トイレの花子さん 3
20時を過ぎた頃、事態は急に動き始めた。
茜さん曰く、周囲から多くの霊が集まってきているらしい。
「何が起きた? まるでこの時間を待っていたみたいに……こんな事ってあり得るのか? でももしかしたら呪具の類で」
「徹先輩! それどころじゃないです! ってあぁもう! 『部長! 来ます!』 不味いですよ、向こうが“未来視”で確認できました!」
思考に耽っている内に、日向ちゃんがインカムに向かって叫び声をあげた。
彼女の“未来視”が何かを捉えた。
詰まる話、害をなす霊が現れ始めたという事なのだろう。
色々気になる事は多いが、全部後回しだ。
今はとにかく部長の元へ行かないと。
言葉にせずとも全員が同じ心境だったようで、僕たちは教室を飛び出した。
例のトイレとの距離はほぼないと言っていい、すぐ目と鼻の先だ。
だというのに、廊下に出た瞬間僕達全員が足を止めた。
「茜姉さん?」
先頭に立っていた俊君が、訝し気な声を上げる。
声を投げかけられたその相手は、廊下の真ん中でこちらに背を向けて立っていた。
一体何をしているんだろう?
そんな疑問は、彼女の先へと視線を送った所で答えが分かった。
“白い霧”
普通に聞けば当然の自然現象だが、この場に置いてはあり得ない光景。
人に近い形をした“白い何か”が、茜さんの前に立っていたのだ。
なんだアレ、今までに見たことがない。
「こんばんは、お嬢さん。 何か御用かな? ちょっと私達急いでるから、そこをどいて欲しいんだけど」
彼女の眼には、アレが少女の形に見えるのか?
僕たちにとっては白い霧にしか見えない物体が、かすかに揺れ動いた。
「っ!」
「徹君、待って。 この子は“殺しちゃ”ダメだよ」
思わずお札を入れたホルスターに手を伸ばした僕を、茜さんは静かな声で制止を掛ける。
アレは何だ? 幽霊である事に違いはないと思うが、今までに見たことの無いタイプだ。
上位種? いや、しかし姿が見えない。
それに“殺しちゃいけない”って、どういうことだ?
既に死んでいるモノに対して、その言葉選びは間違っている様な気が……
などと思っている間に、インカムから部長の声が聞こえてくる。
『皆聞こえますか? 少し手を貸してください。 これはちょっと厄介なのが出てきました』
どうやら向こうも不味い事態が発生したらしい。
だとしたらこんな所で油を売っている暇は……
「君、まだ生きているよね? なんでこんな所に、そんな姿で?」
茜さんの声を聞いた瞬間、思考が止まった。
彼女は今何といった? 目の前の白い霧の彼女は、未だに生きている?
考えられるとすれば生霊、という事なんだろうか。
幽体離脱とかそういった現象も聞いた事はあるし、渋谷もソレに近い状態なのだとは思っていたが……実物は初めて見た。
もしもこの場で彼女を消してしまったら、生きているその肉体はどうなるのか。
そう考えた瞬間、ゾッと背筋が冷たくなったのを感じた。
それだけはダメだ、絶対に避けたい事態。
でもどうする? いつも通り攻撃する訳にもいかないし、横を素通りさせてくれるかも分からない。
ここは茜さんに交渉を任せるしか――
『上島君、俊君! どっちでもいいですから攻撃手が必要です! 今すぐに!』
悩んでいる内に、部長からの緊急コールが入った。
不味い、本気で不味い。
あれ程“強い異能”の持ち主が、僕らに救援を求める程の相手が現れてしまった。
いくらなんでも、こんな所でゆっくりお話合いをしている時間はないのだろう。
「茜さん! 部長からの緊急コールです! 早くしないと!」
「分かってる。 でもこの子意識が曖昧なの……もう少し待って!」
茜さんからも少なからず焦燥感が伝わってくる。
不味い、兎に角無理やりにでも事態を動かさないと。
部長の音叉さえ効かない相手が出たとするならば、それは確実に命に関わる事態だ。
そして一緒に居るのは渋谷。
あいつは“眼”であり、怪異と戦闘する術は一切持ち合わせていない。
「すみません部長! こっちもこっちで何か変なのが、すぐそちらに向かいます!」
自分自身でも、言ってどうなると返したくなる様な言い訳だった。
とはいえ、叫ばずには居られなかった。
状況説明、情報共有。
そんな言葉を使えば少しは言い訳らしくなるだろうか。
だとしても今、部長と渋谷の元に“ナニか”が迫っているのだ。
すぐにでも飛び出したい気持ちを抑えながら、茜さんの背中を睨んだ。
「茜姉さんが今調べていますのでもう少しお待ちを! あぁもう、上島先輩! 僕らどっちかだけでも向こうへ行きましょう! 茜姉さん! はやく!」
流石に焦れたのか、俊君まで叫び声を上げ始めた。
その声に反応して、茜さんが奥歯を噛みしめた様な音が聞こえ、再び口を開いた。
「お願い、答えて。 私達は“貴女”を害するつもりはない。 目的を教えて、貴女という不安要素があると私達は容易に動けないの」
幾分か苛立った口調の言葉を紡ぐ彼女から、少しずつ“上位種”としての気配が漏れ始める。
間違いなく焦っている。
今すぐにでも部長の元へ飛び出したいのは全員同じ。
最悪の場合、彼女は目の前の“生霊”を消すつもりなんじゃ……などと思った瞬間、僕たちの後ろから小さな声が響いた。
「あの、彼女は多分大丈夫です。 “何も見えない”ので。 きっと通り過ぎても何もしてきません、この人に害意はないと思います」
