蜘蛛の糸
走り始めてから、どれほどの時間が経っただろうか?
今しがた登って来た林道を、ひたすら駆け下りた。
だというのに、一向に椿先生の車を止めた駐車場が見えてこない。
こんなに距離があったか? ここまでの距離を私達は歩いてきただろうか?
思わずそんな事を思ってしまうが、恐怖のあまり錯覚しているだけという可能性だってある。
今はとにかく走るしかない、だというのに……
「さっきから、なんか! 空、変じゃない、ですか!?」
息も絶え絶えに、痛む脇腹を抑えながら叫んだ。
私達がここにたどり着いたのは深夜だった筈。
当然辺りは真っ暗だった。
だというのに、見上げる空は赤黒い。
こんな空の色は見たことがないし、これだけ色のついた空なら周辺だってもう少し明るいはずなのに。
もはや理解の範疇を超えていた。
私達は今、どこを走っているのだろうか?
「僕にもわからない! けど今は逃げるしかないよ! 走って!」
目の前を走る徹先輩もかなり体力を消耗しているらしく、最初よりずっと遅い速度でなんとか足を動かしている状態だった。
さっきら一花達とも連絡が取れないし、本当に何がどうなっているんだ?
「“迷界”に入っちゃったみたい! とにかく止まっちゃダメだからね!」
何故か私達の中で一番体力が残って居そうな椿先生も、走りながら叫ぶ。
この人、見た目によらず結構運動してるっぽい……疲れて雑な走り方をしている私達と違って、未だに綺麗なフォームで走り続けてるし。
というか、今彼女は何て言った?
この状況を理解している様だが……
「先生っ、意外と体力ある……じゃなくて、“迷界”? ってなんですか!?」
ぜぇぜぇと苦しそうに走る徹先輩が、椿先生の方へ首を動かして叫んだ。
喋れる余裕があるだけいいだろう、私は今喋ったら絶対むせる。
「“迷界”ってのは、“怪異”が作り出す世界っていうか……あぁもう普段説明役じゃないんだってば私。 とりあえず相手の虫篭の中に閉じ込められた、みたいな状態! あっ、“神隠し”の由来なんじゃないかって黒家さんが言ってた!」
え、それってかなりヤバイというか、絶体絶命なんじゃ。
しかも神隠しの由来になっている場所って事は、私達今おかしな所に迷い込んで、向こう……というか現実? には居ないって事なんだろうか?
帰れるのコレ? 一生このまま?
「抜け出す方法は、なにか! 聞いて……ますか!?」
そろそろ徹先輩も限界を迎えそうな声を上げている。
休憩しようって言い出せる雰囲気じゃないが、このまま走ってもいつか動けなくなる気がしてきた。
「出口を見つけるか、原因の“上位種”を狩る事! 成仏でも可! 前はそうだった!」
前はって事は、やっぱり経験者なのか。
それにしてもやはり“上位種”が関わってくるらしい。
だが椿先生は以前、この“迷界”ってヤツを抜け出しているみたいだし、生きて帰れる可能性は0ではないという事が分かっただけ余裕は出来た。
体力の余裕は全くないが、何かしら手を打てれば――
「っ!? き、きまし――ゴホッ!」
「ちょ、日向ちゃん!? どうしたの!?」
「ゲホッ! と、徹先輩! 右、右に飛んで! 早く!」
カラカラの喉が張り付き、息切れを起こしながらも無理やり叫んだ。
どこかが裂けたのか、喉の奥から血の匂いがしてくるが、今はそれどころじゃなかった。
一瞬困惑の表情を浮かべた先輩だったが、何の事を言っているのか理解したらしい彼は大きく右に飛ぶ。
バランスを崩したのか、それとも足に力が入らなかったのか、そのまま転倒してしまったが。
「え? ちょっと!? どうし――」
「椿先生は止まって! こっちに!」
急に一人はコケて、もう一人が急停止したら流石に驚くだろう。
唖然としている先生の手を引き、自分の方へ引き寄せる。
次の瞬間、ドゴンッ! と、一抱えくらいありそうな岩っぽい何かが降って来た。
「はっ!? 何! 何これ!?」
慌てふためく先生を引っ張ってジリジリと距離を置く。
その間に先輩も立ち上がり、私たちの前へやってきて札を構えた。
「三月さん、アレが今回の“怪異”?」
先輩の後ろに隠れた先生が、小声で私に尋ねてくる。
「多分……でも、アレがなんなのかいまいち……」
アレが降ってくる光景が“未来視”で見えたという事は、“怪異”の類である事には間違いないと思う。
でも、なんだろうアレ。
真っ黒い歪な球体にしか見えない。
コレと言って特徴もないし、むしろ他の“怪異”が放った岩とか言われた方がしっくりくる見た目なのだが……
「警戒しながら下がろう、ここに居ても仕方ない」
依然としてお札を構えながら、先輩は私達を後ろに下がらせる。
彼の言う通りだ、いつまでもここで良く分からない物体を見つめていても、事態は良くならないだろう。
再び私達が走り出そうとしたその時、黒い物体がピクリと動き始めた。
「今……動きましたよね?」
「見間違いでなければ、動いたね」
思わず顔を見合わせてしまう。
何かの卵かなにか? いや卵の怪異って何。
ハンプティーダンプティー?
