02 高田さん
淵野はもてる。
ものすごくもてる。
しかし本人は、少なくともプライベートの中身は、ポンコツである。
「ふみさん、どうしよう。会社用のシャツが全部ピンクなんだけど」
休日、朝から玄関の呼び鈴を連打され、渋々ドアを開けてみればこれである。
うちの玄関先では淵野がピンクに染まった大量のワイシャツを抱え、端正な顔をへにゃへにゃと困らせていた。
「……だからさ、あんたもう洗濯は全部クリーニングに出せっつったじゃん……」
「でも、ふみさんが言った! 下着とかは自分で洗っていいって言った!」
そうだな。言ったな。ぱんつくらいなら失敗しても普段は見えない。ぱんつ見せる相手には、ゆるふわな中身も受け入れてもらえ。
「だからシャツもいける気がした」
「すごいなぁ。根拠が何もないなぁ」
アイロンも掛けられないのになぁ。
結局そのピンクに染まったワイシャツ達は、漂白剤と一緒に私が洗濯機にぶち込む事になった。
「お洗濯までしてくれるなんて、ふみさんと僕はもはや夫婦と言っても過言では」
ない。と言い掛けた淵野の足を、思い切り踏んで休日は終わった。
週明け、淵野銀次郎は私が漂白し私がアイロンを掛けたワイシャツに身を包み意気揚々と出社した。
そして午後一番で出先から戻るなり、私の所へ泣き付いてきた。
「ふみさんふみさんふみさんふみさん!」
「やかましい!」
オフィスの中に入ってくる前から、自分の名前を連呼しながら近付いてくるのが聞こえていた。まずこの時点で、かなりイラつく。
私と淵野が親しいと社内でばれると、困る事も多い。さすが生まれながらのイケメンは身に覚えも多いらしく、一応、少し前までは遠慮や配慮があった。
しかし今はない。美人受付永井の件で、隣に住んでて助けを求めたら飛んでくるスープの冷めない距離だと認識されてしまっている。間違いではないが、正確ではない。
しかし正確に、淵野の母親に頼まれてご当地グルメの詰め合わせを受け取りつつ仕方なく子守りをしていると説明すると、今より更に私が悪者になる。なぜなのか。
パソコンから離した目を声のほうへ移すと、淵野は私のすぐ横にいた。椅子に座って視線の高さをまっすぐにすると、目の前にワイシャツの腹がある。その腹が、茶色い。
お前それそのシャツお前私が昨日漂白してアイロン掛けてやったシャツじゃねぇかお前。
「ふみさん。僕、汚されちゃったよ」
そう言う遊びはやめろ。
目の前の腹を拳で殴ると、コーヒーの匂いがした。
「取引先の高田さんって人がいるんだけど」
「それ女?」
「女」
男子トイレの手洗いシンクでワイシャツをがしがしと揉みながら問うと、上半身裸の淵野は私の手元を覗き込んだまま頷く。
裸の淵野は危険物である。一人で放置する訳には行かない。そして当然、女子トイレに連れて入る事もできない。
いや、淵野なら許されるかも知れないが、そんな前例を作ってはいけない。だから私が平間、入ります! と叫んで男子トイレにお邪魔している。特に伝えておきたいのは、先客はいなかったと言う事だ。
淵野の話では、今日は取引先で高田さんを交えた商談があったらしい。話を終えて帰ろうとする同僚と淵野を、エントランスまで送り届けてくれたそうだ。
しかしエレベーターが一階で止まると同時に高田さんがよろめいて、手にしたテイクアウトカップのコーヒーを淵野のシャツにこぼしてしまった。
「熱くはなかったからよかったんだけど、高田さんが慌てちゃって。シャツ洗うから今すぐ脱げって裸にされそうになってさ。恐くなって逃げてきちゃった」
「そりゃお前、裸にしたかったんだろ。察してやれよ」
その発想はなかったのか、いつもきらめく淵野の顔がへにゃへにゃと情けなく歪んだ。
一応はシミの落ちたびしゃびしゃのシャツを、給湯室から持ち出したジッパー付きの袋に詰めた。そのまま淵野に渡してやろうかと思ったが、やめた。
ピンクシャツ量産事件は、つい昨日の事だ。大人しく私が持ち帰ろう。
仕事を終えてゲートを通ると、ロビーも兼ねたエントランスには結構人が残っていた。残っていたと言うのは、ほとんど誰も動いていないからだ。
そして誰もが、一組の男女をそれとなく見ている。彼等の視線の先には女性と、何かを話している淵野の姿があった。
