スティールネス(沈黙)
2018年3月 ソウル ~プロローグ~
三月のソウルは、肌寒い。
仁川国際空港に降り立ったシホリとノブは、入国の手続きを済ませると、タクシーでソウル市内のホテルに向かった。ホテルは地下鉄2号線のワンシムニ駅(往十里)の近くにある。ソウル市内に近づくにつれて、景色が都会化してくる。シホリは、改めてここまでの来し方を思い出していた。何があったのか。なぜ連絡が途絶えたのか。自分はどうすべきなのか。今、何を考えているのか。どこにいるのか。会って何を話すのか。二人はどうなってしまうのか。あの時のあの言葉は…。
2018年2月 大阪 本町
シホリがノブと一緒にソウル行きを決めたのは先月のことだった。上海留学時代の共通の友人が愛知県で結婚式を挙げることになり、そこに参列するために、一緒に大阪から蒲郡市へ移動した。上海時代、シホリとノブは同じ大学で中国語を学ぶ先輩と後輩の関係だった。先輩であったシホリは、卒業すると地元の大阪に戻り就職した。それ以降、ノブとの交流はほとんどなかったが、今回の結婚式がきっかけで久しぶりに再会した。聞くと、ノブも卒業後に地元の神奈川に戻り、東京が本社の会社に就職したが、前年に大阪支社に異動になり、今は大阪で働いているという。そういえば、一度、大阪駅の展示場で働いていた時に、突然ノブが東京から会いにきて驚かされたことがあったが、会うのはそれ以来だ。
「あっ!あれ!黄色い新幹線!」
シホリは窓側の席に座るノブの向こうに見える車両に声を上げた。
「珍しいですね。あれって確か、イエロードクターってやるですよね。メンテナンス車両の」
「そうそう。時刻表にも載ってないから、いつ見られるかわからないやつ」
シホリは珍しく思って携帯のカメラを向けた。
「結婚式に参列するための移動であの車両を見かけるなんて、縁起がいいですね。そういえば、さっきアナウンスで写真撮影の方は黄色い線より外側でお待ちくださいって言ってましたけど、イエロードクターを撮りに来た撮り鉄さんたちに言ってるんですかね?」
「でも、時刻表にも載ってないのに、どうやってわかるんだろう?」
「確かに。ツイッターとかフェイスブックとかSNSで情報が流れているんですかね」
二人を乗せた新幹線は京都、名古屋と走り、名古屋で在来線に乗り換えると、結婚式が行われるホテルを目指して蒲郡市へ向かった。挙式は明日で、今夜は結婚式の会場である蒲郡クラシックホテルに前泊することになっていた。
蒲郡クラシックホテルは、1912年(明治45年)に名古屋の織物商である瀧信四郎が創業した料理旅館・「常磐館」が前身となっている、格式の高いホテルである。1934年(昭和9年)に『蒲郡ホテル』へと名を変えたこの宿泊施設は、第二次世界大戦や地震、台風などの自然災害にも耐え、その格式を守り続けてきた。そして、1955年(昭和30年)には、当時の皇太子殿下がご宿泊され、さらに2年後の1957年(昭和32年)には天皇皇后両陛下もご宿泊された。こうして、格式と権威をさらに高めていき、2012年(平成24年)に、現在の『蒲郡クラシックホテル』に改名された。
チェックインして部屋に入ると、窓の外はオーシャンビューで、三河湾に浮かぶ小さな島・竹島が望めた。その美しい光景にしばらく見入っていると、シホリの頭にソヘの顔が浮かんだ。付き合っているといえば言えるが、そうではないとも言える、何とも微妙な関係。ノブに話してみようと思ったが、どこか頼りない感じがして聞かれるまでは黙っておこうと決めた。
友人の結婚式はとても素晴らしく感動的で、また上海時代の他の仲間にも再会でき、とても充実した時間を過ごした。シホリたちは式と披露宴の両方に出席したが、そのどちらにも創意工夫が施され、決して型にはまったものはなく、だからといって羽目を外しすぎて威厳を下げることもない。中でもシホリが一番驚いたのは、『菓子撒き』と呼ばれるイベントだった。式が終わり披露宴会場に移動する間の時間に、出席者がホテルの中庭に集められると、新郎新婦が即席のステージから、大きなバケツに入った大量のお菓子を参加者にばら撒くのだ。名古屋発祥と言われるこの風習は、現在では三河地方や岐阜でも行われている。家を新築する際の棟上げの時に行われる「餅まき」がルーツだとする説や、花嫁行列が嫁ぎ先へ向かうとき、儀礼として花嫁行列を通せんぼして行く手を塞ぎ、行かせまいとする地域の人たちに、花嫁がお菓子を配ることで、そこを通してもらう「花嫁菓子」を由来とする説もある。
披露宴後は蒲郡から豊橋に移動し、豊橋駅近くの個室居酒屋で二次会が開催された。上海留学時代の懐かしい面々が集まり、昔話や新郎新婦の馴れ初めの話に花が咲いた。シホリはお酒が飲めないのだが、お酒の場や酒のあてを食べるのが好きで、全く苦痛はない。
一緒に参加したノブから連絡があったのは、結婚式から帰阪した次の日だった。
「木曜日、空いてますか?ずっと行ってみたいと思っている居酒屋があるんですが、一緒にどうですか?」
ノブが言うに、その居酒屋は日本酒をメインにした落ち着いた雰囲気の居酒屋で、本町にあり、アクセスも便利だった。今までこんな風に二人だけの食事を誘ってくることはなかったので、多少の驚きはあったが、断る理由もない。シホリは、オーケーとノブに返信した。
カウンター席だけの、女性三名が切り盛りする居酒屋「燗の」は、ノブが予約していたことが幸いだった。入店した直後はまだ空席が目立ったが、すぐに満席になり、新たに入ってくる客を店主が申し訳なさそうに断るほど繁盛していたのだ。だからといって、すでに入店している客を促して、早く帰らそうとする素振りもない。店内は禁煙のためタバコ臭はなく、居心地もいい。ゆっくり話すには最適の場所だった。
ひとしきり、結婚式の感想を述べ合うと、ノブが質問してきた。
「シホリさん、今、彼氏はいるんですか?」
聞かれるまでは黙っておこうと決めていたシホリは、ソヘとの微妙な関係について、ノブに話した。付き合っているといえばそう言えるし、付き合っていないと言われれば、反論もできない。なんとも奇妙で中途半端な関係だ。シホリとノブ、そしてソヘは、上海時代に同じ大学に留学していた。ノブは学年が下だったため、ソヘのことは知ってはいたが、顔も覚えていないし、話したこともないと言った。そんなノブが言った。
「それなら、ソウルまで会いに行けばいいじゃないですか。僕が同行しますよ」
シホリは最初、冗談だと思って流していた。ところが、ノブは本気だった。
聞けば、ノブは今まさに「韓流ブーム」の真最中とのことだった。映画が好きなノブは映画館や動画サイトで、毎月十本以上は映画を見るのだが、韓国の映画にはこれまで、まったく興味はなかった。しかし、試しに観てみたスパイ映画がとても面白く、そこから貪るように韓国映画やドラマを見るようになったという。ちょうどそんな状況だったから、ぜひまだ行ったことのない韓国を旅行してみたいという。
「元々、来月にソウル旅行を計画してたの。でも、それは別にソヘに会いに行くわけじゃなくて、去年の旅行がすごく楽しかったから、もう一回行ってみたくて」
「誰と一緒に行くんですか?」
「去年、一緒に行った友達を誘ってみたけど、スケジュールが合わなくて。だから、まだ誰も」
「じゃ、僕にご一緒させてくださいよ。韓国語はできませんけど、英語ならできます」
「英語は私もできるけど」
「あ、僕は中国語も」
「いやいや、一緒に上海に留学してたでしょう?私もしゃべれるから」
そんな会話で、うやむやなまま結論が流れるかと思ったが、ノブは引く気はないようだ。
「今すぐ返事することないですから。三月の連休ですよね?僕、空けてますから」
シホリはとりあえずまた連絡すると言って、その日は帰宅した。