結局答えらしい答えが出る前に、“ソレ”はギチギチと音を立てながら“足”を広げた。
「は?」
卵の様に見えていたが、見たところ全身をただ丸めていただけらしい。
次々と左右に足を広げ、折りたたんでいたらしい腹が現れ、ズリッと音を立てながら頭をこちらに向ける。
左右4本ずつの毛の生えた足、そしてこちらを見つめるいくつもの複眼。
サイズ的には小型犬より少し大きいくらい、真っ黒い毛に覆われた歪な体。
こいつは――
「蜘蛛?」
私がそう呟いた瞬間、それはギチギチギチと耳障りな音を立てながら牙を動かした。
それと同時に一気に周囲の温度が下がったように感じる程、体が震えあがった。
不味い不味い不味い、コレ多分“上位種”ってヤツだ。
「走って!」
徹先輩が数枚のお札を蜘蛛に向かって投げると同時に、私達は走り出す。
背後で何か燃え上がる様な、ボッ! という音が聞こえたが、寒気は一向に引かない。
お札が効いてない? もしくはもっと強い物や、数が必要なのか?
そんな事を思いながら振り返れば……
「っ!? 走って来てます! めっちゃ早い!」
蜘蛛に詳しい訳ではないが、何といったか……あのGを食べる蜘蛛。
たしか、アシダカグモ?
物凄い速さで走って、相手を捕食する奴。
アレが真っ黒になって小型犬くらいのデカさになって追って来ている、などと意味のわからない状況。
間違いなく、アイツにとっての獲物は私達なんだろう。
いやだ、絶対嫌だ。
あんなのに食われたくない。
「日向ちゃん! “未来視”は!?」
「あっ! えっと、いっぱい見えすぎて……えと、すぐ! 徹先輩の真後ろから! 後は、えっと……」
正直、焦りすぎて訳が分からなくなっていた。
見えている光景が未来のモノなのか、今のモノなのかくらいは区別がつく。
だが未来の光景がいくつも見えすぎて、情報が処理しきれない。
いや、ちょっと待て。
これだけいくつも“見える”なんて事、今までになかった。
つまり、この光景の分だけ相手が攻撃を仕掛けてくる?
嘘だ、そんなの防ぎようがない。
「ダメです! 見えてる全部が起こり得る事態なんだとしたら、防ぎようがありません!」
まず先輩の腕にアイツは噛みつく、歩みが止まったところで今度は足。
それを食いちぎった後は私に向かってきて押し倒し、腹をかじる。
そして最後に先生へ向かい足を食いちぎり、全員が動かなくなった所で巣に持ち帰る。
そんな忌々しい光景が、何パターンにも分けてこの瞳には映っているのだ。
こんなの、対処のしようがない。
「まずは僕の所って事だね……だったら!」
腰のポーチに手を突っ込んだ徹先輩が、無造作にお札をつかみ取った。
今までみたいに数枚を投げるのではなく、ガサッとまとめてつかみ取ってそのまま投げつける。
まさに飛び掛かろうとしていた蜘蛛の目の前に数十枚程のお札が舞い踊り、その全てが紫色の炎に燃え上がった。
「どうだっ!?」
「っ、ダメです! 今度は椿先生の方!」
投げつけたお札は蜘蛛に触れる前に燃え尽き、どれも相手に届いていない。
アレが効いているかどうなのかは判断できないが、すぐさま椿先生に飛び掛かる蜘蛛の光景が瞼の裏に浮かんだ。
「なめんな害虫!」
普段からは想像出来ない怒声を上げながら、椿先生は左腕を振るった。
正直何をしたのか分からなかった。
だというのに蜘蛛は怯えた様に引き下がり、警戒心をさらけ出しながらジリジリと後退していく。
「椿先生、今一体何を……」
視線を向ければ、青い顔をした先生が荒い息を上げていた。
その手には折りたたみ式の小さなナイフ。
そしてもう一方の手はダラダラと流れる血に濡らしていた。
「“巫女の血”……」
「連発は出来ないけどね。 っていうかもっかい切ったら貧血起こしそう、むしろ痛すぎて泣ける」
なんて言いながらも既に涙を溜め、ナイフをしまって手首にハンカチを巻き付けている。
アレは確かに痛そうだ、というより見ている方も辛い。
いくら身を守る為とはいえ、かなり痛々しい光景が広がっていた。
「とにかく止血を、この後は僕らだけで対応します。 これ以上は何があっても“切らない”で下さい」