淵野はちゃんとシャツを着ている。由緒正しい残業の下僕である先輩が、着替えを貸してくれたからだ。身頃が少し余る割に袖が短めではあったが、シャツの持ち主が静かに泣いた以外は大して問題なく着れた。
エントランスにいる女性は無造作なウェーブが大人っぽいミディアムボブの髪を揺らし、長身の淵野を一心に見上げる。
「わたしのせいですから、クリーニング代くらいは出させて欲しいんです」
「いえ、本当に気にしないで下さい。クリーニングも、出さずに済みそうなので」
あ、あれ高田さんか。
会話が聞こえて、全て察した。すると、野生の勘だろうか。困り果てた様子で、淵野が不意に顔を上げた。目が合う。やめろ。助かった! みたいな顔をするんじゃない。
「ふみさん、今帰り?」
淵野、私は決めたぞ。お前の部屋に隠してある高いワイン、味わいもせずに飲んでやる。
「そっちは? 残業?」
「うん。まだちょっと掛かりそう」
いきなり割り込んで普通に話始めた私に対し、高田さんは遠慮がちに会釈して見せる。
「こんばんは、淵野の同僚です。お邪魔してすいません。そちらも、まだお仕事ですか?」
「あ……いえ、今日、淵野さんの服を汚してしまったので。そのお詫びに」
高田さんはグレーのワンピースに包まれた腕で、ピンクベージュのコートを抱きしめながら言った。仕事終わりにしてはきちんとメイクした顔が、火照った様に少し赤い。
かわいい人に見えるけどなぁ。どうして普通にアプローチしないのか。
「あぁ、その話は聞いてます。お仕事終わられてから、わざわざ謝りに? 大変ですね。でも早めに洗ったので、クリーニングの必要はなさそうですよ。お気になさらず」
「そうなんですよ。本当に」
淵野がどこかほっとした様に笑って言うと、高田さんは少しぼうっとその顔に見惚れた。それでもすぐに気を取り直し、首を振る。
「でも、それじゃわたしの気が済みません。改めてお詫びしたいので、連絡先、交換させてください」
「じゃ、こうしましょう。シャツは、クリーニングに出します。今度お仕事で高田さんにお会いする時、淵野に領収書を持たせます。その金額を負担して下さい」
「うん。それいいね。そうしましょう。では、高田さん。また職場で。まだ仕事が残っているので、これで失礼します」
晴れ晴れとした様子でゲートの向こうへ逃げて行く淵野に気を取られている内に、私もさりげなくその場を離れた。しかしビルを出て少しした所で、追い付いた高田さんに声を掛けられてしまった。
「あの、すいません」
走ったのだろう。少し息が乱れている。まだコートは着ずに手に抱えたまま、高田さんは不安そうな顔付きで私を見詰めた。
「あなたは……淵野さんとお付き合いされてるんですか?」
「私が? まさか」
「じゃあ、どうして……邪魔するんですか。迷惑掛けたから、お詫びしたいだけなのに」
まぁ、私が悪者になるよな。関係ないのに邪魔してるからな。
しかし連絡先を交換させると、今の百倍面倒になる。断言してもいい。絶対になる。
なぜなら、淵野は適当に遊ぶと言う事をしないからだ。そして私の知る限り、恋人を探そうと言う気も持ち合わせていない。
この辺は、あくまで本人達には悪意なく、しかし淵野の関心を求めてさんざん彼の精神をいたぶってきた女性達に責任がある。あいつ、ちょっと女性不信っぽいんだよ。
だから連絡先を交換させても、メールや電話の対応に疲れて私に泣き付いてくるのは目に見えている。今よりこじれた状態で。
「どっちかって言うとね、高田さん。迷惑掛けられてるのは私なんですよ」
詫びるなら、私に詫びるのが筋だと思う。
「付き合ってないんですよね? だったら、あなたには関係ないでしょう?」
「困ってる友達を助けちゃいけないの?」
淵野と私が友達かどうかは別にして。
「あいつ、仕事残ってるって言ってましたよね。なのに散々引き留めて、それって私ならすごく迷惑だと思うけど。お詫びしたいって言いながら、更に迷惑掛けて何がしたいの」
あとから思うと、これはちょっと言葉が過ぎた。腹が立ったし、八つ当たりもあった。
帰りにクリーニングを出さなきゃいけなくなったし、何より、平気で仕事の邪魔をしてくる人間が大嫌いだ。――でも、言い過ぎだ。
隣家のワインをがぶ飲みしつつ、反省した。