2012年 上海 上海外国語大学
2008年北京五輪。2010年上海万博。
21世紀の最初の十年、中国は龍が天に昇るが如き凄まじい経済発展を遂げた。その要因となったのがこの二つの世界的イベントだった。発展途上国ならではの不祥事や事件も多発したが、それらも抱え込んで、突き進むような、熱気とパワーに溢れる十年だった。世界中から人、モノ、金が集まり、大都市では外国人の姿が珍しくなくなった。と同時に、中国に将来性を感じた世界各国の若者が中国語を学ぶために留学にやってきた。中国最大の国際都市である上海の大学は他地域と比べて多くの留学生を受け入れており、中でも、上海外国語大学は、中国人学生が外国語を学ぶ一大拠点であるばかりでなく、外国人に中国語を教える重要拠点とされており、毎年、多くの外国人留学生が入学していた。
シホリはこの大学で中国語を学んだ。幼い頃から外国語に興味があったシホリは、高校を卒業すると、オーストラリアのゴールドコーストに英語留学した。帰国後、日本の大学ではなく、将来性を感じて中国の大学への進学を考え、日本人にとって住みやすく、距離的にも近く、なおかつ授業の質が高い上海外国語大学を選んだ。ノブはこの大学の二年下の後輩だ。
シホリが大学三年だったこの年、ソヘと出会った。とはいっても、この時はお互いに何の感情もなかった。学年は一緒だったが、ソヘはシホリより二つ年上だった。直接話す機会はほとんどなかったが、伝え聞くところによると、とんでもない資産家の子息で、両親はソウルを中心に事業を展開しており、実家も城北洞の高級住宅街にあると言われていた。ソウルの高級住宅地と言えば江南地域を浮かべる人が少なくないが、城北洞は古くから政治家や財界人のみならず、文学者や芸術家が住む、いわゆる金持ち村として知られている。ソウルの中心部から北へ数キロのこのエリアは、日本で韓流ブームを生み出すきっかけとなったドラマの主演俳優が自宅を購入したという噂も出たことがある。ソヘは、年齢の割に幼く見える、いわゆる童顔で、背は高くない。肌が白く、優しそうな眼が特徴的だった。当時のシホリは日本人や欧米人の友達は多かったが、韓国人の友達は少なく、よってソヘとも交流はまったくなかった。
一方、ノブとはこの頃に仲良くなった。ノブは遅刻や連絡の未返信など、基本的な素行に問題はあったものの、素直で優しい性格で、また器用で人を楽しませるのが好きだった。いつからか同じ大学の数人でよく集まるようになり、そこに数名の社会人も加わって仲良くなった。リーダー格がそのグループを「しゃららら上海」と名付けて、月に一度、上海市内の日本料理店で飲み会を開いた。そこでも、ノブは場の盛り上げ役で、お笑いが好きなだけあってみんなを笑わせていた。ただし、しほりはノブを異性として意識したことは一度もなく、あくまで仲のいい、楽しい後輩の一人にすぎなかった。
このしゃららら上海はとても仲が良く、しほりにとっても大切なグループのひとつだった。蒲郡で結婚式を挙げたのは、このグループの中の一人で、当時、上海で働いていた女性だった。この女性は聡明で語学が堪能で、明るく何事にも積極的。上海に来た理由も、上海万博に関連する仕事をしたいからという理由だった。上海万博の前に愛知万博があり、そこに仕事で携わったことからやりがいを感じ、次回の開催地である上海に職を求めてやってきた。上海での仕事が万博に関われるという保証などどこにもなかったが、それでもまずは開催地で仕事を見つけて居住してしまおうという、なんともパワフルな考え方の持ち主で、しほりが大好きで尊敬する先輩でもあった。彼女は上海万博後もしばらく上海に残っていたが、やがて帰国して地元の愛知県豊橋市に戻った。それからはラインで時々連絡を取るくらいだったが、年に一度、あるかないかの機会で、しほりが愛知に行ったり、逆に向こうが大阪に来たりした時に会っていた。大好きな先輩の結婚に、しほりは決して焦ることはなかったが、それでもやはり、自分の結婚を意識せざるをえなかった。ましてや、結婚式に参加した頃の、ソヘとの状況がかなり特殊だっただけに、否が応でも考えてしまう。
上海での生活は楽しかったが、しかし苦労がないわけではなかった。上海は確かに大都会だが、一般の人がイメージする上海は外国人であふれるビジネス街や金融街だったり、また観光地だったりする。しほりが留学していた上海外国語大学は中心部の北側にあり、近くには魯迅公園や虹口競技場などの施設もあったが、決して都会で洗練された地域ではなかった。また、衛生面も日本に比べれば劣っており、道路や建物はお世辞にもきれいとはいえなかった。また、海外生活で一番大変なのは医療だ。いくら言葉が通じるとはいえ、病気になって身体も精神も大変な時に、システムや言語、また振る舞いが日本とは異なる海外の病院で治療を受けるのは簡単ではない。衛生面でも安心はできず、また日本と違って中国の病院は騒がしい。健康な状態なら平気でも、病気を患っている時には耐えがたいというようなことが多々ある。実際、しほりは上海留学中に胃腸をやられ、日本に帰って入院したことがあった。命には及ばない病気ではあったが、退院後に、入院中のやせ細った写真を見て、周りの友人が過度なほどに心配したほどだった。
シホリは、翌月のソウル旅行について考えていた。友人と行くことを想定して立てたプランだったが、あいにくその友人は都合が悪い。そんな時に突然、現れたのがノブだった。ノブは本気で二人でのソウル旅行を考えている。自分に気があるのだろうか。いや、それはないだろう。なぜなら、シホリはソヘの存在をノブに語ったからだ。そのうえで、ノブが誘ってきたのだ。もしもノブが自分に気があるのなら、そんな状況で自分を旅行に誘うだろうか。別に一人で行っても構わないが、一人ではソヘに会いに行く勇気が出ないのも事実だ。なにせ、連絡が途絶えてからもう二ヶ月以上なのだ。ソウルまで行って、ソヘに会えたとして、何を話せばいいのだろうか?そもそも連絡が取れないから、都合がいい日も時間もわからない。会いに行ってもそこにいるかどうかは不明なのだ。そんな時に、ノブがいれば、話し相手にはなるし、たとえソヘに会えずじまいだったとしても、ノブとソウルを楽しめばそれでいいだけだ。ノブが何を考えているのかはわからないが、とにかく異性としては見ていないし、友達の一人にすぎない。ホテルの部屋は当然、別々だ。また、旅行で男性が一緒にいれば助かることもある。重い荷物を持ってもらえるし、地図を読むのも男性のほうが得意だ。食べたいもの、見たいもの、買いたいものは、自分の主張をすればいい。そもそも彼氏ではないのだから、自分を曲げてまで向こうの意見を受け入れる必要もない。意見が合わなければ、別行動を取ればいいだけの話だ。そう思うと、別にノブと一緒に旅行するのも悪くはないと思えてきた。
シホリは、ノブに一緒に旅行に行くことをラインで伝えた。
2016年7月 ソウル 国税庁ソウル支局
ソウル市の中心部。地下鉄三号線の景福宮駅と安国駅の中間部。国家国税庁とソウル地方国税局は同じビルに入っている。イ・ヨンチョルはこのソウル地方国税局の徴税法務局で職員をしている。税法に関するアドバイスや解釈を企業に施すのが仕事だ。現在は上場企業のみを担当しているが、若い頃は中小企業、それも起業前の会社や、起業したばかりの会社に税務アドバイスをする役目だった。勤続三十年以上。今やベテランの域だが、昇進は叶わなかった。それもとうにあきらめている。自分はこのまま、そつなく定年を迎えられれば良よい。そんな日々だった。ところが。
それは、夏のある暑い日だった。一本の電話が入った。
「ソウル地方警察庁のパク・ユジュンと申しますが」
ヨンチョルの顔が曇った。ソウル警察庁が何の用だ?