おずおずと日向ちゃんが言葉を紡いだその瞬間、茜さんと俊君が動いた。
「俊! いきなさい!」
「了解。 八咫烏! 出番だ!」
何処からともなく現れた三本足の烏が彼の体に飲み込まれ、目で追えない程の速度で加速する。
彼が廊下を蹴った音が響き渡り、残っていたのはその足跡だけ。
どれほど強く踏み込んだのか、若干床が陥没しているようにさえ見受けられる。
「さて、お話の続きといこうか」
話を切り出した茜さんには、随分と余裕が戻って来ていた。
ふふんっと自慢げに鼻を鳴らして、腰に手を当てる。
改めて正面の“白い霧”に視線を投げている所申し訳ないんだが、ちょっと子供っぽく見えるのでそういう行動は自制して頂きたい。
「あの……徹先輩。 一花から聞いたんですけど、“姿見の札”って……今日持って来ていますか?」
小声で背後から話しかけてくる日向ちゃん。
彼女の言う“姿見”の札とは、効力の弱い“お守り”程度の札だったと記憶している。
確か元々の効力としては、夢の中に亡くなった人物が出て来てくれる……だったかな?
その者の声を聞ける、姿が見られるといった“まじない”に近い代物だったはず。
珍しい物だったから、とりあえず“指”を使ってトレスした事はあったが……
「えぇ、ほとんど使わない物ですけど一応ありますよ? ただアレは“ハズレ札”の可能性が高くて、もう破棄してもいいかと思っていたくらいですが」
「このままじゃ情報収集もままならないですし、試しに使ってみては? もしかしたら何か分かるかもしれませんし」
言っている本人も確証があるとか、何かしら思惑がある訳ではないらしくオドオドしながら言葉を紡いでいる。
まあ確かに、この状態では茜さんに頼ったまま見ている事しか出来ないのも事実。
“何か行動を起こしたい”という思考の元、記憶にあった札の話を持ち出したのかもしれないが……案外悪くないかもしれない。
ほとんど試した事もない札ではあるが、目の前の幽霊が“生きている”のなら他の札を使用する訳にもいかないだろうし。
「ねぇちゃんと聞いてる? いい加減答えてほしいんだけど」
若干苛立った声を上げている茜さんを横目に、無言で一枚の札を相手に向かって投げ放つ。
普通なら投げた瞬間空気の抵抗に負けて地面に落ちてしまいそうだが、僕の投げた札は不思議と意思通りに飛んでくれる。
まるで紙飛行機みたいに、すーっと風に流されながら相手の方へと向かっていくのだ。
これもまた“指の異能”の力なのかもしれない。
なんて事を考えている内に札は“白い霧”にたどり着き、いつも通り紫色の炎を上げて灰と化した。
これで一応“札を使った”事になるのだが、“姿見の札”は今夜夢を見るまで効果が分からない。
なんとも扱いにくい札もあったもんだ……なんてため息を溢しそうになっていた時、茜さんの表情が急に険しいモノに変わった。
「“取り返す”ってどういう事? あの場所に何が……って、あぁもう!」
声を荒げたかと思えば目の前の白い霧は無散し、姿形も見えなくなってしまった。
どうやら交渉? は失敗に終わったらしい。
茜さんは悔しそうに地団駄を踏んでいるが、今はそれどころじゃない。
「後で詳しく教えていただきます、今はとにかく部長達を!」
それだけ言って、僕たちは俊君を追って走り出した。
分からない事だらけだが、今はとにかく目の前の事を処理しよう。
――――
フシャァァ! なんて獣の声が聞こえて、思わず視線を落とした。
腕の中で抱いていた白猫が、急に野生を取り戻したかの様に暴れ始める。
「え、ちょ。 渋谷さん?」
そんな事を呟いている内に抱えている腕を爪で引っかかれ、小さく鋭い痛みが走る。
思わず手を離せば、白猫はトイレの敷居の下を潜り抜け、そのまま姿を眩ましてしまった。
え、ちょ……なんて声を漏らしたが、構わず撤退する姿は野良猫そのもの。
どう見ても彼女の“意思”が共有されているとは思えない動きだった。
「嘘でしょ……まさかのこの情況で一人になりますか」
“なりかけ”と思われる黒い霧はだいぶ無散して、最初よりかなり弱弱しい見た目になった。
だとしてもまだ“祓えていない”のだ。
ずりっずりっと音を立てながら張ってくる彼女は、相当ヤバイ見た目になっている事だろう。
『器、ウツワ……』
譫言の様に呟きながら芋虫の様に張ってくるその姿は、例え“霧”だったとしても見ていられるモノじゃなかった。
「あぁもう!」
叫びながら再度調整した音叉を叩き、キィィンと金属を鳴らした……までは良かったのだが。
ギチッ、なんて嫌な音が手元から響いた。
「え?」
音の出所に視線を向ける。
間違いなく私の持っている音叉。
普段なら綺麗な“音”を奏でてくれるソレが、今日に限って。
というか今この時に限って、音がズレ始めたのだ。
瞬く間に響く音は鳴りを潜め、“結界”が小さくなっていくのが感じられる。
「いやいやいや! 今は無いでしょう! ちょっと!」
慌てて弦を調整し、再び音叉で壁を叩くが……ビィィンみたいな間抜けな音が響き、“結界”が発生しない。
嘘でしょ? とばかりに音叉を目の前に持ってくるが、こんな暗がりでは状態などろくに分かる訳がない。
というか分かった所で私に直せるかと聞かれれば、間違いなく答えはNOだ。
まさか……壊れた?
