオイルライターを、キンッ! と甲高い音を立てて開いたのだった。





