”普通”
『まさかこうなるとはねぇ……やっぱり先生は期待を裏切らないや』
そんな事を呟きながら、縛られた”烏天狗”の元まで歩く。
私が近づいた事で目が覚めたのか、むせ込みながら周りを見回す”カレ”の姿は、とてつもなく滑稽で誰がどう見ても”弱者”そのものだった。
『気分はどう? 死にかけの”化け物”さん』
口に含んだハンカチを吐き出すと、”烏天狗”は強い憎しみが籠った瞳を私に向けてくる。
今更何を恨んだ所で、憎しみを込めた所で意味はないというのに。
全く執念深いジジィだ。
『アレは、なんじゃ。 草加の人間だと言っておったが、いくらなんでも常軌を逸しておる。 もはや”人”と言うのもおこがましい程の存在ではないか』
恐らく今の今まで口に含んでいた”巫女の血”に侵されているのだろう。
目や鼻から黒い液体を垂れ流しながら、”カレ”は私に向かって口を開いた。
『人間だよ、間違いなく。 ただちょっと特殊なだけで……特殊って意味では、この場に集まった全員が特殊だった訳だけど』
『ふざけるな! あんなものが少し違いのあるだけの”人間”で済むものか! 教えろ、アヤツはなんじゃ……』
もはや限界が近いのだろう。
まるで溶けるように体中から液体を噴き出し始めた老人だが、その勢いは衰えない。
これが長年”草加の呪い”を体現していた存在の強さなんだろうか?
はっきり言って大迷惑だが、その最後の質問くらいは答えてやっても罰は当たらないだろう。
『”鬼”って、どういう存在だと思う?』
『鬼……? 実物を見た事はないが、伝承からすれば力が強く角が生えた……』
『お話だけならね? でもいざ”鬼”なんて例えられて呼ばれる存在は、果たしてなんだった? 鬼の様に、なんて言われる存在は、いつだって一つだったはずだよ?』
様々な言い回しがあるだろう。
鬼の様に力強い、鬼の様な形相。
いつだって、そう呼ばれれてきた種族は一つだった。
ここからは私の仮説に過ぎない。
でも、多分間違っていないのだろう。
さっきの先生の姿を見れば、きっとこれが正解なんだと思う。
『あの人はきっと”鬼”そのものだよ。 そして、”鬼”の正体は……多分生きた人間なんだよ』
人知を超えた存在、”鬼”。
でもそれは多分周りが理解出来ない程強く、そして気高い心を持った”人間”の姿だったのではないだろうか。
彼の姿を見て、私はそうとしか思えなかったのだ。
彼以上の”鬼”は、多分どこを探し回っても、見つかる気がしない。
『そうか……”鬼”か。 儂は”鬼”に負けたのか……』
どこか楽しそうな表情を浮かべる”烏天狗”が、足元の方から黒い霧へと変わり霧散していく。
『ならば冥途の土産としては充分な話の種になるのぉ。 そうか……”鬼”か。 ふは、ふははははは!』
森の中に、老人の高笑いが響く。
すぐにでも消えてしまいそうな程弱々しい存在だと言うのに、それを感じさせない”カレ”は間違いなく”化け物”だったのだろう。
まさに狂気、呪いの元凶。
だからこそ、存分に苦しんで逝くがいいさ。
そんな”カレ”が、ふと表情を和らげて笑う。
もう殆ど消えかけの、向こう側が透けて見えそうな薄らとした身体で。
『”人間”とは、恐ろしいモノじゃのぉ……』
それだけ言って、”烏天狗”は完全に消失した。
”カレ”を縛っていた縄も地面に落ちて、もうその場には何も残っていないと主張してくる。
しばらく誰も居ないその虚空を睨んだまま、私は大きなため息を溢した。
『清々しい顔で逝かれたのは、ちょっと腹立たしいけど……やっと理解してくれましたか、クソ野郎が。 生きてる人間が、一番怖いんですよ? 私達”亡者”なんて、簡単に消されてしまうくらいに』
それだけ言ってから、私は踵を返して歩き始めた。
”烏天狗”は死んだ。
そして同時に、”彼の呪い”も。
今この瞬間まで巡が生きていてくれれば、きっと助かっている筈だ。
だったら、もうこんな場所に用はない。
視界が歪み、樹海の様だった山の木々が消え去っていく。
赤黒い空は晴れ、今では青空が広がっている。
あぁ、これで本当に終ったのだ。
これでやっと……私も”成仏”というモノに至れるのであろう。
暖かい太陽を見上げ、森の風を感じ、木々の揺らめきを聞きながら、私は目を閉じた。
『最後に挨拶くらいはしたかったけど……ごめんね。 皆』
今まで会えていた事が不自然なのだ、もう一度言葉を交わせた事が歪だったのだ。