やけに冷静になった思考がそんな結論を導き出した瞬間、ゾッと背筋が冷たくなった。
『頂戴、ソレ。 私に頂戴……』
未だ這いながら徐々に迫ってくる“怪異”。
私の“耳”がその声を確かに聞きながら、“ソレ”が迫って来る気配を全身で感じ取っている。
「ひっ!」
背筋がどうとか言っている場合じゃない。
体中から脂汗が噴き出ているみたいだ。
狭い個室の隅に居るのだから逃げ場なんかない。
だと言うのに尻餅を付き、個室の角にべったりと身を寄せるように“逃げた”。
「こないで……こっちに来ないで!」
怖かった、ただただ目の前の“怪異”が恐ろしかった。
今の私には抗う力がない。
“聞く”事しか出来ない私には、この状況を打破する術なんかない。
そう考えるだけで、“怪異”という存在がとんでもなく恐ろしく感じた。
『ウツワ……』
「いやあぁぁぁ!」
壊れた音叉と手に持っていたスマホを握りしめ、私は目を瞑って情けなく悲鳴を上げた。
以前“怪異”がこんなにも怖いと感じたのは、いつの事だったろう。
先輩達と行動を共にして、草加家の作った“音叉”を手にして、私は調子に乗っていたのかもしれない。
コレがあれば私は戦える、無力じゃない。
そんな風に言い聞かせて、私は今までやって来たのだろう。
その“武器”を失った私は、昔と変わらないくらい無力だった。
“聞く”事しか出来ない私は、この情況では何も出来ない。
昔と、何も変わらない……そんな風に思った時、事態は急に動き始めた。
『アアアァァァァ!!』
さっきから聞こえて来ていたその声が、急に苦痛に歪む叫びを上げ始めたのだ。
無意識の内に瞼を開き、元凶へと視線を向ければ。
『ダメだよ、コの人は』
先程まで這いよって来ていた“黒い霧”を掴み上げる、真っ黒い“何か”が立っていた。
フードを被っているのだろうか? 黒いローブで全身を包む様な服装に見えるが……上手く認識できない。
姿は見えている、だからこそ間違いなく“上位種”に近いナニかなんだろうが。
少年の様な声が聞こえる、くらいにしか情報が頭に入ってこない。
姿は見えているのに、何故か記憶に残らない。
その顔は見えている筈なのに、何故かボヤけて認識されてしまう。
そんな良く分からない存在が、眼の前で“なりかけ”を掴み上げていた。
『バイバイ』
それだけ呟いて、ソレは掴んでいた“なりかけ”を握りつぶした。
怪異が怪異を殺す異常な光景。
それだけは理解できるのに、頭に靄が掛かったみたいに思考が追い付いて来ない。
なんだこれ、何がどうなっている?
思えば思う程意識が遠のき、視界が徐々に暗くなっていく。
得体のしれない“ナニか”を目の前に意識を手放すなんて……なんて事を思ったりもするが、恐ろしい程の眠気に襲われ瞼が下がっていくのを感じた。
なんだこいつは……
一瞬そんな事を思った気がする。
でも、その答えはすぐに出た。
この見た目、認識できない顔と姿。
間違いない、コイツは。
「ブギー……マン」
その一言だけを呟き、私の意識は完全に闇に包まれたのであった。
ちょっとばかり忙しくて更新が遅くなっております。
ある程度書き溜め出来たら、デイリー更新に戻そうとは思っているのですが……申し訳ない。
また、誤字脱字報告非常に感謝です。
ご意見、ご感想等ありましたら是非是非お気軽にお寄せ下さいませ。