「はい。ご用件は何でしょうか?」
「それが、ぜひお会いして話したいのですが、明日の午後、そちらにお伺いしてもよろしいですか?」
カレンダーに目をやる。時間はある。
「明日の午後は事務所にはおりますが、ご用件を伺わないと、急に来られても困るのですが」
「おっしゃる通りですよね」と相手は言うと、「実は、三日前にこちらで逮捕したある容疑者が、妙な証言をしているんです」
「妙な?」
「えぇ。ただ、それは非常に重要な証言ですので、電話では申し上げにくいんです。しかしながら、そちらに関連する内容なので、お電話した次第です」
警察に逮捕された容疑者が、国税局に関連する証言をしている?いまだにピンとこない。
「しかも、その容疑者は、あなたの名前を挙げています」
「私の?」
思わず声が大きくなる。周りの職員たちが何事かと顔を上げる。
「そうです。ですので、あなたに直接、お電話させていただきました」
「ちょっと待ってください。私は犯罪に手を染めるようなことはしていませんよ」
周りに聞こえないよう、声を潜めて答えると、相手は電話口で少し笑ってから、
「それはわかっています。しかし、確かに容疑者があなたの名前を出しまして、それは調書にも残っています。なので、どうしてもあなたに会ってお話を伺いたいのです」
「はぁ…」
そもそも何の罪で、どんな人物が拘束されているのかも不明だ。
「そうですか。まぁ、電話では言えないことのようなので、とりあえず、明日、来てください」
「ありがとうございます。午後二時はいかがですか?」
「問題ありません」
では、と相手が電話を切ろうとしたので、ヨンチョルは慌てて「あ、ちょっと」と止めた。
「何でしょう?」
「私の上司に同席してもらったほうがいいですか?」
しばらく間があってから、
「いえ。明日はその必要はないでしょう。まずは私の話を聞いていただき、もしその場で、上司の同席が必要と感じたら、その場で呼んでいただいても構いません」
「そうですか。わかりました」
「では、明日、午後二時に。失礼いたします」
そういって電話が切られた。ヨンチョルは席を立つと喫煙ルームに行き、タバコを吸いながら考えてみた。容疑者が国税局に関する証言?脱税か。内部告発か。まさか、捕まった人物が国税局の人間なんてことはあるまい。しかし、とにかく明日話す、の一点張りだから、まったく予測がつかない。考えているうちにタバコを吸い終えると、ヨンチョルはこれ以上考えても仕方がないと仕事に戻った。
翌日。
朝、目が覚めてからも気になって仕方がなかった。それどころか昨夜は気になってなかなか寝付けなかった。朝食のため椅子に座ると、妻が心配そうに聞いてきた。
「どうかしたの?すごく考え込んでいるみたいだけど」
ヨンチョルは喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。自分でさえ、何のことかさっぱりわからないのだ。この状況で妻に話しても、妻も困惑するだけだろう。
「いや。何でもない。ちょっと、仕事で気になることがあるだけだ」
そういうと、朝食を食べ終え、できるだけ普段通り振舞うよう自分に言い聞かせて家を出た。
だが、よほど表情に現れていたのであろう。昼食時にも後輩から聞かれた。
「ヒョン、どうかしましたか?」
「うん?何がだ?」
「食べないのですか?」
目の前に置かれているスンドゥブチゲがほとんど減っていない。
「熱いから、冷ましているんだ」
強がって見せたが、後輩は不思議そうに頷くだけだ。
「何かあったんですか?午前も、心ここにあらずって感じでした」
ヨンチョルはその言葉を無視して、無言で食べ続けた。
「終わったか?行くぞ」
そうせかすと、まだ食べ終えていない後輩を置いて、自分はさっさと席を立った。
午後の仕事を開始してしばらくして時計を見た。もうすぐ二時だ。朝から、いや、昨日の電話からここまで、なんという長い時間であったかと思った。
会議室を取ってある。どれくらい話すのか不明だから、二時間取った。最初、応接室を取ろうと考えたが、応接室の場合は、どんな人物が、何の目的で訪ねてくるのかを申請しなければならない。今回はまだ上司にも言っていないことだし、むやみに大ごとにはしたくない。だから会議室にした。使用目的は「NPO団体への税務指導」としておいた。
二時までにはまだ十分ほどあったが、待ちきれずに席を立つと、会議室へ向かった。途中、一緒に昼食をした後輩に、「第一会議室にいるから、緊急の時は言ってくれ」とだけ告げた。受付には、すでに「訪問者が来たら、そのまま第一会議室へ案内するように」と告げてある。
五分前。会議室のドアがノックされ、受付の女性に案内されて、男性が一人、入ってきた。男は若くて背が高く、細見で、足が長かった。受付の女性に笑顔で「ありがとうございました」と告げると、女性が完全にドアを閉めるまで待ってから、ヨンチョルに向き合った。
「この度は、お忙しいところ、誠に申し訳ありません」
そういいながら、名刺を差し出した。名刺には、警察庁・生活秩序課のパク・ユジュンと書かれていた。ヨンチョルも名刺を差し出した。
「暑いですね、本当に」
ユジュンはヨンチョルが先に座るのを確認するように、自分も座った。
「もうすぐ、冷たいお茶を持ってこさせるので」
「お心遣い、ありがとうございます」
その後も、ユジュンは他愛もない話を続けた。いきなり本題に入るのを避けるのと、お茶が運ばれてきたときに、会話を遮られたくないからだろうとヨンチョルは推察した。
「どうぞ」
ヨンチョルは、運ばれてきた冷たいお茶を勧めた。早く本題を、という催促も込めて。
コップのお茶を半分ほど飲み、のどを潤したユジュンが語り始めた。
「昨日、お電話でお話しした件ですが、まず容疑者というのは、キム・ヨンジンという人物です」と一人の男の名前を挙げた。
一瞬、聞き覚えのあるような気がしたが、わからなかった。
「思い出せませんか?」
「うん?ということは、私が知っている人物ですか?」
「えぇ。少なくとも、会ったことはあります。もっとも、ずいぶんと昔の話ですので、ご記憶になくとも不思議ではありませんが」
思い出せない。
「もうかれこれ、十七年ほど前だそうです。彼はあなたを鮮明に覚えているそうです」
「キム・ヨンジンという男が、私を?」
ヨンチョルが依然、思い出せないでいると、ユジュンがにこりと笑って言った。
「では、これはどうですか。キム・ヨンジンは、ウンボングループのCFOです」
「ウンボングループの?」
ウンボングループとは、レストラン経営から起業し、今やヘアーサロン、ネイルサロン、エステサロン、スパなどで一大ブランドを築いた企業だ。
「キム・ヨンジンは、あなたからたくさん、税法に関するアドバイスをもらったと言っていましたよ」
「思い出した。その後、担当をはずれてからは、なんの接点もありませんでしたが。もっとも、ここまで有名で大きな企業になれば、私のような職員のことなど、覚えていないと思いましたが」
ウンボングループが起業したばかりの頃、ヨンチョルは国税局の職員として担当しており、そこの経理担当者がキム・ヨンジンという男だった。創業メンバーの一人だ。今はグループのCFOをしているのか。今度はヨンチョルが質問した。
「で、そのキム・ヨンジンが、いったい、どんな罪を?」
「麻薬取締法違反です」
「麻薬…」
ユジュンが言うには、警察はあるタレコミから、この大企業のCFOが重度の覚せい剤中毒であるとの情報を得ており、一年間にわたってマークしてきたという。そして、ついにその証拠をつかみ、さらに薬物使用の現行犯で逮捕するために、曜日、時間帯、場所を割り出し、一気に逮捕に踏み切ったという。
「もう長年、連絡を取っていなかったですが、あんな大企業のCFOが覚せい剤をやっていたなんて、驚きです」
ひとまず感想を述べると、核心に迫った。
「それで、なぜ、キム・ヨンジンが私の名前を?」
「それがですね…」
その理由は、驚くべきものだった。
翌日、ソウル警察庁は、大企業ウンボングループのCFOであるキム・ヨンジンを、違法薬物の使用、所持の両方で現行犯逮捕したことを発表。ネット、テレビ、新聞、ラジオは各社一斉にこの事件を報じ、そのニュースは日本や中国でも報じられた。
2016年8月 ソウル 拘置所
