先生が勝てない相手
休日の夕方。
おっさんは全神経を集中させながら、相手を凝視していた。
強い、ただそれだけしか感想が出てこない。
こんな奴を相手にするくらいなら、野生動物の一匹や二匹相手にしていた方がよっぽど気が楽だ。
そう感じさせる程の圧倒的な雰囲気。
コイツに勝てる未来が、全く見えてこない。
だがここで諦める訳にはいかない、ただそれだけ心に留めながら歯を食いしばった。
「オラ、どうした? かかってこいや!」
挑発的に囀るものの、相手は隙を見せることなく佇んでいる。
こちらから動けば確実に負ける、それだけは分かっていた。
狙うならカウンター。
こちらの拳を当てて一瞬でも怯んでくれれば、その隙をつく形でラッシュに持ち込める。
喉の奥が乾き、唾液が口の中で絡みつく。
周りに響く僅かな音ですら、今は集中力を欠く雑音に聞える。
来い、来い、動け。
そう強く願いながら手に握った汗を拭う事もせず、おっさんはじっと待ち続けた。
そして。
『……フフッ』
相手が急に動き出した。
大丈夫、見える。
今までの経験が、鍛え上げた動体視力が生きている。
これなら捉えられる。
そう確信して、おっさんが反応した瞬間。
『クスクス、まだまだですね?』
相手の攻撃を受け流し、こちらの拳を叩き込む。
イメージが実現しようとしたその時、相手は振り上げた筈の足を急に地面に下ろした。
これは……やってしまった。
その光景を見た瞬間、自身の中で勝敗は決まった。
フェイントだ。
俺がカウンターを狙っている事を読んで、相手はあえて大振りな攻撃で初手を仕掛け“無理やり”こちらを動かしたのだ。
目の前にぶら下がった餌に飛びつくように動き出した俺は、さぞかし滑稽に映っただろう。
全て読まれていた、掌の上で転がされているだけだった。
俺は“コイツ”に、勝てない……
『じゃ、お疲れさまでした。 残念でしたね?』
その一言と同時に、相手はこちらをボコボコに殴ってくる。
わずかに残された体力は底をつき、相手の笑い声を聴きながら俺は成すすべなく完敗した。
「くっそっ……!!」
悔しまぎれに呟いたその一言を聞いた相手はクスクスと笑い声を漏らし、そして言い放った。
『その程度じゃ、私には勝てませんよ?』
余裕ぶったその言葉は気に入らないが、彼女の言う通りだ。
今の俺じゃ、コイツに勝てない……
――――
『K、O!』
無駄に良い声をしたレフェリーの判決が、俺の部屋の中に響き渡る。
「ぬあぁぁぁぁ! 勝てねぇぇぇ!」
持っていたコントローラーを座布団の上に放り出し、その場で寝転がった。
『フッフッフ、浬先生も中々強くなってきたんじゃないですか? とはいえフレーム数まで計算に入れた上で先を読んでいる私に、隙はなかったのですよ』
ゲーム機に繋がれたPCモニターから、自分の教え子の不敵な笑い声がこだまする。
ちっくしょう、コイツ強すぎんだろ。
画面に映っているのは格闘対戦ゲーム。
最近発売された事もあって、ここの所暇があればネット対戦を繰り返していたのだが。
誘った相手が悪かったのか、俺の半分以下のプレイ時間でここまで強くなってしまいやがりましたよ。
あと一回誰かに勝てば上のランクに入れそうだったのに、コイツのせいでまたポイントを稼ぎ直しだ。
とはいえ、自分から勝負を吹っかけているので文句は言えないが。
「ほんっと、お前つえぇな鶴弥。 フェイント入れてからのコンボも早すぎんだろ。 お前の指は何だ、ゴッドフィンガーか何かか?」
『ある意味セクハラですよー? 浬先生―』
普段の様な堅苦しい言葉を使うことなく、鶴弥はカラカラと笑っている。
なんでセクハラ? と、寝っ転がりながら首を傾げていると、すぐ近くまで足音が近づいて来た。
その足音はすぐ耳元で止まり、何を思ったのか腰を折る様にしてソイツは覗き込んできた。
「随分楽しそうですね、先生」
ジトッとした眼差しが、俺を見下ろしている。
相手も屈んでいるので、ある意味正面から見られているような状況だが。
「あーえっと、すまん黒家。 白熱しすぎてちょっと忘れてた、お前もやる?」
そう言ってから放り投げたコントローラーを彼女に差し出すと「いえ、勝てる気がしませんので」と断られてしまった。
なんだ、一緒にゲームやりたい訳じゃないのか。
ちょっと残念、皆でワイワイゲームするの結構好きなのに。
なんて事を思いながら、覗き込んでくる黒家を眺める。
茶色のゆるっとした首元の開いたニット? セーター?