「それは状況次第だよ。 必要があるなら、私の血くらいいくらでも使いなさいな」
悔しそうに奥歯を噛みしめる先輩に、あははっと気の抜けた笑い声を漏らす先生。
とてもじゃないが、現代の平和な日本で起こっている光景とは思えなかった。
目に見えて迫る死の恐怖。
生きる為に身を削り、そして私達を守ろうとする先生。
そして己の武器を構えながら、“敵”と正面からにらみ合う先輩。
『でもさ、そんな調子だと皆死んじゃうよ? 怪異と関わるって、そんな生易しいものじゃないからね?』
何故だか、あの冷たい言葉頭を過った。
死ぬなんて言われても、どこか現実感が無かった。
今まで見て来た“怪異”、部長は“雑魚”って呼んでいたけど。
ああいうのを見てきて、しかも先輩達や黒家君達が平然と相手にしている様子から、心のどこかで舐めていたんだろう。
大した事にはならない、この人たちが居るから大丈夫だって。
そんな甘ったれた考えで、今日この時まで生きてきた。
「い、嫌だ……」
「日向ちゃん?」
ガクガクと足が震える。
今更になって、ちゃんと事態が把握できたのかもしれない。
「怖い……」
確かに茜さんの言う通りだ。
生易しいものではない。
今目の前にいる相手は、とてもじゃないが“どうにかなる”なんて簡単に言える代物じゃない。
「くっ! すみません椿先生! もしかしたらもう何度か“血”を使ってもらう事になるかもしれません!」
「私の心配は良いから! しっかりけん制しなさい! 三月さん、落ち着いて。 大丈夫だから、私達が何とかするから!」
先輩は札を投げ続け、先生は私の顔を両手で掴んで視線を無理やり彼女の顔に固定した。
この人たちは何でこんな風に抗えるんだ? 怖くないのか? 痛くないのか?
「三月さん、怖いのは分かる。 でも今は貴女の“異能”が必要なの。 お願い、逃げないで? 向き合うのも、抗うのも怖い。 それは自然な事だけど、私達全員が生き残るには奮い立つしかないのよ。 お願い、もう少しだけでいいから力を貸して?」
そういって励ます様に笑う先生は、とても強い存在に見えた。
私なんかじゃ手の届かない様な、遠い遠い存在に……
それに比べて、私は――
「その子はもうダメだよ。 今回は使い物にならない」
そんな声が、真後ろから響いた。
彼女の声に反応したかのように、蜘蛛は足を止め威嚇を始める。
視界の端に映る先輩も振り返り、先生は驚いたように私の後ろへと視線を投げた。
「怯えるのは仕方ないね。 でも、体が恐怖で完全に固まってる。 奮い立とうという気迫がない。 だから、この子はもうこの戦闘には参加させない方が良い」
ゆっくりと振り返れば、そこには黒いセーラー服を着た“黒家茜”が立っていた。
優し気な微笑みを浮かべ、冷たい眼差しで私の事を見下ろしていた。
「私の言った意味、少しは分かった?」
その言って笑う彼女に、背筋に冷たいものが走る。
別に“あの時”のような気配を出した訳じゃない、圧迫するような威圧を放ってきている訳じゃない。
だというのに、目の前のこの人は間違いなく“怪異”なのだと、そう感じさせる何かがあった。
「そうは言っても、このままじゃ八方塞がりも良い所じゃない! 茜ちゃんどうにかならない!?」
叫ぶ先生に対して、彼女は再び柔らかい笑顔を向ける。
何を思っているのか、随分と余裕を持った態度。
もしかしてこの人、私達を“向こう側”に引き込むことが目的なんじゃ……
そんな風に思った私は、次の瞬間には自分の思考を恥じることになった。
「私はあくまで案内役。 コレと言って何が出来る訳じゃない、だから……連れて来たよ?」
そのセリフが終わると同時に、彼女の後ろから何かが投擲された。
それは私達の頭上を通り過ぎ、先輩と蜘蛛の間に落下する。
ガシャンッ! というガラスの割れる音を立て、次の瞬間には眩しいと感じる程の炎を燃え上がらせた。
その炎を恐れたのか、再び徹先輩に飛び掛かろうとしていた蜘蛛がビクリと震えた後に動かなくなる。
「おー初めて作ってみましたが、これは結構強力ですね。 所持している所を見られたら一大事ですが。 害虫には効果てきめん、流石火炎瓶」