ユジュンが帰った後、ヨンチョルはすぐにその話を上司に報告した。すると、その内容はすぐにエスカレーションし、どうやら最終的には国税庁と警察庁の双方トップの耳に入ったようだった。ヨンチョルはこれで自分の役割は終わったと思った。国税庁トップともなると、普段は会うこともなく、庁内報の写真で顔を見るくらいの、雲の上の存在だ。そんなところまで上がっていった重大案件に、これ以上自分が関わることなどありえない。自分の名前が挙がったのは、過去に税務上のアドバイスをしたからであって、それすらもう十七年も前のことだ。逆に、よく覚えていたものだと思う。ヨンチョルはむしろ迷惑とすら思っていた。大企業のCFOの逮捕とあって、メディアでは連日報道されているし、もちろん、ウンボングループの創業者でCEOのオ・ヒョンスンにも報道陣が殺到していた。オ・ヒョンスンは「わが社のCFOがこのような犯罪に手を染めるなど、想像もしていなかった。大変に遺憾だ」と公式の声明を出し、「お客様、株主様、関係各社の皆様には多大なご迷惑とご心配をおかけし、誠に申し訳ございません。わが社は警察の調査に全面的に協力しますし、今後、二度と社内でこのような不祥事が起きないよう、ガバナンスを徹底してまいります」と火消しに必死であった。だが、当然ながらウンボングループの株価は大暴落し、三日連続のストップ安となった。同社傘下のヘアーサロンやエステサロンには芸能スターも通っているとの噂があったが、その芸能人にまでメディアが押しかけ、「ウンボングループの事件に関連して、私が同社のヘアーサロンに通っていたという報道がなされていますが、それは事実ではありません。私は一度も、同社のサロンには行ったことはありません」とツイッターで否定する騒ぎまで起きた。
大きな社会問題にまで発展したこの事件の発端に、自分が関わっていたことに、ヨンチョルは実感がわかず、どこか他人事のように感じられたのだが、それが一変することになったのは、ユジュンの訪問から二週間後だった。国税庁ソウル支局の副局長に呼び出されたのだ。
緊張の面持ちで、上司と共に、副局長の部屋に入った。もちろん、初めて入る部屋だ。副局長は二人にソファに座るよう命じた。
「君がイ・ヨンチョルか?」
副局長が聞く。
「はい」
「今回の件では、とんだ災難だったね」
「とんでもありません」
「今回の事件と我が国税庁との関係については、すでに知っているね?」
「はい」
「そこでだ。君に、その調査を頼みたいと思う」
ヨンチョルは突然のことに声が出なかった。上司も驚きの顔で副局長を見つめた。
「疑惑の詳細については、聞いているか?」
いえ、まだ話していませんと上司が代わりに答えた。
「そうか。では少し長くなるが、説明しよう」
副局長が自ら、ヨンチョルが知らなかった、さらに深く、細かい事情を語った。なんだか自分に言われているのではないような気がしたが、聞き漏らすまいとヨンチョルは必至で耳を傾けた。
「そういうことだ。だから、君にはカナダのバンクーバーにも足を運んでもらう」
そして、他言は無用、家族にも言うなと厳命が下された。期間は最長で一年。その中で、確実な証拠をつかむことが任務だ。
「もちろん、必要があれば、ソウル拘置所に収監されているキム・ヨンジンにも会いに行ってくれ。君の職員証で二十四時間、三百六十五日、いつでも通れるように警察庁が手配してくれている」
自分の席に戻ってからも上の空だったが、やることは山積みだった。まずは、現在担当している企業への仕事を別のものに引き継ぐ必要がある。それを一週間以内に済ませて、翌月から本格的な任務の開始である。これを知っているのはごく一部のものであり、周りの職員には「ヨンチョルは実家の母親の体調が思わしくなく、業務を減らし、時には休暇を取って帰省することもある」と上司が説明した。
8月に入り、ヨンチョルの特殊任務がスタートした。まずやったのは、資料の読み込みとキム・ヨンジンへの面会であった。資料はこの任務の全容を理解し、どんな証拠を見つける必要があるのかを明確にするため。そして、キム・ヨンジンには、彼の証言と、その証言の信ぴょう性を本人に直接会って確認しておきたかった。
ソウル拘置所は、ソウル市中心部から南に二十五キロほどの京畿道義王市清渓洞にある。もちろん、ヨンチョルは初めての訪問だ。自分で車を走らせてやってきた。この行動は当然、上司しか知らない。副局長は国税庁の職員証でいつでも入れると言っていたが、本当だろうか。駐車場に車を止めると、入り口で守衛に用件を伝える。中で受付をと言われ、総合案内のある建物に入る。犯罪の疑いがある人物が収監されているだけに怖い雰囲気が漂っていると想像していたが、来てみると意外にも穏やかで、殺伐とした雰囲気はない。刑務所ではないからか。受付で面会の旨を告げると、受付票を記入して提出するように言われた。その通りにしてベンチで待つ。すると、一分も経たないうちに名前を呼ばれた。受付したのと同じ窓口で、税務庁の職員証の提示を求められた。しばらくすると、後ろに一人の女性が立っており、一緒に来るように言われ、エレベーターに乗り三階に上がった。もう面談できるのかと思ったが、この建物は職員用の建物で、収監者は別の棟にいることに気付く。通された部屋は三階の一番奥で、入ると眼鏡をかけた初老の男性が座っていた。
「国税庁ソウル支局のイ・ヨンチョルさんですね?」
「はい」
「大変失礼ですが、もう一度、職員証を見せていただけますか?」
言われたとおりにする。
「ありがとうございました。警察庁から話は聞いています」
「はい」
「今日の面談目的は、ここに書いてある通りですか?」
書いたばかりの受付票が男の手に握られていた。
「そうです。時間はどれくらいいただけるのでしょうか?」
「通常は十分だけですが、今回は特別ですので、一時間です」
「一時間もですか?」
「はい。ただし、キム・ヨンジンが精神や体調の不良を訴えた場合などは除きます。なにしろ、重度の薬物中毒でしたからね」
ひとしきり会話を交わすと、男は内線電話をどこかにかけた。すると、拘置所の制服を着た屈強な男が二人現れた。
「この二人がご案内いたします。お仕事、お疲れ様です」
「ありがとうございました」
そういうと、ヨンチョルは二人の男性に連れられ、別の棟へ案内された。どうやらここが、容疑者たちを拘束している建物のようだ。
受付では十数名が椅子に座っていた。同じように面会を求めてやってきた人たちだろう。だがヨンチョルはその受付とは反対の方向に連れていかれた。「職員以外、立ち入り禁止」と書かれたドアに通される。中にはすぐに次のドアがあり、そこは厳重に施錠されていた。男の一人が鍵を使ってドアを開ける。中に入ると、同じように受付があり、制服を着た、こちらも屈強な男が受付伝票のやり取りをしていた。ヨンチョルを案内してくれた二人の男は「それではここで失礼します」と告げると、深々とお辞儀をして戻っていった。一方、受付にいた男が「それでは、こちらへどうぞ」とヨンチョルを面談室に通した。広々とした面談室は真ん中を透明のアクリル板で仕切られており、その真ん中は円形に小さな穴がいくつも空いていた。こちら側と向こう側の壁際には、それぞれ書記官用の机と椅子が置いてある。
ヨンチョルが腰を下ろしてしばらくすると、一人の男が入室してきた。髪は白く、頬はやせこけ、髭は剃っていないようだった。両手がロープで背中の位置で縛られ、刑務官が椅子まで連れてきた。うつむいているのでヨンチョルには顔が見えなかったが、生気は感じられない。双方の刑務官が着席すると、向こう側の刑務官が「どうぞ。面会を始めてください」と言った。
「キム・ヨンジンさんですね?」
ヨンチョルのその言葉で、やっと男は顔をあげた。そして小さく頷いた。
「私は国税庁ソウル支局のイ・ヨンチョルと申します」
その瞬間、男の目が見開いた。そして、椅子から立ち上がると、すさまじい形相で言った。
「私をここまでぼろぼろにした奴らを、必ず捕まえてください!」
丸々一時間を使った面会を終えると、ヨンチョルは自分の方に背負わされた事の重大さを再び思い知ることとなった。キム・ヨンジンは、自分はこんなことはしたくなかったが、上からの命令でどうしてもやらざるを得なくなり、いつかばれる、いつか見つかるという日々のプレッシャーに耐えられず、いつしか覚せい剤に手を出したということだった。
最後に、どうしても聞いておきたいことがあった。
「でも、なぜ、なぜ私を個人指名したんですか?国税庁で、あなたと共に仕事をしてきた人は無数にいたでしょう。私は十七年も前の一担当者にすぎない。なのにどうして、警察に対して私の名前を出したんですか?」
だが、キム・ヨンジンは何も答えず、ただ沈黙しただけだった。
2017年3月 梅田
大阪駅の西側にそびえたつ、ハービス大阪ビル。そこにリッツカールトン大阪はある。
ノブの主催で、大阪にいるしゃららら上海のメンバーが揃った。ノブは上海外国語大学を卒業後、地元の神奈川に帰り、東京で働いていたが、転勤で大阪にやってきたばかりだった。せっかく大阪に住むようになったからと上海時代の友人に声をかけたのだった。しほりのほかに、山村という名字で「やまちゃん」と呼ばれる女性の三名で集まることになった。