だからこれは、”正常”に戻るだけ。
私がもういない世界に、ただ戻るだけなのだ。
一筋だけ涙を流し、私は全身の力を抜いた……
————
「ぅ……ん?」
体の気だるさを感じて目を覚ませば、目の前には真っ白い天井が映った。
知らない天井……であるのは確かなんだが、どこだって同じ様なモノだ。
多分、病院だろう。
「生き残りましたか……我ながら、随分としぶといですね……」
記憶に残る最後の光景。
真っ黒い霧の中で『感覚』を使い、”先生”と”烏天狗”の場所を掴んでいた。
先生が真上に拳を打ち上げた所までは覚えているが、それ以降の記憶が無い。
でもまだ私が生きているという事は、多分……そういう事なのだろう。
自身の右腕を目の前に掲げてみれば、あれほど真っ黒に染まっていた肌が、今ではいつも通り病人みたいな白い肌をしている。
”呪い”も消えている。
私達は、勝った……んだと思う。
「長かったような……呆気なかったような……」
一人ベッドの上で呟きながら、額に手を当てて再び目を閉じた。
何だかいっきに気が抜けた。
今後は寿命が決まっている訳でもない、『感覚』の異能があるわけでもない。
怪異が見えるかどうかはまだ確証が持てないが、ほとんど”普通の人間”に戻ったわけだ。
なんだか、まるで実感が湧かない。
明日から、私は普通に生きて良いんだ。
何かに怯えることも無く、常に周囲に気を張る必要もなく。
……やっぱり実感が湧かない。
普通ってなんだ、私はこれから何をすればいいんだろう。
なんて考えていると、隣のカーテンが勢いよく開かれた。
「黒家さん起きた!? ちょっと待ってね! 今ナースコールするから!」
なんだか凄い元気な椿先生が顔を出した。
その左手首には包帯が巻かれ、何故か私と同じように入院患者が着る様な真っ白い服を来ている。
「体調はどう? 痛い所とかない?」
「えっと、はい。 多分大丈夫です……」
勢いに押され、ただただ受け答えするだけの状況に陥ってしまった。
とはいえ彼女もベッドに横になっている為、押し入って来るような事は無かったが。
「巡起きた!?」
なんて思っていると、更に向こうのカーテンが開いて夏美が顔を出した。
彼女もまた私達と同じ格好で、ベッドに横になっている。
え、なにこれ。
もしかして皆入院する羽目になったの?
「えと……あの後って結局どうなったんですか? 他の皆は?」
とにかく現状確認を……なんて思って言葉を放つと、夏美が険しい顔をしながら私の事を睨んできた。
「その前に……もうあんな危ない事しないでね!? 絶対だよ!? どれだけ心配したと思ってるの!? 巡の馬鹿! アホ! おっぱいお化け!」
「おい最後のはおかしいでしょうが」
どうやら随分と心配を掛けてしまった様で、涙目の夏美から罵詈雑言を受けてしまった。
今回ばかりはその自覚もあるので一応受け入れるが、最後のは何だ、おかしいだろう。
「まぁまぁ、全員無事だったんだし、今回はそれで良しとしましょうよ。 でも、無茶しすぎるのはもう止めてね? 私も何度心臓が止まると思ったかわからないよ」
「す、すみません……」
優しい笑顔を浮かべながら、椿先生からも静かにお叱りを受ける。
何と言うか、あの時の影響なのかこの人の言う事はやけに重く胸に突き刺さる。
今後頭が上がらなくなるんじゃないかと思ってしまう程、椿先生の言葉に委縮してしまっている自分が居る。
「それで他の皆だけどね? 鶴弥さんと天童君は全然無事。 俊君は一晩寝たらピンピンしてたし、心配いらないよ。 ちなみに私は貧血と疲労と手首の刃物の跡のせいで、入院を余儀なくされました……」
そう言って項垂れる椿先生。
刃物の跡があったと言うのに、よく警察沙汰にならなかったもんだ……
もしかしたらもう事情聴取された後だったり、適当ないい訳で誤魔化したのかもしれないが。
「ちなみに私も極度の疲労でダウンしました。 病院につくまでは”呪い”の影響もあったんだけどね、いざこっちに到着したくらいには綺麗さっぱり全員”黒い痣”も無くなって、ただただ疲れ切った集団になってしまった訳ですよ。 ちなみにコンちゃんも無事です」
そう言ってから”狐憑き”の状態に変異した白い夏美が、静かに目を細めながら笑う。
『あれだけの事があったというのに、随分としぶとい様じゃな小娘。 まぁご苦労、とだけ言っておこうかの、お前は”妖怪を殺す”という偉業を成しとげたのじゃ。 もう少しそのデカい胸を張らんか』