緊張感の欠片もない、落ち着いた声がその場に響いた。
空気に染み渡るような凛とした美しい声。
女性の声だという事は分かるが、今までに聞いた事がない人の声だった。
「全く、なんて物作ってるのさ。 まぁいいや、“その場で動くな、止まって居ろ”」
次に聞こえて来たのは男性の声。
こちらも聞いた事はないが、落ち着いたその“声”は先程の彼女とは違い、有無を言わさぬ力強い何かを感じた。
「ふむ、貴方の“声”も随分強力になった様ですね。 これもデートの成果というわけですか」
「だから、そんなんじゃないって。 俺は単純に――」
「あ、我らがお狐様も到着したみたいですよ?」
そんな会話が終わった瞬間、眼の前に居た蜘蛛に向かって銀色の光が落ちて来た。
神秘的な光景だというのに、ズドンッと腹に響くを立て、それは着地した。
『はんっ、緊急だというから来てみれば、こんな小物とはの。 生まれたての呪いなんぞを駆除させる為に我を呼んだのか?』
そう言いながら、着地と同時に踏みつぶした“ソレ”をグリグリと靴底でなじる。
忌々しいと言わんばかりに舌打ちを溢しながら、彼女は残った残骸を蹴り飛ばした。
「ホラ、そういう事言わないのコンちゃん。 “コレ”だって、普通に脅威なんだからね?」
今までとは違う柔らかい声を上げながら、さっきまで“脅威”だった筈の“上位種”を踏みつぶすその人。
まるで会話している様に聞こえるが、間違いなく同じ人物から聞こえる同じ声。
なんだこれは? というか、なんだアレは?
「お疲れ、夏美ちゃん。 それからみんなも」
黒セーラーを来た幽霊が、親しそうに銀色の彼女に声を掛けている。
アレと知り合い? どう見たってアレは……
「九尾の狐……」
私より先に、先輩が声を漏らした。
銀色の長い髪、同じ色をした九本の尻尾。
まさに“妖怪”、または“神様”と呼ばれる存在が、今私達の目の前にいる。
その姿に思わず息を呑み、視線を縫い付けられたように見つめていると。
「早瀬さーん! みんなー! 助かったよぉ、ありがとぉ……」
先生が“神様”に思いっきり抱き着いていた。
え? いいの? そんな事していいの?
「無礼者が!」とか言って消し飛ばされたりしない?
なんて事を考えながらアワアワしている私のすぐ近くで、同じように呆然としていた先輩が口を開いた。
「早瀬……先輩? え? 本当に早瀬先輩ですか? “獣憑き”だって話は聞いていましたけど……」
「やっほー久しぶり、徹君も元気そうでなによりだよ」
何やら先輩が驚愕の声を上げ、九尾の狐がにへらっと緩い笑顔を作りながら挨拶を交わしている。
もうね、訳が分からない。
そんな私の両肩に、後ろからポンッと手を置かれた。
「まぁ、全員無事なようで何よりです。 椿先生、止血しますんでこちらへ」
「やっ、君が今年の新人さん? よろしくね」
両サイドから肩を叩かれた上、美男美女が急に登場した。
いや、本当に意味が分からない。
誰、この人たち誰。
一見すれば神様っぽい何かと、モデルとしか思えない二人が急に登場したようにしか見えないんだが。
普段だったら、何かの撮影ですか? なんて思わず聞きたくなる事態だ。
どういうことなの。
困惑する私は脳内処理が追い付かず、徐々に頭が痛くなってきた。
「あーえっと日向ちゃん。 落ち着いて、ちゃんと説明するから。 えっと、日向ちゃん? おーい?」
遠くの方で先輩の声が聞こえた気がするが、先程までの疲れと今の状況に対する混乱からなのか、視界がグワングワン揺れている気がした。
まずい、何か気持ち悪い。
「日向ちゃん? ちょっと本当に大丈夫?」
近づいてくる先輩の声が聞こえるが、返事をする前に視界が暗転した。
そのまま平衡感覚も失い、足元の感覚がなくなる。
詰まる話、私はぶっ倒れた。
「おっと」という声をすぐ近くで聴きながら、真っ暗闇の中で柔らかいモノに包まれた気がしたが、これはなんだろう?
「お疲れさまでした。 始めてだったんでしょう? よく頑張りましたね。 後輩さん」
そう言って頭を撫でる暖かい掌を感じながら、私は完全に意識を手放したのだった。