リッツカールトン大阪の五階にある「ザ・バー」は、名門ホテルにふさわしい重厚で落ち着いた内装のバーで、通も納得の品ぞろえを誇る。ウィスキーやカクテルはいずれも百種類以上、しかも、なかなかお目にかかれない銘酒まで置いてある。また世界のシガーを集めており、シガーバーとして楽しむ人もいる。平日は夜のバーとしての営業のみだが、週末に限り、午後も営業しており、そこではアフタヌーンティーが供される。ノブはその席を予約してくれていた。さすがに名門ホテルだけあって、雰囲気も、サービスも、もちろん味も、すべて素晴らしかった。
話題は自然と各自の近況になる。特に、上海にいた当時はみな学生だったのが、今では全員が社会人だから、仕事の話が多くなる。ノブはオフィス家具を扱う商社に勤めており、年度が変わるこの時期が繁忙期だという。実際、この日は週末にも関わらず、アフタヌーンティーを終えたら一度、事務所に戻るという。学生時代は何となく頼りなかったあのノブも、社会の荒波にもまれて、すっかり大人びた雰囲気を漂わせていた。
「いや、実は、自分でいうのもなんですが、仕事始めてからというもの、けっこうもてるんですよ」
突然ノブが切り出した。「絶対嘘やろ」とシホリは苦笑いしながら突っ込む。
「いや、それが本当なんです。ちょっと聞いてもらっていいですか?」
ノブはまず、自分の会社の同期だという女性について話しだした。
「とにかく、二人で食事に行こうってすごく誘ってくるんですよ。同期なんだから、他の同期も誘ってみんなで行こうよって僕は言うんですけど、二人がいいって」
「でも、別にそれだけでノブに気があるとは限らないじゃない?仕事の悩みを聞いてほしいとか」
やまちゃんが言う。
「それならそれでおかしいのが、九十日後とかなんですよ。そんな先のスケジュールなんて、わからないじゃないですか?出張が入るかもしれないのに」
いずれにしろ、「最近もてる」と自ら切り出した割には、説得力が薄い。
「他には?」とシホリが促す。
「これは取引先の社員さんなんですけど」
ノブが言うにはこうだ。オフィス家具を扱うので、顧客は当然、企業である。ある大手電機メーカーのオフィスが引っ越すことになり、それを機にオフィス家具も一新するという。その担当になったのがノブだった。まず、デスクやチェアの数量を確認する。個人が使う以外に、会議室や商談スペースの分もあるので、必ずしも人数分とは限らない。また、チェアも部長級、課長級、平社員とで区別されており、ひじ掛けのあるなしなどで細かく分かれる。その他、プロジェクターやホワイトボード、ロッカーなど、ノブの会社は総合オフィス家具を扱うだけあって、品数は相当な点数がある。
「で、いよいよ納品ですよね。僕の役割は基本的に顧客の必要な家具を把握して、業者に発注して、納品までなのですが、納品日は業者さんが搬入してくれるんです。だから、まぁ現場監督じゃないですけど、その場にいて、問題があれば対応するという感じで。だから、けっこう暇なんですよ、納品日は」
それはオフィス家具を買う側も同じようで、要するに受入側の社員も、納品の日は実際に手を動かすわけではなく、現場にいて問題があれば対応するだけだという。その電機メーカーの担当者は総務の若い女性社員だった。
「それで、まぁお互いに暇なので、いろいろ話しますよね。そしたら、ラインを交換しようって言ってくるんです」
最初はあくまで仕事上の付き合いであり、ましてやノブからすれば相手は大事なお客様。公私混同はよくないからと断ったそうだが、それでもしつこくラインの交換をせがまれたという。
「それで、交換したん?」シホリが聞く。
「しましたよ、あまりにしつこいから。でも、その子がどうこうではなく、やっぱり取引先の女性社員に手出しはできませんよね。だから、ラインが来ても、形式的な返信をするだけにしています」
「でも、ラインの交換くらいじゃ気があるって言いきれないよね?まぁ少なくとも嫌いな男とはラインの交換はしないけど」とやまちゃん。
「じゃ、もうこれ言いますよ。極めつけ」
そういうと、ノブは会社の後輩の話を始めた。
「本当に忙しいときは、残業で、もう終電になってしまうこともあるんですよ。うちの東京本社は地下鉄日比谷線の八丁堀駅が最寄りなんですね。で、ある日、僕が終電まで残業して、いざ帰ろうと思ったら、後輩の女の子もいたんですよ。僕は気が付かなかったんですが、彼女もずっと残業していたみたいで」
「そんな若い女の子が終電まで残業なんて。結構なブラックだね」とやまちゃんが素直な感想を述べる。
「ま、まぁそうなんですが。で、じゃまぁ駅まで一緒に行こうってなりますよね?で、八丁堀駅まで行って。僕は中目黒方面、向こうは北千住方面、つまり、僕らは逆方面の電車に乗るんですね」
日比谷線の八丁堀駅は、ホームがひとつだけで、片側に中目黒方面、もう片方に北千住方面が走っている。
「終電は、中目黒方面が先に出る状況だったので、僕はそっち側に並びました。そしたら、彼女もくっついてくるんですよ。おかしいなと思ったけど、でもまぁ先に来る中目黒方面の電車に僕が乗ったら、向こうは反対側から北千住方面に乗るんだろうと思って。終電が来るまで、普通に会話していました。そしたらですね」
それは、中目黒方面の最終がホームに入ってきたタイミングだったという。
「その子が、僕のスーツの袖を引っ張るんです。で、何かと思ったら、こう言ったんです。『帰りたくない』って」
シホリは笑いをこらえきれなかった。それはやまちゃんも同じだった。別にノブは笑いを取ろうとして言っているわけではなく、真剣に自分の身に起こったことを話しているだけなのだが、なぜか笑ってしまう。これがノブの良さでもあった。
ひとしきり話し終えると、ノブはトイレに立った。それをきっかけにシホリは携帯をチェックした。
何気なくフェイスブックを開くと、美しい景色が目に入った。これはどこだろう。西洋の美しい街並み。誰が投稿した画像だろうと思って見てみると、上海留学時代の韓国人の知り合い、ソヘだった。
「ねぇやまちゃん、上海留学時代の、韓国人のソヘって覚えてる?」
やまちゃんはしほりと同じ学年だった。
「覚えてるよ。なんか、実家がすごい資産家なんだよね?」
「そうそう。彼ね、今カナダにいるんだって」
「へぇ。なんで知ってるの?」
「フェイスブックで。ほら」
シホリは自分のスマホをやまちゃんに見せた。
「きれいだねぇ。彼はカナダで何してるの?」
プロフィールを開いてみる。
「大学院だって。経営学の修士って書いてある」
「やっぱり金持ちは違うね。上海で中国語を学んで、それが終わったら今度はカナダで経営学か」
ノブがトイレから戻り、シホリはスマホをバッグに仕舞った。
2017年8月 バンクーバー
ソウル拘置所での面会から一年。ウンボングループのCFOが麻薬取締法違反で逮捕されたことに端を発したこの調査は、いよいよ大詰めを迎えていた。
ヨンチョルはカナダのバンクーバーにきていた。ちょうど一年前、驚きの証言を聞かされ、その解明のために、この一年間を費やしてきた。バンクーバーに来たのもこれが四度目だった。
容疑者のキム・ヨンジンは、警察からの取り調べの最中に、驚きの証言を始めた。
「創業家は巨額の脱税をしている」
キム・ヨンジンは麻薬取締法違反の現行犯で逮捕された。そのため、検察の捜査は薬物に関する余罪や使用期間などに向けられていたが、そんな時に突然飛び出した創業家の脱税疑惑である。しかも、CFOという経理のトップを司る男の証言だ。信憑性は低くない。これがきっかけとなり、パク・ユジュンがヨンチョルのもとを訪れ、そこから本格的な調査が始まったのだ。さらに、ソウル拘置所でキム・ヨンジンから直接話を聞いたヨンチョルは、かなり具体的な脱税の実態を聞かされることになる。それが、カナダのバンクーバーを経由した資金の流れだった。
ヨンチョルはこの一年、バンクーバーで一人の青年を追ってきた。彼の銀行口座や交友関係から、金の流れを調査していた。言葉は現地の大使館職員が通訳してくれた。すると、明らかにおかしな資金ルートがあることに気が付いた。
この青年はウンボングループ創業者のオ・ヒョンスンの長男だった。現在、バンクーバーの大学院で経営学を学ぶために留学している。この長男はバンクーバーで、カナダ・トラスト銀行の口座を開設していた。表向きは、留学費用や生活費を送金するためとなっているが、ヨンチョルはそれだけではない金の流れをつかんでいた。長男は、学費などは定期的に大学院の指定口座に、現金振り込みで支払っていたが、それ以外に、定期的に現金を引き出していた。しかも、かなりの額と頻度だ。当初は生活費のためかと思ったが、さらに調べると、長男の消費行動はほとんどがクレジットカードやネット決済であり、現金を使う場面は極端に少ない。にもかかわらず、一人暮らしの青年の生活費とは思えない金額が引き出されていたのだ。これは、金持ち息子の単なる浪費とは思えない。その現金の行方はどこだったのか。過去、三度の追跡調査で明らかになったその行き先は、なんと中華街だった。
