久川さん
「ねぇ、これで本当に大丈夫なのかな……?」
不安そうな声が、静まり返った廃病院の中に響き渡る。
そこまで大きい声を出したつもりはなかったのだが、それでも周りに反響してしまうのは周囲が静か過ぎる影響なのだろう。
「私にだってわかんないよ! でも先輩達の話だと、名前を消さないといつまで経っても追ってくるって言ってたんだから仕方ないじゃん!」
もう一人の少女が、半狂乱になりながら叫び声をあげた。
異常な程震えながらも、必死で目の間のホワイトボードからいくつかの名前を消そうと奮闘していた。
「先輩達の家にはもう一回目が来たって言ってたけど、もう一回来たら死んじゃうんだよね? これでもう来ないって事だよね?」
「だからわかんないってば! しかも私達だけで『患者リスト』から名前消してこいって何なの!? そもそも肝試ししようって言いだしたの先輩達じゃん! なんで私達だけもう一回来なきゃいけないわけ!?」
「怒らないでよ……消したら早く帰ろ? 昨日もすぐ帰ったらからなのか、私たちの所にはまだ1回目さえ来てないんだから……」
そんな二人の会話は、病院内に響き渡る。
一見何をしているのだろうと思われそうな行為だが、これには一応理由がある。
『廃病院の久川さん』
いつの頃からか、この町で有名になっている都市伝説の一つ。
この病院にある受付の奥、その壁に取り付けられたホワイトボード。
ナースステーション内にある、入院患者の一覧表って感じだが……噂ではこの『患者リスト』に自分の名前を記入すると、幽霊の久川さんが訪れるというもの。
はじめは面白半分だった。
先輩達に誘われて、4人で肝試しに来たのが始まりだった。
前に試した人から対処法も聞いているから大丈夫、実際幽霊なんかいる訳ない。
そんな誘いに乗って、私たちはこの廃病院を訪れた。
それらしい場所で噂通りの『患者リスト』を見つけ、私たちは名前を書き込んだ。
本当にそれだけで終わってくれれば良かったのに。
怖かったね、本当に来るのかな? なんて話をしながら私たちはこの場を離れたのが記憶に新しい。
本来は入院病棟の個室で待たなければいけなかったらしいが、私たちにそこまで踏み込む勇気はなく、名前だけ記載してこの場を後にしたのだ。
そして本日、一緒に肝試しに行った先輩達から連絡があった。
『久川さん……家に来た。 本当に来た……やばい、どうしよ。 明日また来るって言ってた……私、どうしたらいい?』
とてもじゃないが、正常とは思えないくらいに震える声を上げていた。
取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。
先輩の声を聴いている内、そんな風に思い始めたんだ。
「っていうか、そんな事言って結局私達に後始末押し付けるなら、そもそもやるなって話だし」
未だに怒りが収まらないのか、それともその感情で恐怖を紛らわせているのか分からないが、友人が怒鳴り散らしている。
その声が院内に響き渡り、その度に“ナニか”の耳に届いてしまうのではないかとビクついてしまっている私がいる訳だが。
「で、でもね。 今日旧校舎の“怪談ボックス”に手紙入れておいたから……もしかしたらなんとかしてくれるかもしれないし……」
「アンタあの噂マジで信じてるの!? 馬鹿じゃないの!? あんなの学校によくある七不思議みたいなもんじゃん!」
確かに彼女の言う通りだ。
普段使われない旧校舎前に、いつの頃からか設置された投函箱。
通称“怪談ボックス”。
幽霊関係で困ったことがあれば、そこに手紙を入れると“オカルト研究部”の部員が助けに来てくれるという噂話。
そもそも部活一覧表にも載ってさえいないその部活名。
本当に存在するかどうかもわからない、どうやって助けてくれるのかさえわからない。
部員全員が霊能力者だとか、日々降霊術を行って神様を卸した人間がいるとか。
はたまた心霊スポットを走り回ったり、こういう場所で筋トレをするとか良く分からない噂話まである。