ちょっとおじさんには呼び方がわからないが、そういうのを着ていて大きく膨らんだ胸元が非情に絶景……ではなかった、眼に毒である。
そしてなにより惜しいのが、今日はジーパンなのだ。
もしもいつもみたいにスカートでも履いていれば、この体制は非常においしい出来事であっただろうに。
いや、そうじゃない。
落ち着け俺。
ていうかアレだな、相変わらずコイツは無防備無警戒過ぎだな。
大学生になったというのに、こんな一人暮らしの男の部屋に上がり込んで。
何か用がある訳でもないのに、こうやって事あるごとに遊びに来ている。
ここはもう少し、大人としてビシッと言っておくべきなのだろうか?
いやでも大学生だしなぁ、親でもないのにあんまり口うるさく言うのはなぁ……
なんて事を、高校の時より少しだけ長い髪を揺らす黒家を見つめながら考える。
「なにか?」
「いんや、べつに」
結論、口うるさくて嫌がられる中年にはなりたくなかった。
これが毎夜別の男の所を遊び歩いてます、とかなら少しくらい口を出すが。
黒家弟の話を聞く限り、バイトをしながらの大学生活。
そして暇な時にはウチに来ているみたいだし。
いや、それはそれでどうなんだ? とは思うが。
華の大学生だろうに、もっと色々やる事あるだろうが。
ホラ、友達と派手な遊びに行ったり、知らん男と合コンしたりとかさ。
たまには羽目を外してお酒とか飲んじゃったりして、ヒャッハーするものじゃないのか? 大学生って。
……うん、相手を諭そうとしているのか、間違った道に叩き込もうとしているのか分からなくなってきた。
「鶴弥さん、ちょっと先生借りますよ?」
『了解です、どうぞどうぞ。 それじゃ浬先生、おつでーす』
やけに軽い口調の鶴弥が回線を落したらしく、ポンッ! と軽い音を立てて鶴弥が通話を切ってしまった。
リターンマッチでもう一戦くらいやるつもりだったが、どうやらソレはお預けらしい。
ちくしょう、勝ち逃げかよ……
ぐでっと再び脱力し、目を瞑ったおっさん。
いつもの事ながら、鶴弥と対戦すると非常に目が疲れる。
閉じた瞼の裏でジワァっと眼球に水分が補充されるのが分かる程、自身の目が乾ききっていた事を感じる。
多分、集中しすぎて瞬きどころではないのだろう。
改めてアイツ強ぇなぁ……なんて事を考えていたおっさんのおでこに、何か冷たい物がくっつけられる。
「まずこれを見てください。 ほら、眼を開ける。 ホレホレ」
やけに額をピチピチと叩く感触を鬱陶しく思いながらも、薄目を開けたおっさの視界に映るのは……黒家の顔。
しかも眼鏡を掛けて真面目ぶった、というか不愛想なと言った方が正しいであろう黒家。
はぁ? もしかしてオニューの眼鏡を見せびらかそうとかそういう……
なんて考えたところで、眼前に提示されているのが黒家の写真であると気づいた。
そしてよくよく見てみれば、だいぶ見慣れた物に彼女の写真が張り付いている。
「ん? あれ? お? 黒家、お前免許取ったのか?」
「反応うっす……まぁどうせそんな事だろうと思っていましたけど」
目の前に掲げられているのは緑のラインが入った免許証。
やや呆れ顔をしながらも、褒めろ! とばかりに晒してくる黒家。
ここはアレだろう、多分きっとそうだ。
