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09 お兄さん

 その美しい男は夢見る様に甘い瞳を涙で切なく潤ませて、ふわふわきらめく茶色の髪をみっともなく振り乱す。

 そして私の前まで駆け寄ってくると、迷う事なく絨毯の上に跪いた。

「何でそこで頷いちゃうの! 戦って! 戦ってふみさん! そして勝って僕を奪って!」

「えぇー……やだよ」

 思わず素直に拒否してしまった。

 酷い。ふみさんは酷い。銀次は私の足元で、そんな事を言ってめそめそとぐずる。

「僕、ふみさんの家に婿養子に入って家業を継ぐ覚悟くらいはできてるんだからね!」

「うちはただのサラリーマン家庭だよ」

 足元の頭をべしべし叩いて視線を上げると、ホラーの波動が消えていた。真正面のソファでは、ブルーのドレスの浅野さんが目を見開いて固まっている。

 まぁ、気持ちは解る。済まんな。貴公子の中身、こんなんで。

 銀次が部屋に飛び込んできた時から、部屋の扉は開かれたままだ。扉の位置はソファを横から見る形で、そこから幾つかの人影がこちらの様子を窺っていた。

 中の一人が、可憐に震えて頭を振った。

「ごめんなさい、ふみちゃん。ちょっと見たかっただけなの。ちょっとだけ、女の子が銀ちゃんを取り合ってるところが見たかったの。こんなに恐いなんて思わなかったの」

 お母さんは、小さく震えながら言った。胸をレースに包まれた手で押さえ、ちょっと涙ぐんでいる。ホラーの波動にやられたらしい。

 今日のお母さんは首までをレースで覆うドレスに合わせ、繊細な髪を結い上げていた。パーティー用の華やかなメイクで可憐に輝き、迫真の天使ぶりがすごい。震えてるけど。

 その隣では、お父さんが震える妻を気遣う様子でお母さんの背中に手を添えていた。

 そして、もう一人。淵野夫妻の後ろに、銀次と年の近そうな鋭い顔の男性がいる。お兄さんだ。ちょっと硬そうな黒い髪と、持ち前の苦々しさがお父さんにそっくりだった。

 お兄さんは眉間に少しシワを寄せ、ぴかぴかの革靴で部屋の中に踏み入ってきた。そして浅野さんの前に立ち、淡々と告げる。

「別室でお父様がお待ちです。今後の事を話し合いましょう」

「まぁ、どうして? そんなに大騒ぎすることかしら。悪い話ではないもの。家格の釣り合いも丁度いいし、常務とは気が合うの。銀次郎さんとも、うまくやって行けるわ」

 浅野さんが淵野常務の秘書なのは、元々、お父さん同士が知人だった関係だそうだ。社会勉強を兼ね、部下として子供を預けたり預かったりする事は珍しくはないらしい。

 つまり浅野さんもそれなりの家のお嬢さんと言う事で、確かに、そう言う意味では釣り合いがいいのかも知れなかった。

 しかし「いいえ」と、お兄さんは首を振る。

「上手く行くとは思えませんね。弟は、貴方が思う様な人間ではありません。ご覧なさい。あれが弟の本性です」

 お兄さんがビシリと指で示した先では、銀次が絨毯に座り込んでいる。そしてソファの上の私の膝に頭突きをする要領で、ぼよんぼよんと頭を弾ませているところだった。

 ……いいのか、銀次。たった今、お前の本性これになったぞ。

 しかし銀次はどうでもいいのか、頭を弾ませ続けている。さっきからずっと、ふみさんのばか、と小声でぶつぶつ呟いているから、単純に聞こえてないだけかも知れなかった。

 どちらにしても、貴公子の株価が大暴落である事に変わりない。

 浅野さんは困惑に、ちょっとだけ落胆が混ざった様な表情を浮かべた。それでもまだ、銀次を見ながら「でも」と言う。

「わたしに一番釣り合うのは銀次郎さんです」

 今更諦め切れないだけか、本当にそう思っているのかは解らない。だけど、何だか不思議だった。彼女に取って大事なのは、一番釣り合って一番ふさわしいって事みたいだ。

「一番だからいいの?」

 思わず尋ねる。

「一番じゃなくなったらどうするの? 銀次と結婚したあとで、もっと自分と釣り合う人と出会ったら? だったら元々、一番って思ったのは間違いで銀次は二番だったって事でしょう? そんな相対的な事で決めちゃうの? それって何か、変じゃない?」