バンクーバー市内のペンダー通りにあるその中華街は、北米最大ともいわれる規模をほこり、多くの中国人が住んでいる。その規模から、独自のコミュニティを形成しており、中華街の中には中国系の銀行もある。だが、この銀行は正規のものだ。ウンボングループの長男が現金を手に接触していたのは、一人の中国人だった。英語も中国語も話せる長男にとって、コミュニケーションは容易だろう。ヨンチョルと国税庁の更なる調べによって、この中国人はマカオのカジノにコネクションを持っていることが判明した。どうやらこの男を通じて、カナダの銀行で引き出された現金はマカオのカジノに流れているようだった。もちろん、このカナダドルがそのままマカオに運ばれることはない。バンクーバーで渡した金額から手数料や送金報酬が差し引かれ、残り分をマカオのカジノで何らかの形で受け取れる仕組みだろう。創業者であるオ・ヒョンスンは定期的にマカオに渡航していることも、出入国管理局を通じて押さえている。「カジノで息抜き」が理由というが、ソウルから出た金が、バンクーバーの中華街を経由してマカオに流れているであろうことは明白だった。ただ、この中華街を経由して流れる資金の全貌を解明しようと思ったら、とてもヨンチョルではできないし、韓国国税庁だけでも無理だ。カナダ当局、マカオ当局、さらにはその他の国や機関の協力が必要になるだろう。国税庁はそこまでは望んでいない。あくまで、ウンボングループ創業家の脱税疑惑を解明できればそれでよかった。
ヨンチョルにとって四度目のバンクーバー調査のある日のこと。創業家の長男は、大学院での講義を終え、バーガーショップで友人とランチをして別れると、その足でカナダ・トラスト銀行のいつもの支店へ向かった。ヨンチョルが大使館の協力を得て追尾する。銀行到着から一時間。ジェラルミンケースを抱えた長男が出てきた。そして、そのまま配車アプリで中華街へ向かう。自分の車を使わないのは、足が付くのを警戒してか。ヨンチョルは、これらの行動はすでに過去二回、しかと目撃してきたし、当然、写真とビデオに記録するのも忘れていなかった。中華街での行動もいつも通りで、見た目は普通の中華レストランに入っていく。平日のランチ後のこの時間は、レストランも、中華街も、人気が少ない。謎の中国人はこのレストランの奥におり、長男はレストランに入ると、テーブルに座るでもなく、ウェイトレスに案内されて、そのままバックヤードに姿を消した。奥で密談をしていることだろう。
三十分ほどすると、長男はレストランを後にした。広めの通りまで歩くと、配車アプリで帰りの車を呼ぶために立ち止まった。それを見届けたヨンチョルは、ダメ押しの証拠を得るための行動に出た。慌てた様子を装って近づき、わざとジェラルミンケースにぶつかったのだ。
「あ、すいません!」
そう言った瞬間、ヨンチョルはジェラルミンケースに何も入っていないことを確認していた。少なくとも、ここに現金が入っていれば、こんなに軽くないだろう。令状が取れれば、カナダ・トラスト銀行で現金を下ろした日時は後追いで確認できる。
バンクーバーの中華街で韓国語が聞こえてきたからか、長男は親しみのある笑顔を向けて、ヨンチョルに話しかけてきた。
「韓国人ですか?」
「そう。君も韓国人?」
「そうです」
「ごめんね。不注意でぶつかってしまって」
「いえいえ。お怪我はありませんか?」
「大丈夫。ありがとう」
長男は、最後にもうひとつ質問してきたが、ヨンチョルは、それには答えずにその場を去り、歩き続けた。胸に複雑な気持ちを抱えていた。なぜなら、この長男に会ったのが、これが初めてではないことを思い出したからだ。それは十七年前。まだウンボングループが起業されたばかりの頃だ。当時は自社ビルなど当然なく、小さなテナントの事務所で、創業者であるオ・ヒョンスンも、創業メンバーの一人であるキム・ヨンジンも仕事をしていた。その時、ヨンチョルはよく小さな男の子に会っていた。オ・ヒョンスンも妻も、立ち上げたばかりの会社を経営することに必死で、学校を終えて帰宅した息子を自宅に置きっぱなしにしていてはかわいそうと考えたのであろう。長男はいつも、学校が終わると事務所に来て遊んでいた。
ある日、仕事を終えて帰ろうとするヨンチョルに、長男が話しかけてきた。
「おじさんは何の仕事をしているの?」
何度も顔を合わせているうちに、親しみを感じてくれたのだろう。
「おじさんは税金に関するお仕事をしているんだ」
「税金ってなに?」
「税金は、大人になったら、みんな国や市に払うんだよ」
「お金?」
「そう。お金だ。君も大きくなったら、お父さんのようにいっぱい稼いで、いっぱい国や市にお金を払って、立派な人間になるんだ」
「税金を払う人は立派なの?」
「そうだよ。税金は道路を作ったり、信号を作ったり、公園を作ったりすることに使われるからね」
わかったような、わからないような表情でじっと自分を見つめていたあの時の児童。その子は今、バンクーバーでソウルから送られてきた金を引き出しては怪しく動き回っている。この金の流れが明るみになり、脱税疑惑で捜査の手が及ぶのは、もはや時間の問題だ。となると、この青年はどうなるのか。本人も理解してやっていることなのか、それとも父親から一方的に指示されて、何も知らずにやっているだけなのか。それによって、この青年の罪の大きさは異なるだろうが、少なくとも、何事もなく済むことはないだろう。
大使館の車がヨンチョルの前に止まった。乗り込む直前、振り返ってみた。配車した車がまだ到着しておらず、長男はスマホを片手にまだ道路わきに立っていた。彼の最後の質問。それは「あなたはどんなお仕事をされているんですか?」だった。
だが、ヨンチョルは何も答えず、ただ沈黙しただけだった。
2017年10月 大阪 梅田
それは、ある日、突然やってきた。
シホリのフェイスブックに、ソヘからのダイレクトメッセージが届いたのだ。
「今度、大阪に行くんだ。一緒に食事でもどう?」
カナダの大学院に留学していることを偶然フェイスブックで知ってから、シホリはソヘの更新を楽しみにしていた。そこには、美しいカナダの景色がよく投稿されたからだ。ソヘについては何とも思っていなかったが、カナダの景色が楽しみだった。
そんなソヘからの突然の誘い。しかも二人だけで食事に行きたいと言っている。そもそも親しくしていたわけではないので少し戸惑ったが、カナダの話は聞いてみたい。それに、せっかくカナダから大阪に来るというのだから、むげにもできない。そう思い直して、シホリはオーケーと返事した。
「大阪で食べたいものがあれば、レストランを予約しておくよ」と送ると、すぐに返事がきた。
「お好み焼きが食べたい。ジャパニーズ・チヂミ!」
ソヘは大阪駅周辺のホテルに宿泊するとのことだったので、梅田で店を予約した。その店は、道頓堀発祥のチェーン店で、西梅田にも店舗があった。
この段階では、シホリはソヘに対してまったく何の特別な感情もなく、単に昔の友人が大阪に来るから、一緒に食事に行く程度にしか思っていなかった。まして、カナダにいる人物なのだ。向こうが大阪に来るからということで誘われたから応じただけのこと。もちろん、これまでさほど親しくなかったにも関わらず、なぜ来阪に際して、わざわざ自分に連絡してきたのか?という疑問はあった。まして、留学時代の友人と会いたいなら、シホリと二人だけでなく、「他にも誘っておいたから」とか「あの頃の友人で、他に誰か大阪にいない?」などの言葉があってもいい。それがまったくなく、二人で食事しようという。そこだけが不明であったが、別に深く考えることでもない。一緒に食事をして、楽しめばいいだけだ。カナダでの生活がどんなものなのか、興味がある。
当日。時間ぎりぎりにお店に到着すると、もうソヘは来ていた。
「久しぶり!」
英語で挨拶を済ませると、店内へ。
「英語と中国語、どっちがいい?」とソヘが聞いてきた。
「どちらでも。でも、中国語は結構忘れちゃったから、英語がいいかな」
「じゃ、このまま英語で。日本語ができればよかったけどね」
「私も韓国語ができればよかったけど」
ソヘは、上海時代の思い出や、カナダでの生活について語ってくれた。海外生活が長いからだろうか、レディーファーストで身のこなしが自然なソヘとは、一緒にいて楽しく、退屈を感じることはなかった。
「よかったら、どこかバーでも行かない?もっといろいろ話したいんだ」
お好み焼きを食べ終えると、ソヘが言った。シホリがオーケーすると、どこかいいバーはない?と聞かれた。
「この近くにリッツカールトンがあって、そこのバーなら、前にアフタヌーンティーで使ったことがある」
二人は、リッツカールトン大阪のザ・バーへ向かった。幸い、席は空いていた。
シホリはお酒が飲めないので、紅茶を注文した。
「実はね、今度、ソウルに新たなヘアーサロンを開業する予定で。これから内装の設計をするんだけど、今回は僕がデザインとサービスを担当するんだ」