ついでに言えば、最近旧校舎にウチの学校の旧セーラー服を纏った女子生徒が現れるという噂まで広がり、踏み込んでまで確かめようとする人は誰一人として居なかった。
どれも確証が得られている話なんてないし、正直言ってバカバカしい話だと思っていた。だからこそ、今までそんなモノに意識を向ける事なんてなかったのだが……
「それは分かってるけど……少しでも何かやっておいた方がいいかなって」
「呆れた。 オカルトで困ってるっていう事態なのに、また似たようなものに縋るなんて。 どうかしてるよ」
未だイラついた様な声を上げる友人は、忌々しいとばかりに大きなため息を溢した。
確かにそう言われても仕方ない事だと分かってはいるが、私だって必死なのだ。
怖いからこそ、そんな与太話にさえ縋りつきたいのだ。
「ごめん……」
そんな私に当たり散らさなくても……なんて思いながらも友人に謝罪し、ふと視線をそらした時だった。
私達の持ったライト以外明かりが無いこの空間で、赤い光を灯している何かが視界に飛び込んできた。
「ねぇ、アレ……何?」
「今度は何よ、もう終わったしさっさと帰――」
私の指差した方向へ友人も視線を投げ、そして固まった。
光っていたのは、受話器の近くに設置された小さな赤いランプ。
ダイヤルもないし、普通の電話という感じではない。
多分ナースコールの時に、こちらから受け答えする為の物だと思うが……
「え? は? 電気が来てる訳ないよね? 何、一体なんなの?」
目の前の光景を否定する様に、友人は震える声で呟きながら首を左右に振って後退していく。
ここに居てはダメだ、間違いなく何かが起きている。
そう実感してしまう現象を目の当たりにして、私は声も上げられずガタガタと震えていた。
「も、もう帰ろ! 早く! 何してんの!?」
友人が叫んだ瞬間、“それ”は起こった。
私達の名前がさっきまで書かれていた“入院患者リスト”。
その部屋番号の隣に設置された、いくつもの赤いランプが点滅し始め、ノイズ交じりのナースコールが室内に響き渡る。
もはや動くことさえできず、二人してガクガクと膝を震わせながら立ち尽くしてしまう。
そしてその音が鳴りやまない内に、どこからかガラガラとカートを押すような音が近づいて来ている事に気づいた。
「ね、ねぇ……聞こえてる、よね?」
友人が泣き出しそうな顔で、私の方を見ている。
私は口を噤んだまま、何度も頷いて答える事しかできない。
そんな私達の背後から、“ナニか”が近づいてくる。
ジリジリとゆっくり、私達を追い詰めるソレが後ろから迫ってくる。
そして……
「――本日ノ、オ薬ノ時間デスヨ」
擦れた様な女の人の声。
ノイズ交じりにも聞こえる気味の悪いその声が、確かに私たちの耳に届いた。
あっ……これは、本当に終わったかも。
なんて、どこか冷静になった頭がそんな感想をもらした。
異様な空気と先程から感じている重苦しい雰囲気のせいか、上手く呼吸する事さえできなくなってくる。
息を吐きだす事しか出来ず、酸素の足りなくなった頭に靄がかかっていく。
だというのに近づいてくるその音はっきりと耳に残り、やがてすぐ近くで止まった。
もう、すぐ後ろに居る。
完全に終わった、そう諦めてから目を瞑った。
だが――
「残念ですけど、危険薬物はお断りです」
“久川さん”以外の声、こんな所に誰もいるはずがないと思っていたのに。
誰かの凛とした声が響き渡り、同時に鳴り響く甲高い金属音。
キィィンと、楽器の奏でる美しい音色にも聞こえるソレが、私達を包み込んだ。
今まで冷え切っていたはずの空気が、その音で中和されていく。
温かいとも感じられる不思議な音が、病院内に響き渡った。
「まさか現地で会えるとは思っていませんでした。 手紙を出した方達ですかね? どうもこんばんは、通りすがりの“オカルト研究部”です」
恐る恐る振り返ったその先には、やけに大人びた雰囲気を纏った少女が静かな視線をこちらに向けて立っていたのであった。