「あーおめでとー」とか「いや、俺も持ってるし」とか適当な事を言った日には、頭の隣にある足の踵が、俺の顔面を勢いよく捉える事になるのであろう。
大丈夫、俺は知っている。
高い金払って教習所通って、やっと免許取れたんだもんな。
そりゃ褒めてほしいさ、祝って欲しいさ。
なにせ頑張ったんだもん。
俺の場合は褒めてくれる人も居なかったので、ちょっと切なくなった思い出があるのだから間違いない。
「おー、頑張ったな。 偉い偉い、教習所とか意味わからん事で怒鳴り散らす教官もいっぱい居ただろうに。 よく耐えたな、そしてよく最後までやり通した。 偉いぞぉ」
などと適当な事を言いながら、黒家の頭を撫でてやる。
どうやら反応としては正解だったらしく、彼女もフフンッとばかりに少しだけ口元を緩める。
しかしまぁこういうのも何だが、俺が教習所に通っていた頃にはそういう教官はいっぱい居たので、よく黒家が耐えられたなぁなんて思ってしまう。
私のご機嫌を取らなきゃ判子押してあげないんだからね! みたいな感じでネチネチと言ってくるおっさん達がわんさか居る場所だ。
コイツならとんでもなく不機嫌になった挙句、ド正論並べて反抗しそうなモノだが……
俺の時はエンジンの回転数上げ過ぎて車に負担が掛かるだの、サイドブレーキを強く引きすぎて壊れそうな音してるだの散々言われたものだ。
それどころか教習中の授業で『車(普通自動車)の下敷きになっている人が~』というとんでもない救護の問題が出された時、素手で車を持ち上げて引っ張り出す、と答えたら説教された事だってあった。
今でもその問題については他に最善策が思いつかないんだが、どうしたものか。
というか、俺もその頃のおっさん連中と同じ世代になったんだよなぁ……なんて思うと、非常に悲しい。
「いえ、別にそういう教官はいませんでしたが? 普通に教習車乗って、授業受けて終わりましたけど」
「なにそれ男女差別?」
いつの時代も、男は怒鳴られ叩かれ生きていくしかないのか。
黒家の返答にちょっと泣きたくなったが、再び目の前に翳してある免許証に視線を戻す。
ついでに頭をわしゃわしゃ撫でていた手も放した訳だが、彼女から「あっ」なんて残念そうな声が聞こえた様な、聞こえないような。
まあいいか、いつまでも中年に頭を触られて喜ぶ女子なんていないだろう。
むしろあんまりやってると「髪型が崩れる」とか怒られるって聞いた事がある。
改めて彼女の免許証を眺めていると……なんというか、実に懐かしい。
なんて感想が出てくるあたり歳を感じるが、それも仕方のない事だろう。
グリーンラインで、交付日時はごく最近。
俺が持っている物と違って、真新しい感じがなんとも微笑ましい。
「一皮向けたか……」
「いや、ですからいちいちセクハラ紛いな事言わないで下さい。 というかそうじゃなくて、もっとよく見てください」
「んん?」
翳してある免許証に穴が開きそうな程凝視する。
コレと言って変わった事は……もう少し笑った顔で写真撮ってもらえよと思うくらいだろうか?
俺なんて満面の笑みで待機していたら、「普通の顔して下さい……」なんて呆れられたというのに。
免許更新の度にそんなやり取りをしている気がするが、結局毎回微妙なニヤけ面で写真を撮られるおっさんであった。
交付日、有効期限、それから……他に何を見ればいいだろう?