聞けば、ソヘの会社はレストランや美容系のお店をソウル市内に何店舗も持っているが、すべて両親の世代が主導して建てたものであり、ソヘは少し時代遅れに感じているという。それを父親に話すと、では新店は自分の思い通りにやってみろと言われた。バンクーバーで北米の最先端のデザインを学び、それをもとにアイデアを複数用意して、今回、ソウルに一時帰国するのだという。その前に、バカンスを兼ねて大阪に寄ったとのことだった。
「バンクーバーではまだ講義とゼミ、それに論文が残っているから、今回は一時帰国だけど、このタイミングで内装の業者と、デザインの最終決定をしておかないと、来年の開業に間に合わないんだ」
「開業はいつ?」
「旧正月が明けたら、すぐに」
すると、ソヘはカバンから設計図を取り出し、スマホでいくつもの画像を見せながら、シホリに聞いてきた。
「ねぇ。まずは看板なんだけど、この三つのうち、どれが一番いいと思う?」
そこには、この美容サロンの店名であろうハングル文字と、その下に英語で「ビューティーコア」と書かれていた。
「え?私が答えるの?」
「うん。深く考えなくていい。直感でいいんだ」
シホリは、見た目でなんとなく、ひとつを選んだ。
「なるほど。これね。じゃ次は、店内の壁紙なんだけど」
ソヘはまた聞いてくる。
「いや、だから私に聞いても…」
「いや、シホリのセンスは素晴らしいと思うよ。だから、意見を聞きたいんだ」
壁紙を答えると、次はウィンドウ。そしてチェア。そのすべてにおいてソヘは複数ある候補のなかから「どれがいい?」と聞いてきた。シホリも、途中からは躊躇する気もなくなり、言われた通り直感で次々に答えていった。
「ところでさ、ビューティーコアは日本語では何て言うの?」
「ビューティーコア…。美の核心?」
「それ、スマホで送ってくれる?日本語で」
言われたとおりに送ると、ソヘは満足したようだった。
「僕のインスタをフォローしてよ。もちろん、僕も君をフォローする。そこに、このサロンのこともアップデートしていくから」
終始、ソヘのペースで会話が進んだ。シホリがそろそろ帰ると言うと、ソヘが言った。
「シホリ。僕と付き合ってくれないか?」
あまりに突然すぎると、人間は声を失ってしまうものらしい。目を丸くして、ソヘの真意を測りかねて、シホリはただ茫然としてしまった。
「ごめんね、急にこんなこと言って。でも、僕はシホリのフェイスブックをずっとチェックしていたんだ。シホリがアップロードする画像は本当にセンスがあって、すごくいいなって思ってた。それに、僕は来年の六月には大学院を卒業して、ソウルに戻る。さっきの美容サロンの経営をしながら、父の会社の手伝いをすることになっているんだ。そうすれば、ソウルと大阪で距離もそんなに遠くない。そして…」
ソヘはテーブルに置かれていたバーボンを一口飲むと、意を決したように言った。
「将来的には、シホリとソウルで一緒に暮らしたい」
これってプロポーズ!?シホリはわけがわからずにいたが、ソヘの表情は真剣そのものだった。
「とりあえず、返事は待ってもらえる?あまりに突然で、なんて言ったらいいのかわからない」
「もちろん。ごめんね、君を混乱させちゃって」
ソヘはそういうと、店員に会計を頼んだ。
2018年3月 ソウル ~エピローグ~
「それで、シホリさんは、オーケーしたんですね?」
ワンシムニ駅の近くのホテルにチェックインし、一夜が明けた。シホリとノブはホテルのレストランで朝食を取った。その時、先月、まだ語っていなかった詳細をノブに聞かせた。
「うん。いろんなことが不透明なままだったけど、悪い人じゃないし、まずは始めてみようと」
「国際結婚に抵抗はないんですか?」
「全然。どこの国の人でも、どこに住もうと、別に気にしない。あ、中国はもういいかなって思うけど」
「で、付き合い始めたのに、二ヶ月くらい前から、急に音信不通になった?」
「そう。ラインも電話も。でも、インスタだけは更新されてるから、訳が分からないの」
ソヘから告白された後、彼は大阪からソウルに帰国し、その後、バンクーバーへ戻った。シホリが告白を受け入れてからは、毎日メッセージのやり取りがあり、時には電話で話すこともあった。ソヘはとてもまめな性格で、よく連絡をくれた。それに、大学院の状況や、ソウルの美容サロンのことも話してくれたから、卒業したら、ソウルに戻って美容サロンを経営するというストーリーもかなり現実味を帯びていた。
「それで、先月、美容サロンがオープンしたんですよね。名前は、えっと」
「ビューティーコア」
「あ、そうそう。ビューティーコア」
驚いたことに、音信不通にも関わらず、ソヘのインスタグラムは常に更新されていた。一体どういうつもりなのかと腹立たしく思ったが、さらに奇妙なことが起こっていた。ビューティーコアについての情報が更新されるたびに、シホリはある事実を知ることとなった。
「内装、壁紙、チェア…全て私が大阪で選んだやつなの」
「え?じゃソヘさんは、シホリさんが選んだ通りのデザインでお店を作ったってことですか?」
「そう。しかも『美の核心』って日本語まで、そのまま店の看板に印刷して」
シホリはソヘのインスタグラムを開き、オープンしたばかりのビューティーコアの画像をノブに見せた。
「約二ヶ月前っていうと、去年の年末ですね。そこからぱたりと連絡は途絶えたのに、ソウルの美容サロンは着実に準備が進められて、その画像がインスタグラムにアップロードされる。それについて、シホリさんがコメントやラインを送るのに、一切、返事がない」
「そう」
「なぜなんでしょうね?」
「それがわからないから、訳が分からないの」
結局、音信不通の原因がわからないまま、シホリは今、こうしてソウルまでやってきた。直接、店を訪問するために。
「失礼な言い方ですけど、急に音信不通になるような男なら、放っておこうとは考えなかったんですか?」
「もちろん、それも考えた。でも、どうせならはっきりさせたい。このままうやむやで終わるのは、なんか気持ち悪いなと思って」
「なるほど。今日、はっきりしますかね?」
「さぁ。そもそもお店にいるかどうかもわからないしね」
「今、ソウルにいるのか、バンクーバーにいるのかははっきりしているんですか?」
「返信がないからわからないけど、三日前のインスタには、お店にいる写真が更新されてたから、たぶん、ソウルにいるんだと思う」
「でも、大学院はどうするんでしょうね」
「そこがわからないの。もうわからないことだらけ」
ノブはスマホでビューティーコアの場所を調べだした。
「そろそろ行きますか?心の準備は?」
「心の準備なんてない。もしソヘがいれば、どういうことなのか聞く。いなければ、あきらめる。それだけ」
二人は会計を済ませるとタクシーに乗り込んだ。
ソウル地検特捜部は、物々しい雰囲気に包まれていた。
「諸君。今日まで本当にご苦労だった。我が地検と国税庁ソウル支局との合同捜査により、ウンボングループの脱税疑惑は、もはや間違いないだろう。裁判所からの令状も昨夜、無事に下りた。予定通り、これからガサ入れを行う」
ヨンチョルは、国税庁の職員として、ガサ入れの経験があった。だが、それはあくまで税金を滞納して払おうとしない個人宅への訪問であり、危険な目に遭うことはまずない。時おり、怒鳴り散らしたり、ヒステリックに叫ぶ人はいたが、それも時間をかけてなだめれば、大概は収まる。しかし、今回は話が別だ。なにせ相手は大手企業。しかも、その脱税額は数百億ウォンにものぼる。さらに、創業者の長男がカナダのバンクーバーで暗躍していた形跡もあり、これはもはや立派な組織犯罪だ。ガサ入れが始まれば、メディアがすぐに嗅ぎ付けて周辺はパニックになるだろう。もちろん、警察はすでに現場整理の準備を万全にしているが、二年前のCFOの麻薬取締法違反に続き、今度は脱税疑惑。もはや、この大企業は倒産か、よくても他社に買収され、創業家は表舞台から姿を消すであろう。
ガサ入れは三つのチームに分かれていた。ひとつはウンボングループ本社、ひとつは創業家の自宅、そして長男が店長をしているという美容サロンだ。ヨンチョルは三つ目のチームに入っていた。ヨンチョルはじめ、国税庁の職員の役割は、当事者に脱税疑惑の説明したり、数ある証拠品と思しき中から、より重要と思われる帳簿やデータを、現場で地検に教えることだ。ウンボングループの本社にはヨンチョルの上司が、創業者の自宅にはヨンチョルの後輩が同行していた。ヨンチョルが美容サロンのチームに配置されたのは、長男のバンクーバーでの動きを実際に調べた当事者だからだ。
ヨンチョルを乗せた車は、先月に新規オープンしたばかりの美容サロン「ビューティーコア」に到着した。
ビューティーコアに到着したシホリとノブは、まずは外から店内を伺ってみた。
「どうですか?いますか?」
ノブが聞く。
「うーん。いないみたい。少なくとも、ここからは見えない」