「僕、あの人とは結婚しないよ」

「例え話だから。ちょっと黙ってなさい」

 膝の上から不満げに口を挟んだ銀次を黙らせ、浅野さんに視線を戻す。

 そんなふうに決めた夫に、愛情なんて持てるのだろうか。それとも私が知らないだけで、結婚に愛情なんか必要ないとでも言うのだろうか。解らん。私にはもう、何も解らん。

 さっきまで呪いの日本人形みたいだった美人秘書は、黒い目をきょとんと瞬かせていた。長い髪をさらさら揺らし、頬に手をやりながら少しだけ頭を傾ける。

 あ、この顔は多分あれだ。

 その発想はなかったってやつだ。


「世話を掛けてしまったね」

 お兄さんに付き添われ、浅野さんは別室に移った。そのあとで、お父さんが言う。

 声からして苦々しくて、見上げてみたら顔はもっと苦かった。何となくそんな気はしていたが、今回の事が浅野さん発信だと言う事にちょっと責任を感じているっぽい。

 いや、私も自分で文句くらい言いたかったんだけど。でもほら、そんな。罪の意識みたいな顔されたら、ほら。

「そうですねー、困っちゃいましたねー。まさかの美人秘書が、こんな面倒な事をねー」

 ついつい誘惑に逆らえず、雑に恩を着せてしまう。お父さんは居心地悪げに、引き結んだ口元をむにむにと歪めた。

 昔から知ってる子だし、秘書の仕事もよくやってる。と、油断して、迂闊に銀次の部屋まで浅野さんを連れてきたとか。その時に隣家の女がすごい銀次になれなれしくて浅野さんが危機感を持ったとか。それで今回の計画決行したとか。そもそも浅野さんのほうは前から銀次を知っていて、その辺込み込みでお父さんの所に入ったとか。呼び戻された銀次の欠員を埋めるために本社から出向させる社員を浅野さんが小池に決めて、お父さんがその書類にぽんぽん判子押したとか。そうして出向してきた小池は思いっ切り買収されてて、ガンガン私に体当たりしてきたとか。

 全然。

 ほんと全然。気にしなくていいから。

 もういいんだ。この一連の感じが大体解った辺りで、お父さんの事はお母さん指導の下で一度ぎゅうぎゅうに詰めたんだ。

 ちょっとこちらもやり過ぎて、追い詰められたお父さんが小切手帳を出しながら「好きなだけ……好きなだけゼロを書きなさい……」とか言い出した時に、全部許したんだ。

 あれは私の人生の中で、最も甘美なセリフだった。

 それに、今回の事ではお父さんも苦労したはずだ。なぜなら私達は、結構最初のほうから問題をお父さんに丸投げしていた。

 何かが起こっている。

 あの夜、真夜中の再会を果たした私と銀次に解ったのはそれだけだった。

 話をする内に、何かがおかしいと言う事は解った。しかしスマホが同時に壊れ、それを持ち込んだショップの関与を疑うに至っては、二人そろって頭を抱えた。これは無理だと。

 証明しようと思ったら、確実にめんどい。と言うか無理だ。我々は、一般人なのだ。

 諦めは早かった。私も銀次も、自分達が割と直球勝負で生きていると自覚していた。

 そこで、お父さんだ。この時点ですでに浅野さんが絡んでいたし、浅野さんはお父さんの秘書だ。それに、ほら。お父さんって、得意そう。何となく、裏工作とか。

 だからさっき、私がどやどやと浅野さんにぶつけたのは、本当はお父さんが裏を取って教えてくれた話だ。私やったのは、回収できた動画を提出したくらいの事だった。

「お父さんも、お疲れ様でした」

「まぁ……得意な人間がやればいい事だよ」

 本心から言ったつもりだったが、お父さんはやはり居心地悪げに口元を歪めた。

 その鋭げな表情が緩むのを見たのは、同じソファに座るお母さんがお父さんに腕を絡めて、隣からそっと笑い掛けた時だけだった。マジお母さんピースフル。


 お兄さんが戻り、話し合いの結果を告げた。

「娘さんは退職するそうです。一筆頂いておきました。あとは、痛み分けと言うところですね。あちらとは取り引きもありますし、これからは多少の便宜を図って頂くと言う事で」

 これ以上は正直、難しいでしょう。

 お兄さんは最後にそう言って、お父さんにファイルを渡した。それから自分の名刺を一枚取り出し、それを私の手に持たせた。

「今回の事は特殊だと思うが……。弟といると、困る事もあるだろう。何かあれば、連絡するといい」

「兄ちゃん……ダメだからね。ふみさんは僕のだからね。好きになっちゃダメだからね」

 身内の仏心をナンパ扱いする銀次をシカトし、受け取った名刺をじっと見詰める。余りにも見ていたせいか、淵野一家が不思議そうに私の手元に視線を注いだ。

 困惑した様子で、お兄さんが問う。

「名刺が、どうかしたか?」

「いや、お兄さんの名前って金太郎じゃないんだなーって」

「ふみさん、本人の前でよくそれ言ったね」

 複雑そうにぐにゃりと眉を歪めた兄弟の顔は、何だか意外と似ている気がした。

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