雰囲気は違っても、同じ顔で似たような煽りを受けるのはちょっとどうかと思います。
ていうかやっぱり、そもそもの問題として、だ。
夏美の顔で妖艶な表情をされても、ものすっっごく違和感が残るのだが。
「ありがとうございます、貴女にも感謝してもしきれませんね。 ”コンちゃん”」
『貴様……その名前はよさんか……』
「では何と呼びましょうか。 ”九尾”では捻りがありませんし、避妊具さんとでも呼びましょうか?」
『いい度胸じゃ……その喧嘩買ったぞ。 買ったからな! 絶対泣かせてやる! っいたた……全く貧弱な身体をしおって! こら小娘、夏美! もっと鍛えんか! 玉藻前はもっとムキムキだったぞ!』
「それは知りたくない情報でしたね……」
一人ベッドの上でウゴウゴ動きながら悶えている”九尾の狐”から、過去の伝説とも言える人物のプライバシーが着々と侵害されていく。
そうか、ムキムキだったのか……
「ま、まぁそれはいいとして……あとは草加君だけど」
そうだ、先生の話を聞いていない。
あれだけの”呪いの渦”とも呼べる現象の中心に居た上に、最後まで戦ったのだ。
どこか身体に不調が出ていてもおかしくない。
全員無事だと椿先生が言っていたが、むしろ生きている事自体がおかしいのだ。
後遺症の類なんか残っていなければいいが……
「一番元気なのよ……黒家さんがとりあえず無事だって分かった瞬間、”あのジジィを警察に突き出してくる!”って言って、またあの山に特攻して行ったし」
「……はい?」
何それ怖い。
体力お化け。
「結局”迷界”? だっけ? やっぱりあそこには行けなかったみたいで、山の休憩所辺りで木に巻き付いたロープだけ見つけたんだって。 本人は”逃げられた……身内の恥だ”って言ってたけど。 でも皆の痣も消えたし、そう言う事なんだよね? もう大丈夫なんだよね?」
ちょっと心配そうな顔で聞いてくる椿先生に対して、私は静かに頷いた。
まず間違いないだろう、”烏天狗”はもう居ない。
私の中から”呪い”どころか、”異能”すら綺麗さっぱり無くなっているのが確かな証拠だろう。
もう、全部終ったのだ。
「それで……先生は、他の皆は今どこに?」
彼が無事だと分かった今、胸に閊えていた物がスッキリはした気分だが、その当人の姿が見えない。
他の部員達もそうだが、皆どこに行ってしまったのだろうか?
「つるやん、天童君、俊君はお昼食べに行ったよー? 草加先生は、まぁうん。 首を右に向ければわかるんじゃないかな」
”耳”を引っ込めた夏美が、やけにジトッとした眼差しを向けながらそんな事を言い放った。
それに従って視線を反対側に向ければ、窓際に置かれた椅子の上に座りながら眠る先生の姿があった。
どうしたらこの状態で眠れるんだろうなんて思ってしまう程、不安定な姿勢のまま目を閉じている。
「ここに居ましたか、静かすぎて分かりませんでした」
普段ならもっと騒がしくて、賑やかな人だというのに。
子供みたいな表情で静かに寝息を立てている。
「巡が一番不安要素強かったからねぇ……単独登山から帰ってきた後はずっとそこに居たよ。 悔しいけど、めっちゃ悔しいけど」
ぶーぶーと口を尖らせて不満を漏らす夏美を見て、ちょっとだけ悪戯心が芽生えた。
何も言わずにベッドを降りて、彼のすぐ近くに歩み寄れば余計に彼の規則正しい呼吸が耳に残った。
「おい、まて。 巡、まちなさい。 なにしてる」
「黒家さーん、なにしてるのかなー? 近いよ? 凄ーく近いよー? 離れようかー」
ここまで頑張ってくれた彼にも、ご褒美は必要だろう。
それに元々約束していた事だ、なんの問題もない。
自分にいい訳してから彼の両頬に手を添えて、静かに唇を合わせた。
「んっ……」
なんというか、やっぱり緊張のせいなんだろうか、ちょっと声が漏れてしまった。
唇を当てた瞬間、後ろからとんでもない勢いで迫る二つの気配が感じられたが、まぁ今は放置でいいだろう。
少しは空気を読んで欲しいモノだ。
「約束通り、私の全てを差し上げます。 これからも、よろしくお願いしますね。 先生?」
眠ったままの彼から唇を離すと、次の瞬間私の体は何者かによって引きはがされると同時に取り押さえられるのであった。
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