しかし、髪を切るわけではないため、入店するわけにもいかない。開店時間からまだ少ししかたっていないからか、店内に客の姿はない。
シホリは、改めてこの美容サロンの全体を眺めてみた。インスタで見ていたあの光景が、そのまま目の前にあった。店の看板や店内に見える壁やチェアは、大阪でソヘに言われるがままに自分が指定したものだ。なぜ。なぜ連絡をくれなくなったの。何があったの。気持ちが冷めてしまったのなら、それでいい。そう言ってくれればいい。納得はできないが、受け入れるしかない。そもそも、まったく何の感情もなかったのに、こちらの感情に火をつけたのはソヘのほうだ。最初は実感が湧かなかったが、連絡を取り続けるうちに、シホリにも徐々にソヘに対する感情が芽生えだした。そして、本気で将来を考えた。一緒にソウルで暮らしたい。そう言ってくれた。嬉しかった。そうするための心の準備ができ始めていた。それなのに…。まだあの言葉を信じていいの?それとも、あれはただの無責任な発言?いったい、どうずれば…。
ぼんやりと店内を見つめながら、目まぐるしく変化する自分の気持ちを消化しきれずにいたその時だった。
突然、パトカーが数台、店の前に止まったかと思うと、ぞろぞろとスーツ姿の屈強な男たちが入店していった。受付の店員に何やら話しかけている。戸惑った様子の店員が奥に向かって叫んだ。その時だ。
「あ!」
シホリが叫んだ。店の奥の扉が開かれ、ソヘが出てきたのだ。
「いた!あそこ!」
シホリは思わずノブに叫んでいた。
「おぉ!よかった。ソヘさん、いたんですね」
シホリの声に驚いたのか、パトカーから最後に降りてきた男が振り向いた。
日本人かな、とヨンチョルは思った。若い男女が店内を指さして大声で会話している。何語かわからないが、日本語のように聞こえた。
「ヨンチョルさん、お願いします」
地検の隊長が、ヨンチョルをビューティーコアの店長と引き合わせた。
「よし。全員、取り掛かれ」
スーツ姿の男たちが、一斉に店内になだれ込む。
「動かないで」「何も触らないで」「今日はもう営業はできないから」「ライトも消して」
騒々しい中、ヨンチョルは聞いた。
「オ・ソヘさんですね?」
「はい」
「私は国税庁ソウル支局のイ・ヨンチョルです。ウンボングループに脱税の疑惑があります。ここに、ソウル地方裁判所が発行した捜査令状があります。法に基づき、あなたとこの店を捜索させていただきます」
ヨンチョルは、オ・ソヘがたいそう驚いて、狼狽するだろうと予測していたが、意外にもこの青年は冷静だった。そして、しばらくの沈黙の後、言った。
「やはり、そうだったんですね」
「やはりとは?」
「昨年の十二月末に、留学先のバンクーバーに戻ろうとしたら、出入国管理局から連絡があり、出国を止められました」
ソヘはクリスマス休暇のために、十二月末にソウルへ一時帰国したのだが、年が明けてバンクーバーに戻ろうとすると、空港で出入国管理局に出国を拒否されたと語った。その場の説明では、バンクーバーである中国最大手の通信企業のCFOが逮捕された事件を引き合いに出し、「中国だけでなく、各国の大企業について、親族の渡航が制限されている」ということだった。自分はカナダの大学院に通っていて、ビザもちゃんと取得しているのにと反論したが、結局、出国許可が下りずに、カナダへ渡航することができなかった。その時に、何かが変だと感じていたという。
「では単刀直入に聞くが、君は、バンクーバーでの自分の行為が、一族の脱税のためであったと、知っていたのかね?」
ヨンチョルは、すぐにこの青年が認めてくれれば、捜索もだいぶ手間が省けると思った。自白以上の決定的な証拠はないからだ。
だが、ソヘは何も答えず、ただ沈黙しただけだった。
シホリとノブは、あまりのことに茫然としていた。いったい、ソヘとこの店に何があったのか。
それでもシホリが遠くから見つめていると、ソヘがこちらに気付いた。その瞬間、シホリは足を踏み出していた。今、この店で起きていることが、ただ事ではないことはすぐにわかったが、それでも一言でいい、ソヘと言葉を交わしたかった。
ソヘは外で出てこようとしたが、出口を見張っているスーツ姿の男に止められた。シホリが入り口に近づいても、男は同じように厳しく入店を制した。ソヘは、入り口の横の窓ガラスに手を付けて、シホリを手招きした。シホリはすぐに駆け寄った。しばらくの間、二人はガラス越しに見つめあった。シホリには、ソヘの目は、自分を騙したり、もてあそんでいるようには見えなかった。そして、何かを伝えようと口を開いていた。だが、ガラス越しなのと、店の周辺が騒がしいこともあり、何を言っているのか聞こえなかった。シホリは、あらん限りの声で、英語でソヘに話しかけた。
「ねぇ、私たち、どうなるの?もう一緒になれないの?」
その声が届いたのか、届かなかったのかはわからなかった。
だが、ソヘは何も答えず、ただ沈黙しただけだった。
そうこうするうちに、ガラス越しに会話する二人に気が付いた先ほどの見張りが、それを制して、ソヘは店の奥に連れ込まれてしまった。やがて、やじ馬が店を囲み始め、スマホで写真を取り出した。気付くと、パトカーの数が増えており、店の周辺にはいつの間にかロープが張られ、立ち入り禁止となっていた。シホリとノブも、警察によってロープの外に追いやられてしまい、もうなす術がなかった。
結局、シホリとノブはホテルに戻ってきた。シホリは昼食も取らずホテルの部屋に閉じこもり、英語版の韓国ニュースサイトをくまなく調べていた。ビューティーコアで何が起きているのかを調べるためだ。記事が出始めたのは、夕方になってからだった。
「ウンボングループの創業者と妻、そして長男が逮捕。巨額の脱税疑惑で」
「脱税ルートは、ソウルからバンクーバー、そして闇ルートでマカオへ」
「長男が留学先のバンクーバーで工作」
大企業のスクープで踊る記事。その中で、一番詳しく報じている記事をシホリは読んだ。
「ソウル地検特捜部は、一年以上前から脱税疑惑でウンボン社に目を付けていた。そして、証拠固めのために、国税庁の職員が何度もバンクーバーへ極秘裏に渡り、調査を続けた。その結果、この創業家の脱税ルートを突き止めた。長男のオ・ソヘは、昨年の十二月にクリスマス休暇を利用してソウルに一時帰国すると、その後、出国を許されなかった。地検特捜部は、とにかくこの創業一家を国内に閉じ込めさえすれば、確実に逮捕できると踏み、脱税の極秘調査が彼らに気が付かれてしまうリスクを冒してでも、長男を出国禁止にした。さらに、証拠隠滅を警戒した特捜部は、裁判所の令状をもって通信会社に協力を求め、長男はじめこの一家がスマホで海外とメッセージのやり取りをすることを極秘裏にシャットアウトした。これらの施策が功を奏し、今回の逮捕につながった」
他にも、あらゆる英文記事を読み漁ったが、ここまで詳しく報じているものはなかった。どうやら、これが真相のようだ。これなら、タイミング的にも、ソヘと連絡がつかなくなった理由も説明がつく。ソウル当局にスマホの海外通信をシャットアウトされていたというのだ。
疲れ切ってベッドに横になったシホリは、うとうとして、いつの間にか眠りに落ちていた。目が覚めると、夜の八時だった。明日は帰国。荷物をまとめなければならない。
携帯を見ると、ノブがラインを送ってきていた。
「食事にいきませんか?」
もう二時間前のメッセージだ。シホリは気が向かなかったが、出かけることにした。お腹は空いていたし、誰かに話して少しでも楽になりたかった。
「じゃ三十分後にロビーで」
食事はホテルの近くで済ませた。シホリは自分で調べた記事の内容をノブに話した。ノブは脱税で逮捕という思いがけない展開に驚きを隠せない様子だったが、反面、納得した様子も見せた。
「脱税疑惑をかけられて、韓国から出られずにいたんですね。それに、海外とのやり取りをシャットアウトされてしまったから、シホリさんにも連絡が取れなかった」
これから、どうするつもりなのですか?とノブに聞かれたが、答えようがなかった。恋人が警察に逮捕されるなど、誰が予想しようか。
食事を終えてホテルに戻ろうとすると、ノブが改まった口調で話しかけてきた。
「あの、シホリさん。こんな時に、こんなこと言うのも、あれなんですが…」
シホリはまさかと思ったが…。ノブは頭を下げ、右手を差し出して、言った。
「僕と付き合ってください。ソヘさんのことは、とても気の毒だとは思います。でも、おれも、ずっとシホリさんのこと想ってたんです。こんなことがあったから、シホリさんの気持ちの整理もまだついていないと思いますけど、でも、おれ、真剣です。シホリさんを幸せにしたいです。だから、おれと付き合ってください」
だが、シホリは何も答えず、ただ沈黙しただけだった。
Stillness(沈黙)。
そこには、言葉では言い表せない、悲喜こもごもの感情が渦巻いている。
了