「ホラ、ここですココ」
そういって指さす先には、普通自動二輪の文字が。
「は? あれ? お前バイクの免許も取ったの?」
「えぇ、前に先生バイク乗りたがってたじゃないですか。 なので、取ってみました」
んん? とばかりに、おっさんは更に首を傾げる。
確かに久しぶりにバイクに乗りたいと言い続け、はや数年。
天童に触発されて一台買ってやろうかと思った事もあったが、椿に俺の通帳(机の上に放置されていた物)を突き付けられ、買う余裕があるのかとたびたび説教される為購入には至っていない。
だがそれが何の関係があるのか。
黒家がバイク買ってくれる訳でもなし、コイツがバイクの免許を取ったところで俺には何の旨味も……
「ですから、今度一緒にバイク見に行きませんか? 新車は買えませんので中古になりますけど、選んでくれるなら先生も乗って構いませんよ?」
「……マジで?」
やけに顔が下がってくる黒家だったが、今はそんな事どうでもいい。
マジか、俺のお財布は軽くなることなくバイクに乗れる日がくるのか。
これはもう拒否する理由なんて無いだろう。
とはいえ黒家が気に入ったものじゃないと買わないだろうし……こいつも女の子だからな。
もしかしたらスクーターとかになるかもしれん……が、まあそれはそれでいいだろう。
二輪に乗れるんだったらなんでもいいさ、というかビッグスクーターってのも一回乗ってみたいし。
「よし、そうと決まればネットで色々見てみようぜ。 気に入った奴があれば、それと似たタイプから……って近い近い。 腰が痛いなら普通に隣に座れ」
「……別に自重に負けて体が下がっている訳ではないんですがね。 はぁ」
いつの間にか黒家の髪が顔に触れるくらいに近づいて来ていた。
昔っからな気もするが、コイツの距離感とか貞操観念って奴はどうなっているのか。
溢したため息ですら肌で感じるレベルだ、おっさんにはちょっと刺激が強いので離れていただけると助かります。
なんて事をやっている内に居間の扉が開き、部屋の中に叫び声が上がった。
「ちょ、巡! アンタ何やってんの!? 人が夕飯の支度してる間に!」
「せっかく免許を取ったので、先生にバイクやら車を選んでいただこうと思って相談していただけですよ。 もう少し遅かったら違う話になっていたかもしれませんが」
凄腕ウェイターの様にいくつもの皿を手や腕に乗せた早瀬が、プリプリと怒りながら部屋の中に入ってくる。
それに合わせて黒家も離れてくれたので一安心だが……こいつら本当にウチによく来るよね。
何が楽しくてこんな部屋に来るんだが。
いや独り身の寂しいおっさんとしては、何故か女子大生が部屋に入り浸っている状況ってのは凄くおいしいと思うよ?
思うけどさ、近所の目ってのがあるんだ。
若い女の子連れこんでます! とか通報とかされないといいなぁ……なんて日々思っている訳ですよ。
そしておっさんは知らなかった、二人がご近所さんに手土産込みのご挨拶をかまし、今では普通に世間話をするくらいの仲になっている事を。
「そうそう草加先生。 私も巡と一緒に免許取ったので、良かったら一緒に選んでくださいよ。 あっ、ちなみに私は速そうなヤツがいいでーす。 とはいえ溜めたバイト代で買える範囲ですけど……」
早瀬はテーブルの上に次々と料理を並べながら、先程の黒家の案件に乗っかってくる。
ほほぉ、今日はとんかつか……ってそうじゃない、早瀬はスピード系が好みか。
というか二人共一緒に取りに行ったのかね、相変わらず仲良しコンビで微笑ましい事だ。
「おう、いいぞ。 それじゃ今度の休み……かは分からんが、時間が出来たら見に行くか。 その前に飯食いながらどんなのが好みか探してみようぜ。 意外と映画とかに出てくる奴が好みって場合もあるし」
よく考えもせずそんな事を言ってしまった。
それが失敗だったのだろう。
「なるほど、明日も休みですからね。 じゃぁ今夜はカーアクション映画をいくつか見てみますか」
おい、いくつかってなんだ。
誰が夜通し見ると言った? お前まさか泊っていく気じゃないだろうな?
「お、いいね。 私アレが見たい! 運び屋のスキンヘッドのスーツのおじさんが出てくるヤツ。 あとはカッコいい車とかバイクが出るのがいいなぁ」
ノリノリで答えている所悪いんだが、微妙な特徴だけで映画指定するの止めようか。
分かるけどさ、その映画分かるけどさ。
というかなんでこっちもこっちで、いくつも映画見る事決定してるんだ?
帰れよ、君らまだ未成年よ。
「あぁいや、別に今日決めろとは言ってないし……また時間のある時にでも……」
「「 いつ見るの? 」」
「きょ、今日でしょ……?」
くっそ懐かしいネタを振られて思わず答えると、二人はハイタッチしながら俺のPCを勝手に起動した。
なんだろう、こいつら卒業してからより一層遠慮が無くなった気がする。
いいんだけどさ、うん。
「お、なにやら新しい隠しフォルダが」
「止めろ馬鹿野郎ぉ!」
良くなかったわ、コイツらは遠慮を覚えるべきだ。
ため息を溢しながら、おっさんは有料の映画サイトへと飛んだのでしたとさ。
ちょっと怪異が大人しい感じの日常パートが続きます。





